[六]泰始の変(肆)
舞台は劉甚の屋敷へ戻る。
「あっ」
小さな悲鳴と共に星皇之剣の落ちる金属音が辺りに響きわたった。
「瑛姫。」
二人と打ち合っていた劉甚は思わず振り向いた。
「そこまでだ甚。」
劉甚を呼びす手にしたもう一つの黒い影は、崔玲の綺麗な首に匕首を突きつけ、不気味な目を劉甚に向けていた。
劉甚にはこの時点でこの男の正体が分かっていた。
今、劉甚をもっとも憎んでいると思われる男だ。
劉甚の後ろの二人が劉甚の首の横に剣を突きつけた。
「筆架叉を置け甚。」
歓喜に震える声で劉甚に命令した。
「しっかり抑えておけよ。」
後ろの二人が剣を反対側の手に持ちかえ、両側から肘をかけて腕を組み固定した。
−こんなものいつでも振り解けるではないか。
「くくくくく…。」
徐々に高くなっていく笑い声…恐らくその覆面の向こうではとてつもない快楽に引きつる顔がある事だろう。
その男は自らの覆面に手をやるなり引き剥した。
「ふはーはっはははははははははは。」
そこにあったのは成都一の色男・劉文衡の顔ではなかった。
目の形は異様にゆがみ、頬の肉は目により、鼻の上には深いしわが刻み込まれ、口は横に広く裂けていた。
ついには口を開き、唾を飛ばして笑い始める。
匕首を持っていない方の手で腹を抱え、一瞬俯いた。
その隙を劉甚は見逃さなかった。
両拳を握りしめ、前へやり勢いよく引いた。
そうすることにより必然的に後ろの二人のそれぞれのわき腹に肘撃が入るのだ。
二人の剣は大きな音を立てて床に落ち、二人はわき腹を抑えてうずくまった。
「ぎゃあ。」
(痛っううう)
「む?!」
劉濬が正気に戻って顔を上げた瞬間、劉甚の真似をした崔玲の肘撃が劉濬の水月に入った。
「ぐっ」
そして再び顔を上げたときには飛び込んできた劉甚の拳が頬にめり込んでいた。
「がああっ」
悲痛な叫びと共に劉濬は壁に激突して倒れた。気絶しているようだ。
「英衡…。」
崔玲が劉甚に寄りそってくる。
(恐かった。)
劉甚もそっと崔玲を抱いてやった。
「ひい」
入り口でうずくまっていた最初の一人が逃げ出そうとした。
しかし天幕の所で何かにぶつかりひっくり返った。
「ひゃあ…」
その男は後ずさった。
天幕の向こうから現れた巨漢は張苞であった。
「悲鳴が聞こえたようなので来てみたら…何者だ貴様は。」
張苞は強引に覆面を引き剥した。
「新平王殿下…。」
新平王劉讚である。
残り二人はもう言うまでもなく安定王劉瑶・西河王劉綜であった。
劉甚が思い出したように尋ねる。
「伯父上、母上が亡くなられたというのは本当なのですか。」
「ああ、本当だ。それから皇后陛下は実は養女で、本当は驃騎将軍の娘だったそうだ。」
「ええっ」
劉甚は張苞の顔を見た。
−伯父上は伯父上ではなかったのか…。
しかし張苞は劉甚の方を向いてはいなかった。
ただ、手に握りしめた黒頭巾を見つめていた。
(まさかとは思ったが、我が一族が勝手に動いてしまったか…。)
張苞は立ち上がった。
(責任をとらねばなるまい。)
そして張苞は黙って部屋を出て行った。
入れ替わりに陳到が駆け込んできた。
「太子殿下!お怪我はございませんか?」
「陳到。」
目を開けたまま劉甚が振り返る。
「遅いぞ!」
「申し訳ございません。…いったい何が起こったのですか?」
(なぜ張将軍が出て行かれたのだ…。)
「英衡…。」
崔玲は劉甚の寝衣の背を握った。
劉甚は腕の中にある崔玲の事を思い出した。
「おい陳到。早くこの四人を縛って連れて行け。」
「どこへ…でございますか。」
「無論、父上のところへだ。」
「しかし、皇帝陛下はまだ後宮ではないかと。」
「我々にも朝が来たのだ、父上にも朝が来よう。」
「…つまり宮城へ入ってもよいと。」
「そうだ。」
登艾が言う。
「来るならいつでも来い!」
小男の方がおどり込んできた。
「いくぜ、親父の仇ぃぃぃ」
小男は鞘を捨て、大きく直刀を振りかぶって向かってくる。。
−直刀かっ?
「たああ。」
−縦の打撃かっ?
−くるぞ
激しい金属音がその場に響きわたった。
趙淑が考える。
−もう少しだ!もう少しで切れる。
先ほどから続いている、銀笛の研ぎ澄まされた穴で縄をこする作業により、着実に縄は削られていった。
−切れた!
「よし!」
急に縄が切れたので、大男は反動で後ろへ倒れた。
「これでもう決まった。俺の勝ちだ!脂肪野郎!!!」
「ぬう!」
大男が身を起こそうとしたとき、その上空にはすでに飛び上がった趙淑の影があった。
「がっ!」
大男は鳩尾に思い切り着地され、痛みで失神した。
登艾は直刀の縦の打撃を鉄尺の両端を両手で持ってしっかりと受け止めていた。
「む?」
小男は鉄尺と接触している自らの直刀を右に傾け、左に滑らせた。
「ちっ」
小男はすでに鉄尺の弱点を見抜いていたのだ。
(鉄尺には鍔がない。)
登艾は右手を放し、指を切られるのを防いだ。
「はあ。」
小男は左に滑り抜いた直刀を右に振った。
「ぬう。」
登艾はそれを左手一本で持った鉄尺で防がねばならなかった。
登艾は労力を最小限にするため、鉄尺の短い方の辺で直刀を受け止めた。
(ほう…。左手一本で防げるのか…。ならば…。)
「これならどうだ!」
小男は直刀から右手を放し、背中からもう一本の直刀を抜き放ち、右から登艾に向かって振った。
更に大きな金属音が響きわたった。
その打撃をも登艾は鉄尺の反対側の辺で受け止めていた。
「ぬう…。」
小男は気を取り直し、今度は直刀を二本とも振りかぶり、振り下ろした。
かつて陳到が姜維相手に使った技である。
「とおう。」
今度の金属音は前のものより更に大きかった。
登艾が受け止めると小男は手前に直刀を滑らせ、登艾を突く態勢を作った。
−これは…。
登艾はこれに似た攻撃を受けたことがあった。
趙淑(当時は文淑)と初めて相まみえ、一騎打ちをしたときである。
−この攻撃のかわし方は…。
小男が叫ぶ。
「馬鹿な!」
(私の作戦が失敗した。…!!!)
−こうだ。
登艾は突いてきた二つの直刀の点を結んだ直線上に鉄尺を持ち、二つの突きを受け止めたのである。
その時、大男が出てきた。
−今度はそいつが相手か?
しかし大男は闘う様子を見せず、小男に耳打ちした。
「兄貴…やばいぜ…百ぐらいの騎兵がこっちへ向かってる。」
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