[五]泰始の変(参)


「あの…閣下。」
「なんだ?…鴦。」
 趙淑は首を低くし、周りをきょろきょろ見回した。
「この様なときに外で…釣りなどよろしいのでしょうか。」
「なあに…かまわんさ。…おおっ」
登艾は一匹の魚を釣り上げた。
「鴦…。」
 登艾は暴れる魚をびくに押し込んだ。
「一曲頼む…。」
「はい…。」
 趙淑は懐から銀の横笛を出し、静かに吹き始めた。
笛の音色が臥龍湖の湖畔に響きわたる…。
登艾は目を閉じ、考えを巡らせ始めた。
−張一族が我々を狙っておればいずれ襲いかかってこよう…。
登艾は一息ついた。
−それより問題は…。
登艾は釣竿の先を見つめた
釣竿は簡単に作ったもので、鉄尺に髪を一本つけただけのものだった。
鉄尺とは読んで字の如く鉄の定規で、長剣ぐらいの長さがあり、幅は4pほど。
登艾はふだんこれを剣の変わりに身体に帯びている。
これは登艾の戦い方を象徴するもので、登艾は子の時代珍しく戦う前に戦場となる土地へ出向き、その場所を細かく調べてから綿密に作戦を練るという、計画的な戦術をとる者だった。
この事実は、参内するときは武器となるものは外すので、皇帝劉禅の目には触れないが、戦場で武器として使う叉といい、生まれつきの吃音も含めて人から蔑視される理由の一つと考えられる。
特に二つの武器については、彼の出身が卑しいと周りに知らせんばかりの代物であったが、彼は周りの目より実用性を重んじる人間だったため気にしなかった。
−奴に勝てるだろうか…。あの鍾会に…。
涼を倒し、呉と同盟を結んでいる限り当面の敵は魏であった。
 登艾は涼州から戻る際に、魏との戦場になりうる場所を幾つか見てきていた。
そして魏には登艾の宿敵・鍾会がいるのである。
鍾会は登艾と違い、魏の功臣・鍾ヨウの子という地位があったが、かつての袁術のような地位に驕り、富に溺れるような愚か者ではなかった。
前述した通り幾つもの兵書を読みそらんじ、実際に寡を以て多を破る修練を積んだかなりの強者であった。
−近々、鍾会は攻めてくるに違いない…。
水面に垂れた釣り糸を中心に、小さな波紋が広がった。
登艾の手にも確実に手ごたえがあった。
しかし登艾は余計な行動をとると考えが途切れるかもしれないので捨て置いた。
−戦術において鍾会に劣るとは思わない…。
登艾の手には獲物の手ごたえがしつこくきていた。
−奴と私には大きな違いがある。
登艾の心には陳倉の戦いがよみがえった。
彼は陳倉の戦いで、生まれついての吃音による命令の遅れにより、余計な被害を出したのだ。
−兵は神速を尊ぶ。命令の出る遅さが勝敗を分けないとも限らぬ。
登艾の手から手ごたえが消えた。
獲物が逃げたのだ。
登艾は竿を上げ新たに餌をつけ始めた。
趙淑はと言うと、登艾が獲物を見過ごすまでの一連の動きを見て、何か考え事をしているのだと察しした。
曲調がゆるやかになった。
「丞相が考え事をしているから、何か話しかけられるのでは?」との趙淑の気遣いだった。
その時、趙淑の耳にはおかしな音が舞い込んできた。
小刻みに音が鳴り続けている…ひゅんひゅんひゅんひゅん…。
趙淑は笛を吹くのを止め、後ろを振り向いて笛を強く握りしめた。
 −この音は縄の先に刃物や重りをつけてぶつける武器…。
 そして登艾も振り向こうとした瞬間音のパタ−ンが変わった。
ひゅぅんと長い音を立てて細長いものが降り下ろされる。
その狙いは…登艾の頭蓋!
登艾の脇にいた趙淑は、飛んでくる筋を読みとりとっさに銀笛を繰り出した。
先端に近い部分の縄が、水平に繰り出された笛にぶつかり、そこを軸に縄が笛に巻き付いた。
趙淑はすかさず笛に巻き付いた縄の先端の小さな刃物を確認した。
−[金票]!縄[金票]か。
登艾は目の前で助けられ、多少驚いてはいたが、すぐに鉄尺から糸を外して身構えた。
「でかしたぞ鴦。」
そう言い終わらないうちに、しげみから二人の黒装束の男達がそれぞれのかけ声とともに襲いかかってきた。
一人は先ほど縄[金票]を登艾に飛ばした男で、多少腹は出ているものの、かなりの体躯の持ち主である。
左手に握られた縄は、趙淑の笛に絡まったものとつながっていおり、右手には反対側の先端の[金票]を短く持って振り回している。
もう一人は一回り体が小さく、両手で朴刀を振りかぶって向かってくる。
朴刀は日本で言う「長巻」、幅の広い鋼鉄の歯に柄をつけた武器である。
彼らの走る方向からどちらがどちらの相手かは明らかだった。
大きい方の相手が趙淑、小さい方の相手が登艾だった。
「おおおおおぉぉぉぉ」
先に来たのは大きい方の男だった。
彼は短く持った縄[金票]走りながら趙淑に振り下ろすが、短く持つと威力と命中率は上がるが、相手に見切られる率も上がってしまうため、趙淑は空いていた左手で素手で受け止めた。
趙淑の手に[金票]が食い込み、いくらかの血が流れた。
しかしその男の本当の狙いは、こんな事ではなかった。
彼はそのまま止まる事を知らず、趙淑めがけて突進し、両手のふさがった趙淑に肩で当て身を食らわせたのである。
「ぐっ」
 趙淑もすかさず両腕を胸の前で組み、こらえようとしたが足で地を踏みしめ、体重を前にかける間も与えられず、後ろ向きに飛ばされた。
大男はさらに倒れた趙淑の後ろに回り込み、手にあった縄[金票]の余分な部分の縄で趙淑の首を締めようとしたが、趙淑はすぐさま首と縄の間に左腕と、右手に持った銀笛を差し入れ防いだ。
「ぬぅぅぅ」
どうやら暫くこの力比べが続きそうな体勢に陥った。
一方登艾の方はと言うと小男の剣撃は大きなかけ声と大げさな武器の割には大したものではなかったので、のんきにも状況分析を始めていた。
−この人数の少なさと覆面をしている事から張一族自ら出てきたと見るのが無難であろう…。
登艾は相変わらずしつこく打ち込んでくる小男の剣撃を軽く打ち流していた。
−体つきと声から察するにこちらが尚書・張遵、あちらが侍中・張紹といったところか…。
 しかしいくら他にこのことが洩れて困るからと言っても、この少人数はおかしい。
登艾は小男の剣を一度大きく打ち払うと周りを一通り見回した。
案の定、伏兵はいた。
同じ黒ずくめだったので緑の中でも目立った。
 −小男と…大男がもう一人。大きい方は張苞殿として小さい方は誰だ?張峻か?
 しかも小さい方は既に弓をつがえていた。
登艾らが打ち合っていた場所からみて、趙淑らのいる丁度反対側のしげみだった。
「どちらを向いておるか!」
怒号と共に小男は打ち込んできたが、それを登艾は両手でかなり強く打ち払った。
「ああっ」
朴刀は小男の手からはじき飛ばされ、回転しながら伏兵へ向けて飛んだ。
伏兵二人はそれぞれ反対方向へ避け、真ん中を朴刀は飛んでいった。
登艾は返す反動で武器を失った小男を殴り倒し、伏兵達の方を向いた。
「来るならいつでも来い!」


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