[一]両士現る


 後漢が滅びるきっかけとなった、「黄巾の乱」は「太平道」と呼ばれる宗教結社の蜂起であった。中心となったのは開祖張陵の族子の三人張角、張宝、張梁三兄弟である。この反乱は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし、歳は甲子にありて、天下大吉(漢王朝の命運はすでに尽きた。火徳の漢に変わって土徳の国が建つべきである。甲子の年に、天下は治まるだろう。)」をスローガンに後漢を滅ぼすほどに拡大するが、後に五国時代の涼をのぞく四国を建てる英雄達により平定された。三兄弟と時を同じくして開祖張陵も没し「太平道」の命脈も尽きたかに見えたが、張陵の子・張衡が漢中地方で「太平道」と似た「五斗米道」と呼ばれる宗教を広める。それが宗教国家となるのは息子の張魯の代のことである。それが五国時代の一角を担う涼と呼称される国家となるのは、馬超、士元らの加入によるところが大きい。
 馬超は五国きっての猛将で、魏に敗れて漢中に亡命してきたわけだが、孔明と並び賞された名参謀士元の指揮のもと魏に対する報復を果たし、涼建国後は蜀との前線で活躍し、劉備の義弟張飛との一騎打ちは歴史に残るものである。しかし、馬超軍閥の将兵は涼には属していたが、「五斗米道」の信者とはならず、涼政府側も監視の姦令に五斗米道の信者で構成される、鬼民軍と呼ばれる軍を率いさせて置くにとどまり、国の軍事は信者でない者達が独占したのである。それは馬超、士元が没し、姜維の代に移っても同じであった。


 ここは涼の都武威。
 漢中からこの地に都が移されてから、この地には奇妙な建造物が並ぶようになった。
 その建造物群の中にあってひときわ高い建物の最上階にてそれは行われていた。


 部屋に灯火はなく、一つだけある天窓から眩しく射し込む陽光が唯一の照明であった。無論この時代冷房施設などあろうはずもなく、窓の外には陽炎が見える。姜維の正面には手まで隠れるぶかぶかの黒の衣装に身を包み、頭も黒の頭巾の様な物を被い、片手に九節杖を持った老人が真夏の太陽に向かって両手を掲げている。
 かつて張魯は積極的に自ら政務に就き、漢中に来ていた閻象をはじめとする多くの知識人を登用し、彼らを使って漢中を独立国家とした。馬超・士元らの加入後版図を広げたことは前述した。ところが、武威に遷都した後、楊昂らの活躍で西方貿易ルートを確保し、これからというとき急に政務に顔を出さなくなり、ひたすら祈祷を続けるようになったのである。
 姜維は思った。
 −不気味な爺だ…。
 姜維はその老人・天師君張魯の祈祷をしている姿以外を見たことがない。
−天師道の教えによると病気は人間の悪事に対する罰だという考え方で、その罰に対する許しを請うために祈祷しているらしいが、それより先にやることがあるだろうに…。
 
 −祈祷しているという話だが、あれでは立ったまま寝てもいびきをかかない限りは周りにはばれないではないか。それにこの爺いったい食事をするんだ?いつ排便をするんだ?長男の張富に訊いても知らないと言うし、側近の張衛に訊けば…いや叱りとばすだろうな。
 その手前の大きな机の側面にはずらりと同じく黒衣の老人が並んでいるのを姜維は見た。黒衣の中のひからびた顔が並んでいる。この暑い中、体を黒一色で固めているというのに、汗をかいていない。
 −まあこいつらも不気味だが…。
 涼政府は命令違反の蜀漢への侵攻、そしてさらに敗戦した責を問いただすため、姜維を武威に呼び出したである。
 本来この立場に立たされた者は萎縮するべきなのであろうが、姜維に萎縮する理由はなかった。敗戦という結果はともかく彼は自分が間違ったことをしたとは思っていなかった。そして自分自身の能力にも自信を持っていた。彼の存在は国防の要であり、彼なくして涼は存在し得ないのである。
 机の姜維が座っている反対側のはしには誰も座っていない。教主張魯に背を見せるわけには行かないのである。
 側面の最も奥の両側にいる老人の名を姜維は記憶していた。右が大祭酒(治頭)閻圃、そして左がそれに次ぐ地位にある筆頭祭酒山民。前者が反姜維派であり、後者が親姜維派であることは前述した。ただし、山民は蜀漢侵攻自体には反対していたので、過剰な弁護の期待は禁物ではあるが。
 その他、張魯の弟で側近である張衛・次期教主で姦令長の地位にある張魯の長男張富・あとは古参の楊松・楊柏(白または帛とも)兄弟をはじめとする関中豪族で固められている。
「−さて姜渠帥。自分がどれだけのことをしたか解っておいででしょうな…。軍を動かすという命令違反、そして敗戦。」
 閻圃が侮蔑を込めた冷ややかな口調で言った。
「治頭様…ここは穏便に。」
 と言いかけたのは山民である。
「おだまりなさい山民殿!姜渠帥の非は明らかではありませんか。」
 と張衛は一喝する。
「しかし我が兄が健在であった頃は春夏における戦をみなさん黙認されておられたではありませんか。」
 今度は楊松が顔に皮肉を浮かべ、嫌みったらしく言う。
「まあ兄をしたう気持ちは分かりますが、閻治頭の現体制こそ我が天師道本来の姿。山民殿はこれに異議がおありなのですか?」
 楊松としては筆頭祭酒が自分でないことに我慢ならないのだ。
 その弟楊柏も同調し、
「だとしても命令違反は重罪。それに信者達の噂では命令違反を実行する情報を貴公が事前に掴んでいたとされるが…。」
 と言う。
 こうなっては誰が弾劾される立場なのか解らない。
 一方本来の被弾劾者姜維は退屈がてらに辺りを見回した。部屋の片隅のおかしな人形の着いた車に山のような本が積まれているの見つけ不審に思っているところであった。それにも飽き、姜維は蜀漢から退却し、一旦漢中に留まり、武威からの指示を待つ間、他の渠帥達と今後のことを話し合ったときのことを思い出していた。


「貴君らはこの国の守りのため、各地に残らねばならぬ。」
 令明は反論する。
「それを言うなら姜渠帥とて守りの要ではございませぬか。」
 馬承も同意する。
「そうです。姜渠帥。」
 姜維はそれを制した。
「代表者が責任をとらねばならぬ。」
 馬承は俯いた。
「しかし…。」
 するとそれまで沈黙を保っていた馬岱が言った。
「簡単なことだ。わざわざ成都など取らずとも今、反乱を起こせばよいのだ。」
 すると姜維は
「駄目です。今はまだ時期が早い。」
 馬岱は顔をしかめる。
「なぜだ!実質的にそなたと私が武威以外の郡を治めておるではないか」
 姜維は冷静である。
「しかし各郡に多数の鬼民軍は健在です。」
 そしてさらに令明が
「そして我々の軍は疲弊しきっている…ですな。」
 と付け加える。
 しばらく沈黙が辺りを包む。
 その沈黙がある一声によって破られた。
「急報です!」
 見はりに立っていた小東方渠帥[广龍]会(仲明)(以後仲明と書く)がかけ込んできたのだ。
 その父、令明が反応する。
「何事だ会。」
「先日の戦で魏の大都督仲達が討ち死にしていたことが分かりました。また、その部隊も殲滅されたという話です。」
 馬岱は手を打った。
「これこそ魏を攻める絶好の好機。我々の兵力では魏を滅ぼすまでは行かなくとも兵が出払った後の長安ぐらいは落とせるはず。魏の連中は同盟国に攻められるなど思いもしまい。」
 姜維は溜息をついた。
「さきほど令明殿がおっしゃられたところでしょう…。我々の軍は疲弊しきっております。その部隊にさらに強行軍を強いるおつもりですか?」
「むぐぐ…。」
 と馬岱は黙ってしまった。


 −あまりにも激しく立候補するので最前線の漢中に馬岱をおいてきたが余計なことをしておらんだろうな…。
 姜維の中でそれが唯一のしこりだったのである。
 その思考を遮る緊張をはらんだ声が机の反対側の部屋の入り口でした。
「姜渠帥。」
 姜維は振り向いた。
「[禺隹]か。」
 馬[禺隹]は姜維のかつての主君・馬遵の子で、巨師と並んで姜維の抱える若き智将である。馬[禺隹]の声は山民をいじめている老人達の声よりも遙かに小さかったのだが姜維は反応した。机の両側面に座る老人達も何事かと部屋の入り口を見た。
「少々お待ちください。」
 と姜維は部屋の入り口へ用件を聞きに向かった。
 姜維は巨師の報告を聞いて漢中に馬岱をおいてきたことを後悔した。
 馬岱が長安に向かって進軍したという報告である。
 −あの男…あれほど言ったというのに…。」
 馬岱のお目付役として漢中においてきた馬承からの報告であった。馬承に極秘で軍を動かしたとのことである。
「馬承は止めに向かったのであろうな。」
「はい。それがもう長安を落としてしまったとのことでして…。」
 −漢中の守将は名将夏侯覇だ。そんなに簡単に落ちるはずは…。
「どうしたのだ姜渠帥。」
 と山民が追いかけてきた。


 事情を話すと山民は
「おおっ、それは吉報ではないか。大西方の勝手な行動だったとはいえ、戦果があがったのだ。これで軍議も有利に進められようぞ。」
 と喜んだ。
 姜維は落ち着いた声で言った。
「山民殿…本気でそうお思いですか。」
 山民はまだ解らないらしく、
「何か問題があるのか?」
 と言った。
 姜維は溜息をつき、語った。
「我が国は魏と組んで蜀と戦うという方針をとってきました。それが崩れたのですぞ。」
 山民はようやく気付いたらしく、大きく目を見開いた。
「それに孟祭酒が…。」
 孟祭酒とは孟建、字を公威。士元や孔明と同じく司馬徽門下で、士元と共に涼の祭酒となった。当時魏の領内での布教の総責任者をつとめていた。
「もう生きてはいますまい。」
 姜維は続ける。
「そして、魏は形式上臣下である我々に長安をとられたのです。黙ってはおりますまい…。それに方針を変えて蜀と組もうにも、我らが先日攻め込んだばかり。受けますまい。」
 山民は考え言った。
「では成と組んではどうか。」
 姜維は溜息をついた。
「まあその線が妥当でしょうな。まあその暇が与えられればよいのですが。しかしこれでうまくいけば軍議から解放されますな。」
 各地の渠帥達の人事権は姜維にあるので誰も口出しできなかったが、姜維が軍議から解放されることは残念ながら当分ないのである。


 無論、姜維の予想通り魏と涼の同盟は決裂した。
 それにしても、なぜ夏侯覇は戦わずして降伏したのか?
 前に司馬懿は唯一対抗しうる人物、曹爽を討ち滅ぼし、最高権力者の地位を不動の物にした。
 しかしその後始末は完璧ではなかった。
 曹爽の親族であり、十分力を持った者…例えばその者が曹爽の仇を討つと言えば幾人もの太守が味方をするであろう人物が一人だけ残っていた。
 それが夏侯覇だったのである。
 だから夏侯覇は曹爽を殺されたことを恨み、謀反を起こしたという偽報のもとに討伐の詔が下されており、降伏するしかなかったのである。
 では仲達はすでになく、それを引き継ぐべき二人の子も亡き後誰がそれをしようとし、夏侯覇を裏切るまでに追い詰めたのか。
 それは仲達が生前目をかけていた二人の若武者だった。
 一人は現在、秘書郎を勤めている潁川郡長社出身の者で鍾会、字は士季といい曹操に仕えていた太鍾ヨウの次子で、幼き頃から類希なる知謀の持ち主として知られていた。
 彼にはこの様な逸話がある。


 ある時、鍾ヨウが二人の息子毓・会を連れて文帝曹丕に拝謁した事があった。
毓は八歳、会は六歳であった。
 毓は曹丕の前へ出ると滝のように汗を流した。
 曹丕が
「何故そのように汗を多くかいておるのだ。」
 と尋ねた。
「余りにも恐れ多いので汗しておるのでございます。」
 鍾ヨウが代わって答えた。
 それに比べ、鍾会は平然としている。
「その方は何故汗をかかぬ?」
 それに対し、鍾会は
「恐れ多くて汗も出ませぬ。」
 とけろりとして言った
「ふむ、よくできた小倅じゃ。」
 こうして曹丕は鍾会を近習として宮廷へ上げた。
 鍾会はその期待に答え、成人するとすべての兵書を読破し、そらんじて実際に少数の兵で多数の兵を撃破する修練を重ねたという。


もう一人は現在、掾史を勤めている義陽出身の者で、登艾、字は士載といい彼は司馬懿に見いだされ牛飼いから出世した人物で、物心ついた頃には既に孤児となっていたが山川草木にすべての知識を蓄え伏勢の置き場、河の渡り方、逃げ込むべき森、攻め出るべき野、さらには兵糧を運ぶ道筋を選ぶに、その地図をことごとくそらんじている。
 ただし、生まれついての吃音のせいでその知識をすらすらと述べる事が出来ず、仲達だけがその才能を認めていたという話である。
 また、彼にはこの様な逸話がある。


 登艾は生まれついての吃音ゆえにおのれのことを「私」とか「俺」と言えず、ただ「艾…・艾…・」と呼んだので、仲達がからかって
「艾という人物はいったい幾人おるのであろうな。」
 と問うと登艾は筆をとるや料紙にすらすらと
「論語に、鳳よ鳳よ、とあれど、鳳は一羽なり」としたためたという。


 夏侯覇は事情を話し、姜維に降伏を受け入れて貰っていた。
 一方…
「長安が陥落した今、喉元に剣を突きつけられたも同じ。朕は許に都を移すべきだと思うのだが御辺らの意見はどうじゃ。」
 魏帝曹叡は軍議の席でこう切り出す。
 先ほどのべた登艾がそれに対して前に進み出た。
「遷都は民心を惑わすだけです。それより私めに長安奪回をお命じ下さい。」
「うむ、やってみよ。」
「お待ち下さい!その任、ぜひ私めにお命じ下さい。」
 こう彼に対抗しようとする人物は言わずと知れたさきほど紹介した鍾会である。
 しかし曹叡はそれを聞き入れなかった。
「いや、今回は登艾に任せよう。」
 そして鍾会は
−牛飼いのこわっぱが!この屈辱忘れぬ!
 と内心登艾を恨んでいた。
補足説明2


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