補足説明(6)


 ここで涼滅亡後、登艾が旧涼の領地をどのように扱ったか説明する。まず、彼は地元の豪族を懐柔した。主なのは雍州で言えば張藐(翁帰)(張既(徳容)の孫、張緝(敬仲)の子)の張氏。涼州で言えば麹英(麹演の孫、麹光の子)の麹氏である。それらに協力を要請し、王嗣(承宗)という人物に全権を与えた。また、羌族の迷当大王には郤正(令先)という人物を派遣。こちらも懐柔策に出た。そして涼の西域都護・彭漾(永年、永言とも)が放棄した西域については匈奴の本格的な侵攻が始まる前に倉慈(孝仁)という人物を起用、西域都護に任じてこれに当たらせた。
 最後に涼はかつて自らの教えを広めるため、西域で普及していた自らの教えと対立する仏教を弾圧していた。登艾は五斗米道を弾圧するため、仏教を認めた。ただし、代々の漢王朝の国教である儒教はやはり国の中心に据えられたままである。しかし、それとは裏腹に登艾は法治的な政策を進めていくのである。


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