李陵伝説


 李氏の系図の一番上にあるのは始皇帝を刺客・荊軻を送って暗殺しようとした燕太子・丹を討った秦の六虎将軍の一人・李信です(他のメンバーは王翦を筆頭としてその子・王賁と蒙武と筆の蒙恬の親子に桓騎です)。そして「…」が続き、その後に飛将軍李広の名が出てきます。李広は呉楚七国の乱や対匈奴戦争で活躍した「石に立つ矢」の故事で有名な将軍です。問題にしたいのはその後です。李広には上から順に李当戸・李椒・李敢の三人の子がありました。長男の李当戸に関しては有名な記録が残っています。武帝の学友の韓嫣という人物を度を過ぎた無礼だと殴りつけたのです。しかしその長男・李当戸及び次男・李椒は父より早くに没しました。残ったのは末子の李敢でした。彼も似たようなことが伝わっているのですが、殴った相手が有名です。大将軍衛青だったのです。衛青は殴られた理由が解っていたので(父・李広が死んだ遠因は衛青にあったのです)、何も言いませんがその甥の霍去病が黙ってはいませんでした。狩猟のときにどさくさに紛れて李敢を射殺したのです。
 注@:このエピソードから解るように衛青は姉の衛子夫が寵愛を得たことから急に出世し、奴僕として仕えていたはずの武帝の姉の平陽公主と結婚することにまでなりますが、腰の低い人物だったことが解ります。方やその甥の霍去病は叔父の出世に伴い幼い頃より貴族として宮中で育ったせいか典型的なタカビー貴族だったようです。実力が伴ってるからまだ良いですが(いや、だからタチが悪いのか)。ただ、その性格の違いとは裏腹に庶民に人気があるのは圧倒的に霍去病の方でした。司馬遷はこのことから人気というのはいい加減なものだと『史記』で言っています。また、李広と比べても李広が雨が降ってきたら雑兵と一緒に濡れていたのに対し、霍去病はテント内で蹴鞠をしていたとか、兵達が飢えていたとき泉を見つけると李広が部下達が水を飲み終えてから水を飲んだのに対し、霍去病は出征に当たって武帝から大量の珍味を下賜されたが食べきれず棄てたとき兵達は飢えていたと言ったエピソードを見た上で李広の子を霍去病が謀殺したとなると、霍去病の悪い点ばかり見えてきてしまいます。
 そしてようやく主役の登場、李当戸の遺児・李陵です。彼は祖父・父・叔父と同じくプライドの高い人物だったようです。彼は衛青・霍去病や父達が活躍した前期匈奴戦争の後の李広利らの後期匈奴戦争に従軍する事となった。彼ははじめ、李広利の部隊の輜重隊を率いることになっていたのですが、前述のようにプライドの高い彼はそれを断り、五千の歩兵を率いて居延海から北上しゴビ砂漠を縦断するという前代未聞の偵察任務をかって出たのである。
 偵察の任務はうまくいっていたのですが、運悪く単于率いる匈奴の主力最精鋭部隊と遭遇してしまうのである。李陵軍は戦いつつ南へ南へと進み、単于も李陵の戦いぶりから漢の最精鋭部隊による囮作戦であると思い、伏兵を恐れて退却を考え始めたときに事件は起こった。李陵軍の管敢という人物が李陵軍を裏切り、匈奴軍に走り漢軍の内情を洩らしたのである。李陵の最後の差し違えるという作戦も失敗し漢の砦を目の前にして李陵は匈奴の捕虜となってしまう。
 かたや李広利ら主力は敵軍と遭遇できず大した成果を上げられず「百聞は一見に如かず」の猛将趙充国の活躍で何とか逃げ帰るといった有様だったので、総合的には漢の敗北となってしまった。この敗戦の責任を諸将は李陵になすりつけようとしたのである。李陵をただ一人史記の著者・司馬遷が弁護したのだが、その後の戦で漢の将軍が匈奴にて漢から投降した李将軍が単于に策を授けているという情報が公孫敖により入ったのだ。本当は李緒という人物だったのだが、これが李陵であると勘違いされ、司馬遷は宮刑に、李陵の三族は皆殺しになったのである。李陵はこれにより本当に匈奴に降伏してしまう。
 また、その後の蘇武とのやりとりが残っています。蘇武は前期匈奴戦争に従軍した蘇建の子であり、李陵の友人でした。彼は李陵の外征より前に匈奴に遣いし、部下の不始末にせいでその地に軟禁されており、もしかしたら李陵の従軍も蘇武の救出が目的だったのかも知れません。そしてその蘇武に既に降っていた李陵は降伏を勧めなければならなくなってしまいます。結果だけ見るとマヌケですが本人からすればシャレになりません。余談ですが蘇武は漢に戻ることができました。李陵も武帝の死後戻る機会があったのですが戻らず、匈奴にて病死。また李陵が捕虜となったとき主力を率いていた李広利も、武帝の後継者問題紛争に巻き込まれて匈奴に降るハメになり、そこで生涯を閉じています。後世において李陵と蘇武を描いた『二胡羊図』という、太った羊と痩せ細った羊を描いた図がどちらが李陵でどちらが蘇武だと言う論争が起こっています。
 注A:李広利は衛青と同じく武帝の寵妃の兄弟−こちらは兄です。李陵の祖父の李広と名前が似ていますが全くの別人。彼の妹の李夫人は歌妓で、兄の李延年・李広利はその楽師をしていました。李延年の方はその方面で活躍しましたが、李広利は楽師の仕事もからきし。武帝は大宛遠征をする将軍を決めかねているとき、燻っていた李広利を任命したのですが、別に将才があったわけでもないらしく、勝てて当たり前の大宛遠征に一度失敗し、二度目は更に万全の装備で漸く勝ちますが、その後の匈奴戦争ではやはりからきしでした。李陵がコイツの補給係をしたがらなかったのも頷けます。そして李陵事件。見ようによっては李広利は霍去病より嫌われるタイプかも知れません。
 衛子夫の時と同じで武帝に彼女を紹介したのは平陽公主です。武帝に美女を斡旋する仕事をしていたのは姉の平陽公主だったようで、さらに匈奴戦争に活躍した将軍は全員二人や公孫賀(妻が衛子夫の長姉、ちなみに霍去病の母は次姉)や公孫敖の一族ように武帝に寵愛を受けた女性の親族でした。李広利の妹の李夫人の孫である昌邑王劉賀は一度皇帝に立てられそうになりますが、武帝死後の独裁者であった霍去病の異母弟・霍光のよって廃されています。
 李陵の故郷では自分の地から李陵という人物を出したことを恥としていたのですが、この裏切り者・李陵のイメージが五胡十六国時代に悲劇の英雄へと変化するのである。そして西涼の李玄盛、そして北魏分裂期に活躍した李賢、さらには唐を立てた李氏も李陵の末裔を自称しているのである。やはり後漢末の蔡炎の悲憤詩などの影響で哀れみが起こり、さらに劉細君や王昭君と同じく未知の地で暮らしたというロマンそして李玄盛の子孫であると言うことから英雄視されていったのでろう。


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