補足説明(2)
司馬少年は小さい頃より祖父・司馬懿、伯父・司馬師、父・司馬昭とは全くと言っていいほど顔を合わせず、二人の教育係に育てられてきた。一方が留守を任された将・鍾会であり、もう一方こそ登艾だったのだ。
登艾は内政を主に教え、鍾会からは戦術を教わっていた。登艾は農民出身であることも手伝い、国の基本は農業だと説いた。一方鍾会は国を富ませる最大の手段は戦争であると説き、司馬少年は二人が言い争っている所こそ見たことがなかったが、二人の論が対立していることは幼き瞳にも分かった。
そんな中、司馬少年はより登艾の論に耳を傾け、登艾をして「戦術ももっとしっかり学ばねば…」と言わせるほどに登艾になついた。
それともう一つ、涼が登場したところで涼の官位制度について説明しておこうと思う。
まずは太平道の話から始める。
太平道教祖張角は大賢良師と名のって布教した。
張角の宗教の内容は、宇宙には人間界を支配する絶対的な神格が存在し、発病の原因はその神が当人に対して下す懲罪の結果による物で、病人には静室という牢獄で罪を反省させ、その後で符水(護符を沈めた水)や呪文で本格的な治療を行うという物である。
ちなみに符水の護符には万能薬が染み込ませてあり、ちゃんとした治療が行えるわけである。
張角は天公将軍、次子張宝 は地公将軍、そして三子張梁は人公将軍と名乗り、信者全員に黄色い巾を付けさせ、大小三六の方という軍を編成し、それを渠帥という将軍に率いさせて反乱を起こしたのである。
以上が太平道について太平道の張氏と五斗米道の張氏は同族であるが、考え方が異なったのであろう。東西別々に布教した。
さてようやく本題の五斗米道である。
漢中で三代目干吉(係帥)張魯のした五斗米道では病人即ち罪人の治療法は罪人に三官天書と呼ばれる三通の祈祷書・誓約書を書かせ、それを一通は三官の一人の天の神に捧げるため、山の上に置き、もう一通は三官の次の一人、水の神に捧げるため水に沈め、最後の一通はさらにもう一人の官の地の神に捧げるため地に埋めた。
これにより精神的治療がされた。五斗米道の本拠漢中では治と呼ばれる廟観に似た二四の建物や義舎という無料宿泊施設が建てられており、義舎には旅行者や流亡民が必要なだけ取るよう義損の米や肉がぶら下げてあったが、余分に取ると妖術で病気をもたらされると言われていたので宿泊していた人もそう多くは取れなかっただろう。
義舎に入った人々も信者と同じく扱われ、規則に違反した者は三度まで許され、その後刑罰を受けた。
軽い罪ならば百歩間の道を自分で修理するというような慈善行為で許されたので、漢中の道という道は綺麗に整備されていたという。
また、春夏には狩猟、死刑などの殺戮は一切禁じ、酒を禁じた。
この様な取締は、姦令長を中心とする姦令の手により行われた。
更にその上に祭酒がおり、布教活動を担当した。
またこの張魯が作った制度では入信に五斗の米が必要だったため、ちまたではこの宗教を五斗米道と呼ぶようになった。
涼の建設後の官位制度はまず教主である張魯が干吉係師から「天師君」へと名乗り代えた所から違っている。
士元が大祭酒となり、閻象の子・閻圃が姦令長になった。
そのほか張角のもとから流れてきた者の話を聞き、それを取り入れ方を設けた。
方を張角の時の様に三六に分け、一般の四征・四鎮将軍にならって、四大方・四小方渠帥が東西南北四人ずつ置かれ、大方渠帥は六、小方渠帥には三つずつ方を率いた。大東方渠帥に[广龍]悳、大西方渠帥に馬岱、大南方渠帥に姜維、大北方渠帥に馬超が任じられ、馬超が筆頭とされた。
また小方渠帥にはその方角の大方の跡継ぎが置かれる傾向があり、筆頭の方角は大方と同じとされた。
そして治療法も張角の使っていた物が形として受け入れられ、もとからある治療法と複合して行われる事により、精神・肉体両面からの治療が可能となり、治癒率が上がったのである。。
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