前文


 洛陽の、豪奢な建物が並ぶ中、ひときわ大きな邸の最上階の窓から一人の少年が往来を見降ろしている。普段なら知性を感じさせるその少年の瞳は涙によりすっかり腫れあがっていた。その司馬懿の孫である司馬炎、字を安世という少年は戻ってきた小数の敗残兵達の言葉を思い出していた。
 登艾はお爺様や父上が敗死したあとも兵達を逃がすため、副将の夏侯覇、夏侯威と共に最後まで祁山の本陣に残って闘っていたという。
 しかし最後まで残った結果その残った者の命運は?という話になると誰もが口を閉ざしてしまうのである。
 −登艾は生きているに違いない…。
 司馬少年は街の往来に目を戻した。
 −登艾が生きていたなら真っ先に私の所に来るはずだ。
 そう思い、司馬少年は往来をじっと眺めていた。
 少しでも登艾に似た者があれば身を乗り出して確かめた。そして登艾でないことを確認すると溜息をつき、再び往来全体に視界を広げるのである。
 司馬少年は祖父や父と全く会ったことがなかったのだ。だからその訃報を聞いても悲しまなかったのである。彼が唯一その生死を気にかけていたのは、小さい頃よりの教育係で歳の離れた兄のようにしたっていた登艾、字を士載という男だったのだ。
 しかしいくら往来を眺め続けても登艾らしき人物は現れず、夜が訪れてしまった。
 司馬少年は寝台の上で横になったがいっこうに眠れなかった。

 司馬少年の頭の中に出征前の登艾とのいつものやりとりが思い出される。
 登艾が馬に乗り出征するとき、司馬少年が登艾に駆け寄り言うのである。
「登艾、絶対に生きてかえってくるんだぞ。司馬家当主となったとき、私を補佐するのはお前なんだからな。」
 そして登艾はいつも
「はい…。わかって…おりますよ。」
 吃音なのですらすらとは話せないのだが、そう言って苦笑いを浮かべながら司馬少年の頭を撫でるのである。
 それは登艾が司馬少年の教育係になって以来、何度も繰り返されてきたやりとりだった。

 閉じられた目から止めどもなく涙があふれ出た。
 −生きて帰ってくると約束したんだ!
 そんな司馬少年も数刻後泣き疲れて眠りにつこうとしていた。東の空はすでに明るくなっていた。
 その時、門の方から声がした。
「何だ貴様は!」
 それに対して門番に対する男が返事をしたようだがその声は聞き取れなかった。
「そんなはず無いだろう!貴様士載様をなんだと思っておる!」
 司馬少年には分かった。
 −間違いない!
 その男のかすかに聞こえてきた独特のしゃべり方で分かったのである。
 −登艾!
 司馬少年は眠いのも忘れて跳ね起きた。
 −登艾登艾登艾!
 司馬少年は寝衣のまま屋敷を飛び出すなり言った。
「門を開けよ!」
 門番も邸の主自らの命令ゆえ逆らえず門を開けた。
 そこに立っていた人物は、細く無駄な筋肉がなくがっしりしており、日焼けにより色が黒くなっている−しかし、普通の人間がその男を見てまず気付くのは体中にある矢傷、刀傷であろう。
 門番が追い払おうとしたのもそのみすぼらしさゆえであろうが、司馬少年にはその頭に目立つ若白髪でその人物が誰であるかわかった。
 司馬少年は登艾めがけて一直線に走り抱き付いた。
 登艾はよろけながらもその少年を受け止めた。
「登艾…登艾…。」
 司馬少年は涙声になり、もう死んでいたと思っていた男の胸に必死で顔を埋めその男の名を連呼した。
 登艾は司馬少年を受け止めながら辺りを見渡した。
 屋敷の者達が様々な表情で司馬少年を見ている。
 ある者はあきれ、ある者は苦笑いを浮かべていた。しかし、彼らからは屋敷の主に対する愛情が感じられた。
「安世様…。」
 司馬少年は周りの視線に気付き登艾から離れ、咳払いを一つすると顔を赤らめたまま
「よく帰ってきた登艾。」
 と言った。
 周りの者達は苦笑していた。
 司馬少年は司馬家の跡取りである。それなりの威厳を示さねばと思ったのであろう。
「ほうれ見ろ!登艾はちゃんと生きて帰ってきたではないか。」
 誰に言うともなく司馬少年は言った。
 そして司馬少年は指示を出し始めた。
「登艾の寝台と、それから風呂の準備をせよ!」
 そのとき彼は自分の寝衣についた赤いものに気が付いた。
 それが抱き付いたときについた血だと気づきいてはっとなり指示を変更した。
「いや…けがの手当が先だ!早くしろ。」
 登艾はそれを遮りひざまづいてたずねた。
「驃騎…将軍閣下(仲達)は?!」
 登艾は別働隊を率いた仲達とは違い、主力を率いて祁山にて戦っていた。そのため、敗戦のきっかけとなった仲達敗死の噂は知っていたが、敵の流言だと信じて、いや信じたかったのである。
 司馬少年は黙って首を横にふった。
 この情報は確かだった。登艾ら祁山の敗軍とは別のルートで逃れてきた上方谷の敗残兵の情報も入っていたからである。
 司馬少年は
「何をしておる!早くけがの手当だ。」
 とせかした。
 登艾は再びそれを遮り、
「私めに…手当など…を受ける…資格は…ございま…せん…。私は…驃騎将軍閣下を…守ることが…できな…かったの…ですから。」
 と言う。
「お前のせいではないさ…。」
 登艾は何も答えなかった。それに耐えられなくなった司馬少年は
「出征前の誓いが本当になってしまったな。これで私が司馬家の当主となったのだから、私を補佐するのはお前だぞ。」
 と雰囲気を柔らかくするために言った。
 こうすれば登艾がいつものように苦笑いを浮かべて、頭を撫でてくれると思っていた。
 しかし−
「安世様…。私も驃騎将軍…閣下同様…いつ死ぬやも…しれません…。お約束は…できません…。いつ誰が…死んでも…不思議では…ない…。それが…戦なのです…。そして軍の…統領たる者は…それを常に…覚悟し、私のような…一臣下が…いつ死んでも…動じては…ならない…のです。」
 登艾はひざまづき、俯いたまま真剣な口調で言ったのである。
 司馬少年はその時もう自分は本当に司馬家の当主になってしまったのだと気付いた。そしてもうあのゴツゴツした感触の手が自分の頭を撫でることはないのだと思うと無性に哀しくなった。
「そんなことはわかっている。しかし、しかし…」
 そこで司馬少年は言葉に詰まった。
「とにかく私を補佐せよと言っておるのだ!お前が死ななければすむことだ。お前は死ぬな。わかったな。」
 彼自身でもおかしな事を言っているのはわかったがとめられなかった。
「わかったな。約束だぞ。」
 念を押す司馬少年に対し、登艾はしばらく黙ったままだったが俯いたまま
「わかり…ました。」
 と答えた。俯いていたのが流れる泪を隠すためだということに周りの者たちが気づき始めていた。登艾は私が仕えるのは生涯でこの人一人だと思い、自分の命がある限り、この約束を守り抜こうと自分に誓った。

 しかし、この約束はすぐに思わぬ形で破られることのなるのだが、そんなことは誰も想像し得ぬものだった。


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