補足説明(1)


 暗愚で有名な蜀漢皇帝劉禅には七人の男子がいた。
 敬哀皇后の子、長子の太子劉濬(文衡)・次子の安定王劉瑶(仲衡)・三子の西河王劉綜(叔衡)・四子の新平王劉讚(季衡)、張皇后の子、五子の北地王劉甚(英衡)・六子の新興王劉恂(稚衡)・七子の上党王劉遽(正史では虔)(幼衡)だった。
 ここで劉甚の母、張皇后についても説明しておこう。張皇后は猛将張飛の次女で、前皇后の敬哀皇后の妹であり、劉甚は彼女の一番最初の子である。ちなみに敬哀皇后は容姿端麗で劉禅も寵愛していたが張皇后は聡明ではあるが容姿は端麗とは言えなかった。そして、敬哀皇后の長子劉濬も容姿が優れており、成都の民からも人気があり、これが彼が太子に立てられた唯一の理由だった。
 敬哀皇后とその妹の張皇后、さらにその子らの違いをここで述べておくと、敬哀皇后はその子たちにあらゆる分野を、まんべんなく教え込んだようだ。一方、張皇后はかなり偏った教育をしていたようだ。それぞれ三人は違う分野に重点を置いて教育されていたのだが、劉甚は特に武術に重点を置き、張苞から指導を受けていた。ついでに言っておくと、劉恂は兵法、劉遽は政の手ほどきを孔明から受けていたようである。
孔明はもちろん、張苞もその道に関しては超一流の人物である。この顔ぶれを見ても張皇后の教育に対する情熱がわかろうというものだ。劉禅は教育には無関心だったようである。

 次にその三人の学友の崔玲について。
 まず彼女の父親・崔州平について説明しよう。
 崔州平。州平というのは字で、名は鈞(均とも)という。
 彼は前にも述べた通り司馬徽の門下での孔明の後輩である。
 崔氏と言えば河北の名族の後裔でなかなかの家柄である。
 彼の父・崔烈は曹嵩と同じく三公の位を金で買った者で、彼ははそんな父を「銅臭がする」と批判し反董卓連合軍に参加し、崔烈はそれを董卓に問われて獄に下された。
その後、崔州平は戦場を離れ司馬徽の門下で静かに学問に勤しみ、孔明らと親交を深めた。義侠心が強く、荒れた過去を持つという意味で徐庶(元直)と気が合い、さらにその二人が認め、親交を結んでいたのが孔明であった。
 一方、士元を認めていた二人が石韜(広元)と孟建(公威)であった。ただ、この三人と三人が全く別の派閥だったわけではなく、徐庶と石韜が同郷で仲良くしていたのでやはり六人でつるんでいたのである。ただやはり士元が蜀漢を離れたときついていったのは石韜と孟建であり、徐庶は孔明と共に蜀漢に残った。ただ、士元の身代わりに落鳳坡で石韜が死んだときは徐庶は士元を恨んだという。
そして、その後蜀漢・涼のそれぞれの前線指揮官として徐庶と士元は火花を散らすことになるのだ。そして徐庶が敗死し後任の法正も病没すると、荊州を守っていた孔明が北の前線に立つことになり、荊州は関羽が守ることになる。この間隙をぬったのが士元の荊州切り取りであった。荊州そして関羽を失い荊州は魏と呉で分割された。しかし悲劇は続くのである。
 その前にずっと名が挙がらなかったことから解るよう、他の五人の司馬徽門下の者が蜀漢に仕官しても崔州平だけは死ぬまで仕官しなかった。彼が司馬徽門下で培った思考法は極度の平和主義であり、かつて反董卓連合で戦った記憶を忘れさせ、「人を殺すための策など考えることはできない。」と言って仕官を拒み続け、孔明が益州に赴く前の最後の勧誘も断ったのだった。
 そして彼の妻である胡華蓮が、孔明の益州赴任のときの荊州失陥による関羽の死に激怒した劉備が起こした弔い合戦・夷陵の戦いの戦乱の中、まだ赤子の崔玲の妹・崔瓏をおぶったまま行方不明となった。ただでさえ生活が苦しかったというのに追い打ちをかけるようなこの事件に、愛妻家であったこともあって崔州平は娘の崔玲の看病のかいもなくみるみる衰弱していき、彼は若くして死んでしまう。
 そのあと崔玲を養ったのが崔烈の弟崔毅の子で崔州平から見れば従弟に当たる崔勇であった。彼は崔勇と共に挙兵したものの、連合軍解散後は崔州平と別れて各地を放浪し、父に当たる崔毅が伯父崔烈と共に李寉の軍に殺されるとその陣営に潜り込んで暗殺し、その首を段隈に献上し、しばらくその陣営に居座っていたが、従兄崔州平の死を聞いて荊州に駆けつけ、彼女を養った。
 そして崔勇の勇名を聞き、かつての同門崔州平の従弟崔勇を邸の衛兵として召し抱えたのが孔明だったのである。そして崔勇が泊まり込みのため崔玲の世話に不自由するのを見かねた孔明は崔玲を後宮に預けることを提案したのである。


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