[八]劉遽の決意
翌年、張一族の処刑以来ショックで、寝込んでいた蜀漢皇帝劉禅がこの秋、ついに崩御した。
諡号は安楽帝であった。
無論、劉甚が新帝として即位したのだがこのとき登艾は姿を消していた。
「黄皓、何度言わせれば気がすむのだ。予に後宮はいらん。」
「しかしそれでは我々の仕事は…。」
「それは登艾が帰ってから考える。」
「その登艾ですが、出奔したという噂が。」
「それはない。」
「しかし…。」
「ええい!それ以上そのてかてかした顎を予に近づけるな。」
「しかし政務が滞っております。どうでしょう。この際新丞相に閻宇を据えられては…」
閻宇は馬忠の元上司の閻芝の孫、閻晏の子で名家の人物だが黄皓に取り入って出世した人物だと言うことを劉甚は知っていた。宮廷にはこのような人物が少なからずいた。
劉甚は思った。
−そのために登艾を動かしたのだ。
「代行なら諸葛瞻に任せておるではないか。それに蒋宛、費韋、董允らも補佐しておる。」
「しかし…。」
「何度黙れと言われれば気がすむのであろうな。」
こう言われればさしもの黄皓も黙るしかなかった。
一方−
劉遽は迷っていた。
−淵とでも名乗って張玉蘭とともに匈奴の仲間に加わろうか、それとも長兄が皇帝に即位するのを待って、漢に戻ろうか。
今、彼は定軍山頂上にある大きな石の上で胡座をかいている。
漢の名丞相、諸葛亮がその下に眠っているのも知らずに…。
峨眉山で捕まりそうになったとき、劉遽はとっさに北上し、たどりついた山が定軍山だったのである。
張玉蘭は今、泉に水浴びをしにいっている。男という者はすべて助平なので劉遽ものぞきたい。しかし劉遽は石の上でじっと別のことを考えながら耐えている。
しかしある光景が劉遽の頭をよぎった。
早朝、若い娘がとある山奥の泉にいる。
いや、まだ幼い少女といったほうがいいかもしれない。
するりと白い服が彼女の丸い肩を滑り落ち、なまめかしい白磁のような肌が露わとなる。
その美しい少女は裸身でこっそりと沐浴しながら、髪も洗い清めようと言うのだろう、泉につかるとと肩までのびた黒髪を伝って、雫が背中を滴り落ちていく。
気持ちよさそうにぱしゃぱしゃと自らの体に水をかけるその美少女。
朝の陽光が泉の水に反射し、彼女の体を照らし出す。
雪か玉かと見まがうほどに白く魅惑的な肌の、ほっそりとした美しい曲線を描く肢体の芸術とも言える腰のくびれの割に、ふくよかな乳房は水しぶきの中で揺れ弾み少女は気持ちよさそうにに髪を流す。
その様子は逸話にある天女が羽衣を脱ぎ捨て、沐浴しているかのようでもある。
髪を洗い終わったのだろう、少女は岸にあがると、岩のうえに脱ぎ捨てた衣服を拾いあげその美しい肢体を隠してしまう。
劉遽は自己嫌悪に陥り、首を激しく振り突っ伏してしまった。
この光景が劉遽の頭を過ぎったのはほんの一瞬のことだったのだが…。
−私は彼女を汚せなかった。彼女の体は美しすぎたのだ。そこを、蜘蛛のような私の手や蛞蝓のような私の舌がはいまわるのが恐かったのだ。しかし彼女は汚されたと思い込んでいる…。彼女はもう私の妻のつもりなのだ。その証拠に彼女は逃亡してすぐ字をほしがった…。とりあえず璞姫という字を与えて落ち着かせたが…。
劉遽は座り直し、額の汗を拭う。
−暑いな。
「もう季夏か。」
しげみの中から高い声。
「違いますよ。」
「誰だ。」
「登丞相の使者で宗徳艶と申します。」
「ああ、あの女か。」
「…。」
「で、御用の向きは。」
「漢にはまだあなたが必要だと…。」
「親父の目はまだ黒いか。」
「いいえ、安楽は崩御されました。」
劉遽は笑う。
「はーはっはっは。安楽となったか…。さすが莫迦親父。」
しかしすぐにもとの目に戻った。
「少し考えたい、明日また来てくれるか。」
「かしこまりました。」
張玉蘭が湿った髪を手櫛でときながら泉から戻ってきた。
「誰がきていたのですか。」
「…漢からの使者だ。…我らを追う者はもはやおらぬらしい。」
先程の自分の妄想の姿と一分の違いもない張玉蘭の姿に少なからず動揺しながら劉遽は言った。
「それは吉報ですわね。」
「どうする。漢に戻るか。」
劉遽は無意識に張玉蘭の薄衣の上から先程の脳内の映像と照合して、彼女の裸体を透視し赤くなっている自分に気付き、再び劉遽は自己嫌悪している。
「それは…あなたにお任せしますわ」
「眉毛を剃るか。」
劉遽は匕首を懐から出した。
「いいえ、先日剃ったばかりですわ。」
「そうか」
劉遽は髭を剃り始めた。
髭を剃り終わると匕首をそこにある木に突き刺した。
−私は彼女が好きだ。しかし私は義姉上と彼女を重ねているのかも知れぬ。そして彼女はどうか…。
「もっと焚火の近くへ寄れ。」
「でも…。」
(恥ずかしい)
「早く寄れ。」
「…はい。」
劉遽は張玉蘭の向こう側の肩に手をやった。…そして口づけをせまる…。
−彼女がもし私を好きならこのまま放浪し続けるのもいいだろう。
彼女の濃緑の瞳に劉遽の姿が映る
(ちょっと待って)
彼女は劉遽の胸に手をやってそれを阻んだ。
−決まりだな…。
「私は漢へ戻る。」
登艾と共に帰還した劉遽、張玉蘭を民衆は歓迎した。皇帝劉甚は皇后崔玲と共に城門まで出てで迎えた。
劉甚は劉遽の手を握った。
「よく戻ったな。」
「こうやって逃げ続けられたのも兄上が手を抜いて捜索していてくれたおかげです。」
崔玲は黙っていた。
劉遽は自分が夫と寝た翌日飛び出したのだ。原因は自分かも知れない。
−でも…。こうして新しい女(ヒト)を連れて帰ってきたのだから私のことはふっきれたはずね。
「しばらく休養したら政務についてもらうぞ。これで登艾の肩の荷も軽くなろう。」
劉遽は崔玲と張玉蘭を見比べた。
−この二人…並べてみるとまるで姉妹のようだな。
「さあ早く風呂に入って着替えるんだ。詳しい話はその後…」
劉遽は風呂に入りながら考えた。
−張玉蘭という女人は私のことを好きではない。しかし私に奪われたと思い、私の妻であろうとしている…。
劉遽の屋敷は劉甚の命により綺麗に掃除されていた。劉遽は自分の部屋とは別に張玉蘭の部屋を用意した。
その夜…。
劉遽は寝台に仰向けに横たわっていた。
−彼女を今更他の者の所に嫁にやるわけにはいかぬし…。
「幼衡様。」
戸の外で声がしたので戸を開けてみると…そこには張玉蘭の姿が…。
「璞姫!」
彼女は寝巻姿であった。彼女の濃緑の瞳はかつていた森の中を思い出させた。
「待ちきれず来てしまいました。」
−彼女は結局私の妻になるしかないのか…。
彼女は微笑んだ。
−美しい…。
「定軍山にいたときのことですけれど…。」
張玉蘭が話し始めた。
−いや、次兄(劉恂のこと)ならば…。喜んで彼女を娶ってくれるはずだ。これだけ嫂上に似ているのだもの。
「あの時私はあなたの口づけを拒みましたけれども…。」
劉遽はくすんだ笑顔を浮かべた。
−次兄のような方ならば彼女も満足だろう。
「誤解しないで下さい。あなたのことを嫌っているわけではありません。」
「無理しなくていいよ。」
「そんなことはありません。」
「君は次兄の所へいくと言い。あの人なら可愛がってくれるだろう。」
張玉蘭は声を振り絞って言った。
「嫌ですっ!」
彼女はそっと劉遽に抱きついた。
「私はあなたでなければ…。」
劉遽の両手は震えながら宙をさまよっている。
−抱きしめたい抱きしめたい抱きしめたい抱きしめたい…。
「お慕いしています…。」
こらえきれず彼は彼女を抱きしめた。
彼女の豊かで、そして柔らかな胸の感触が劉遽に伝わってくる。
暫くして劉遽は彼女の両肩を持って引き離した。
張玉蘭は劉遽を上目づかいに見上げて言った。
「私は…あなたのものです」
劉遽はそっと彼女の唇を自分の唇でふさいだ。
その晩、寝台の上で張玉蘭は語った。
「もうお気づきだと思いますが私は父上の本当の子ではないのです…。」
「やはりそうか。」
「父はかつて『彝陵の戦い』に従軍し、その戦乱の中『胡華蓮』という名の胡人の女性を見そめ、連れ帰ったのです。その時その女性が背負っていた赤子が私だったそうです。その女性は父上の庇護のもとで、私を『瓏』と呼んで可愛がりました。しかし私の母は最後まで父上を受け入れなかったそうです。」
張玉蘭はふっと淋しそうな表情になり、続けた。
「そして私には母の記憶がありません。父上は母の死後私を『玉蘭』と呼び、私を人間としてではなく、道具として扱いました。しかし殿下は…殿下は初めて私を一人の女性としてみて下さいました。」
彼女は一転して顔を綻ばせ劉遽をじっと見つめた。
「璞姫…私をもう殿下と呼ぶな…。」
「えっ?」
張玉蘭は言葉通り驚いた表情をしている。
「なぜならそなたももう殿下なのだから…。」
張玉蘭はしばらく間をおいて
「うれしいっ」
と劉遽の腕に抱き付いた。
「お、おい。」
言うまでもないが劉遽が言ったのは張玉蘭がすでに妃殿下となっているということである。
こうして漸くこの二人も結ばれ、蜀漢のことは全てうまくまとまったのである。
登艾により後宮の絨毯が宦官達の血で紅に染まったこと以外は…。
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