絆の青空.episodeω


 雀の鳴き声と共に自然に目が覚める。
 だが、俺は起きない。
 ただでさえ寒いこの時期に学校もないのに早起きする理由がどこにあるというのだろう。
 何時間もかけて作り上げた温暖地帯を早々に手放すのは自らの熱エネルギーを放棄するようなものだ。
「こらーっ!!総悟起きなさーい。休みの土曜だからっていつまでも寝てるんじゃないの。もう昼前よ」
 早速現れた反論者の声に逆らうかのように俺は布団の中で身を固くする。
「今日はせっかくいい天気なんだからお布団を干しましょうね〜」
 その声と共に俺は勢いよく布団を剥がされた。
 瞼を開けなくとも、朝の光が肌寒い大気と共に皮膚を貫通して入ってくる。
「布団……」
 俺はベッドを降りて温もりを取り返すべく、瞼を閉じたまま布団を取り上げられた方向へ千鳥足で歩き始める。
「ちょっ、総悟?!」
 あ、布団発見。
 俺は取り戻した布団を抱え、ベッドに再び飛び込む。
「ダメよっ、総悟。こんな朝から」
 この布団は柔らかいし温かい。まるで自分で熱を発してるみたいだ。この二つの膨らみに間に顔を深く埋めて……。
「布団柔らけ〜」
 膨らみ?布団にそんなもんあったっけ。 そもそも根本的に形が違うような……。
「ふ〜ん……わざとなのね?」
 俺は肌に大気以上の寒気を覚え、顔を上げ瞼を開いて前を見上げる。
そこにあるのは美幸さんの超笑顔。
「まあ、どっちでも構わないけど」
 −美幸さん、おはよ〜ございま〜……
 ゴッ
「ふざけてる暇があったらさっさと起きてきなさい」
 頭を抱えてうずくまる俺を後目に部屋を出ていった。
 頭蓋骨に穴が開いたんじゃないかと言うほどの激痛。
 フライ返しの取っ手側の金具で殴りやがった。
「あ〜、いててて〜」
 後頭部を撫でながら階段を下りると、ジュージューと音を立てて美幸が定番メニューの目玉焼きを焼いている。
「なんだよ。起こすんなら朝飯が出来てからにしてくれよ」
 鍋を片手に美幸が振り返る。
「出来てからアンタを起こしてたらその間に冷めちゃうでしょ?」
 どうやら余計なことを学習してしまったらしい。
「冷めてても十分旨いのに」
 俺は髪を掻きむしりながら目を反らす。
「出来るだけ美味しく食べて欲・し・い・の」
 美幸はそう言いながらフライ返しで目玉焼きを皿に移した。
 視線は俺を見据え、頬を膨らませている。
「美幸……」
 美幸はまたコンロに向かい、今度は味噌汁に味噌を溶かし始めた。
「二人でいて、朝御飯作ってあげられるのは週末だけなんだから……てゆうかもうほとんど昼食だけど」
 小さい頃から嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐる。
「なあ、美幸」
 俺は美幸の肩からそっと手を回した。
「なあに、今日は甘えんぼさんのなの?」
 美幸は目を閉じて、引き続き鍋をかき回している。
「オマエにとって俺は今、どんな立場の人間だ?」
 美幸は少しだけ考える仕草をした後、
「コイビト……で手間のかかるコドモ」
 肩から回した腕に力を込め、手を胸に滑り込ませる……
 ゴッ
 次の瞬間、俺は頭を抱えて床に這い蹲っていた。
「は〜い、朝食かんせ〜い♪」
 そう言って美幸は手際よくお椀に味噌汁をよそっていく。
 今度はおたまの柄の金具かよ。
 一撃目と寸分違わぬところを狙いやがった。
 もうちょいで痛くなくなっちまうとこだぞ。
 本気で涙目になりながら俺は定位置に座る。
「はい、御飯」
 美幸は笑顔で、俺に炊きたて御飯を茶碗によそって渡してくれる。
 俺は頭をさすってない方の手でそれを受け取った。
「いただきま〜す」
「はい、いただきます」
 二人で手を合わせて土曜日の朝食が始まった。
 献立は御飯、味噌汁とレタスを添えた目玉焼き。
 俺達が正式に付き合うようになってからも水無月姉妹との同居生活が続いており、これまでのように毎朝俺の朝食を美幸が作るというわけにはいかなくなってしまった。
 それで、気を利かせてか、二人は週末ごとに実家に帰っている。
 気を利かせているというのもあるかもしれないが、実際は実家の真悟伯父さんが寂しがっていると言うことらしい。
 愛娘が二人まとめていなくなる男親の寂しさは娘を持ったことのない男でも少しは想像がつきそうなものだ。
 俺の母・真優里の実の兄である水無月真悟。
 二人の両親−俺からすれば母方の祖父母に当たる−は真心を持った人間に育って欲しいと願い、二人の子供の名前に「真」の字を含ませた。
 二人は大変仲の良い兄妹だったらしく、それぞれの長子に兄妹の互いの名から一時取った名前を付けたことからもそれが伺える。
 家にもよく家族ぐるみで遊びに来ており、瞳と可奈子が俺を取り合いを繰り広げたのはそのときの話だ。
 もしかしたら母さんは俺と瞳に昔の自分たちを重ねていたかも知れないな。
 母が死んだときも、伯父さんはおそらく俺に劣らぬ悲しみを抱えていたであろうに、見事に喪主を勤め上げた。
 忘れ形見である俺を引き取ることも進んで申し出てくれた。
 俺は拒んでしまったけれど。
 久留里さんが俺を診療することや可奈子の希望なんかも含めて、俺が水無月家に移れば全て丸く収まりそうな気もするが……
 俺は美幸に視線を投げる。
 一瞬互いの視線が絡み合い、美幸はそっと微笑んだ。
 ……俺は俺でここを離れられない事情があるのだ。
「ごちそうさま」
「はい、ごちそうさま」
 いそいそと美幸は後かたづけを始める。
「ねえ、総悟」
「ん?」
 一方俺は椅子に座って爪楊枝で歯の隙間をほじってくつろぎモード。
「このあと買い出しに行かない?晩御飯の材料の」
 俺は木枯らし紋次郎よろしくかじっていた楊枝を足下のゴミ箱に吐き捨てた。 
「かわまねーぜ。どうせ家にいてもやることねーし。荷物持ちぐらいしてやるよ」
 昼食が飛んでいるが朝食が終わった段階で時刻がもう既に正午を回っている。
 結局昼と朝が一緒になってしまったのだ。
 美幸はひとまず片づけを終えたらしく、出かける準備を始めている。
「じゃあ、スーパーに着くまでに今晩食べたいもの考えといてね」
 美幸は身支度とために一旦隣の自宅に戻るのだろう。
 エプロンを外して部屋を出ようとしている。
「美幸が食べたい」
 美幸は扉から顔だけ出してこちらを睨み付けた。
「ま・じ・め・に・考えよーね」
 そのあと、玄関の扉が閉まる音がした。
 真面目には聞こえなかったのだろうか。
 まあ、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
「もう一歩進展したいんだけどなー」
 キスをして、俺達は確かに恋人同士になった。
 でも、毎日朝食を作ってもらってない分、俺達の距離はむしろ開いたような気がする。
 俺は結局何が食べたいかも思いつくこともなく、美幸と共に出かけることになった。
 年も暮れ始め、もう外はすっかり寒くなっている。
「ねえ、総悟は卒業したらどうするの?」
 家を出て、歩き出してしばらくしてから美幸はそう切り出した。
「美幸と結婚する」
 はあ、と美幸は大きくため息をついた。
 その吐く息は白い。
「あたしの人生計画には稼ぎもない甲斐性なしの夫を持つ予定はありません」
「じゃあ美幸はどうするんだよ」
 この段階で長月と弥生はスポーツ推薦が決まり、霜月と皐月も音大へ進学が決まっていた。神無月や卯月に至っては二人の成績なら行けない大学の方が少ないだろう。
「あたしはTKO大への推薦が確定しました」
「TKO大?!あの推薦枠一個だろ?神無月か卯月じゃないのか?」
 美幸は目を閉じて誇らしげに語り続ける。
「二人揃って首都の大学受けるから辞退して、あたしに回ってきたの」
「……」
「どうする?総悟もTKO大入る?一般入試で」
「……」
「入れたら春にでも結婚してあげるよ」
 俺は顔を上げた。
「その言葉、本当か?」
 露骨にもほどがある俺の反応に美幸は多少驚いたようだったが、
「うん、同じ大学に来れたら学生結婚してあげるよ」
 俺はそれを聞いたあと、そのまま無言で考え込んでしまった。
 数十分後……。
「ねえ……アンタ何のためについてきたの?」
 俺はぶつぶつ言いながら商店街の本屋で買ったTKO大の赤本を読んでいた。
 夕食のリクエストをするでも、荷物を持つでもなく。
「受験勉強はいいんだけどサ」
 美幸は大きくため息をつく。
「まあ、何に対してもやる気ゼロの総悟が何かに打ち込んでるのはいいことなんだろうけど……」
 俺が横に視線をやると美幸がまたため息をついている。
「だって、合格したら結婚してくれるって言うから」
 美幸は微妙に頬を染めたまま、目を閉じて考える仕草をしている。
 いろいろと複雑な心境らしい。
「将来を考えるのも大切だけど、現在も大切になさいよ」
 俺は赤本をパタンと閉じた。
「つまりは構って欲しい……と」
 ギョッとして俺の方を見る美幸。
 俺は歪んだ笑いを浮かべてその視線を受け止める。
「ちょ、やめなさいっ、荷物で両手がふさがってるんだってバ」
 ゴッ
 視界が暗転。
 気がついたら俺は地面に這い蹲っていた。
「だから言ったのよ。両手が荷物で塞がってるから手加減できないって」
 あの買い物袋はいったい何が入ってるんだ?
 醤油か酢かなんかの瓶か?
 そして、やはり殴られたのは寸分違わず同じ場所だったわけで。
 俺は体を起こすと体の埃を払い落とし、しばしの黙考して足下に転がる真っ赤な本を拾い上げた。
 俺は赤本を開き、家と違う方向に歩き始めた。


「ただいまぁ〜」
「遅いっ!」
 家の扉を開けて、帰宅の挨拶を言い終わらないうちにピシャリと一喝された。
 思わず閉じてしまった瞼をゆっくりと開くと、エプロン姿の美幸が俺をじっと睨んでいる。
「どこで油売ってたのよ!晩御飯はもうとっくに出来てるのに。朝、冷めないうちに食べて欲しいって言ったばっかりじゃない」
 一息に捲し立てられる。
「その……病院」
「えっ、嘘?!」
 美幸の顔が驚愕に歪む。
「嘘。なに、心配したの?」
「ばかっ」
 俺はとっさに防御姿勢をとる。
 さすがに五回同じところに食うとヤバイ。
「心配しないわけ、心配しないわけないじゃない……」
 まずっ涙声だ。
「悪かったから、な?」
 靴を脱いで美幸の背中を叩く。
「で、どこ行ってたのよぉ……」
「図書館で勉強。で、今日の晩飯は?」
「肉じゃが……」
 ぐずる美幸を宥めながら、ようやく俺達は今晩の食卓に着く。
 やはり美幸は自分は一口も食べずに俺を待っていたわけで。
 よく考えたらあのとき俺を殴り倒したときも、次の角で俺を待っていたのだろう。
 こんなことに今更気付くなんて俺は大バカだな全く。
「ふ〜食った食った。もう食えね〜」
 俺はソファーに横たわった。
 肉じゃが。
 俺の大好物。
 死んだ母さんの最も得意とした献立。
 それは後に美幸の得意の献立ともなった。
「食べ過ぎるのも体に毒よ〜。全部食べてくれるのはありがたいけど、腹一杯食べてすぐ寝ると太るだけよ」
 美幸がエプロンをつけて洗い物をしている。
「体型なんて気にしなくていいんだって。俺にはもう婚約者がいるんだから」
 洗い場に派手に食器の落ちる音がした。
「いつ誰が婚約したのよ!」
 手に泡つきのスポンジをつけたまま美幸が振り返る。
「買い物に行きしな。俺と美幸が」
 美幸はため息をついた。
「条件付きでねって……ゆうか受かる気満々なんだ。TKO大」
「ああ……俺がやろうと思って出来なかったことなんて今までないからな。まあ何かをやろうと思ったこともあんまりないけど」
 俺はそう言いながらまた赤本を開いていた。。
「全てに対してやる気なかったもんね」
「無欲だったからな」
「物は言い様ね」
 そう言って美幸はまたため息をついた。
 ため息をあんまりつくと幸せが逃げちまうぞ。
 眠気が勉強を出来る限界値を超え、俺はしょうがなく開いた赤本をそのまま顔の上にかぶせて目を閉じた。
「ねえ……あたしの肉じゃが、真優里さんの作ったのにだいぶ近づけてた?」
 しばらくして美幸がその問いを発したとき
「ねえ?」
 俺の意識はもうずいぶん深いところにあって  
「寝ちゃったの?」
 もう美幸に答えることは出来なくなっていた。
 俺にももう美幸の肉じゃがと母さんの肉じゃがの違いはわからない。
 美幸が母さんの域に達したと言うよりも、俺が母さんの味を忘れ美幸の味に慣れつつあるのだろう。
 そのまま俺の意識はさらに深い場所へと落ちていった。
「うん、それで総悟もTKO大受けるんだって。それで受かったらあたしと結婚してくれって。うん、そう」
 次に俺が意識が浅いところに帰ってきたのは
「違うよ、総悟が言ってきたんだよ。そりゃ、総悟のことはずっと好きだったけど……もう、ちゃかさないでよっ」
 この喧噪のせいだった。
「じゃあ、伝えたからね。それだけ、覚えておいてね。じゃあ、また」
 そうして受話器を置く音がする。
「あ、お風呂お風呂〜」
 そう言って美幸のパタパタと走る音がする。
 しばらくして美幸の足音が戻ってきた。
「ねえ総悟、お風呂沸いたよ?」
 俺を美幸の手が揺する。
「総悟ってバ」
 ああ、揺すられる振動が心地よく、俺の意識はむしろ深い方へ落ちていく。
 あ、俺はいつの間にか布団を掛けられていたのか。
「もう食えねえよ〜」
 適当な寝言を言っておく。
 小さく息をつくと、美幸はどこかへ行ってしまった。
 だからあんまりため息をつくと……あ〜考えるのもダルイ。


 瞼を開く。
 あれからどれだけ時間がたったのかはわからないが、俺は身震いと共に急に目を覚ました。
 もう十分に寝たと体が言っているのだろう。眠気はなく、意識は妙にはっきりしている。
 美幸が風呂には入れとか言ってたな……。
 最初に頭に浮かんできたのはそれだった。
 脱衣所で服を脱ぐ。
 風呂場の灯りがついてるけど、磨りガラス越しに人影はないし、何の音もしないからただの消し忘れだろう。
 そう思って裸になった俺は風呂場の扉を引いた。
 ガラガラ
 湯船の女性と目が合う。
 美幸だ。
 裸。
 磨りガラスの死角の湯船に。
 静かに浸かって暖まっていたのだろう。
 俺の頭はフリーズし、全ての情報を初期化して今得ている情報を一から解析していた。
 美幸もきっとそうなのだろう。
 自分の体を深く手で覆い隠すこともせずに、ただ目を見開いて俺を見ている。
「美……幸?」
「総……悟?」
 俺の深層から原始的な欲求が浮かび上がってくる。
 美幸と一緒にいたい。
美幸とずっと一緒にいたい。
 美幸と死ぬまでずっと一緒にいたい。
 美幸と……一つになりたい!
「美幸っ」
 先に動いたのは俺だった。
 湯船に飛び込んで美幸の正面に回る。
「総悟っ、ダメッ!」
 立ち上がって逃れようとする美幸の肩を掴んでタイルの壁に押しつけ、有無を言わせるまもなく俺は美幸に口付けた。
「やめて……」
 わずかに唇を離した隙に美幸はそう言ったが俺はすぐにまた唇にむしゃぶりついた。
 俺は美幸の口内に舌を入れ、彼女の口の中を陵辱蹂躙していく。
 二人の唇の隙間から流れ出る涎。
 さらに今度は美幸の露わになった乳房を揉みしだき始める。
「ん……」
 掌から美幸の鼓動がどんどん早くなっていくのが伝わってくる。
 そして、俺の指先に弄ばれた乳首はぷっくりと立ちあがり、躰全体は汗ばみ、熱を帯びて、うっすらと桃色に染まっていく。
 俺の鼓動もどんどん早まり、躰も汗ばんで熱を帯びていった。
 そして下腹部もどんどん熱くなっていく。
 最初は俺の体を突き放そうと、俺の肩口や二の腕を押し返していた美幸の手も、今は力無く湯船の中に垂らされていた。
「美幸……」
 俺は唇を離し、美幸の顔を見た。
「怖いよ……総悟」
 泣いていた。
 美幸が泣いていた。
 涙をこんなにも流して。
 それに、
 怖いって……
 まさか
 ……俺が?
「ごめんっ」
 ただそれだけを言って俺は美幸に背を向けて風呂場から飛び出した。
 俺はなんと言うことをしてしまったんだろう。
 美幸の気持ちも確かめず、一時の感情にまかせてなんてことを……


 数分後、俺はパジャマに着替えて、自分の部屋で床に体育座りになって、窓の外を眺めていた。
 背中の方からガチャリと部屋の扉が開く音がする。
「総悟?」
 美幸の声だ。
「美幸……」
「ん?」
 扉を閉じる音がする。
「怒ってるか?」
「ううん」
「俺のこと……怖いか?」
「ううん」
「俺のこと……嫌いになったか?」
「ううん、大好きだよ」
 後ろから美幸が俺のことをそっと抱きしめてくれる。
「でも、ああいうことはお互いが合意の上でしようね」
「ゴメン……」
「さっきのことは気にしないから……もう泣かないで」
 泣いていた。
 今度は俺が。
「今日はここで寝てあげるから」
「じゃあ俺は床で寝る」
「え?」
「罰だ。俺はこのままじゃ自分を許せない」
 そう言って電気を消して横になった。
「それはともかく、せめてお風呂入り直してきたら?風邪ひいちゃうよ?」
「いい。今更だ」
「ねえ、風邪ひいちゃったらさあ。誰が看病するの?」
 ……
 どう考えても美幸だな。
 まあ次点として久留里さんが白衣でって言うのも有りだけど。
「結局苦労するのはあたしか」
 ……
 俺は数瞬考えたあげく、ベッドに潜り込む。
 美幸はあらかじめ、ベッドの向こう側に寄っていた。
 美幸はすぐさま俺をたぐり寄せ、胸に抱きしめた。
「もう、すっかり躰が冷え切ってるじゃない」
 美幸は俺の下半身にも足を絡めてくる。
 今朝もここでこんな事をしていたような気がする。
 美幸の胸の中で、俺はさっきでの浴場の出来事を思い出していた。
 パジャマ一枚隔てて、さっき見たのと同じものが……
「変なこと考えないでね」
 全てお見通しってわけか。
「なあ、美幸。結婚したらさっきの続き、してもいいか?」
「うん、結婚したら……ね」
 美幸は少し考えたようだったが、さすがに承諾してくれた。
「今度、昔みたいに一緒に風呂に入らないか?」
「それはちょっと……」
 美幸が困っているようなので、こう言ってみる。
「それも結婚したらいいんだな?」
「うん、結婚したら……もう、えっちね」
 結婚か。
 TKO大に合格すれば、春にも結婚できるんだよな。
 美幸と。
 親の承諾もとったみたいだったし。
「ねえ、総悟」
「ん?」
「キスしてあげよっか」
 間をおいて美幸はそんなことを言い出した。
 相変わらずのキス魔だな。
「したいのか?」
「総悟がして欲しいかを聞いてるんだけど」
 どうも素直じゃない。
「ようするにしたいんだな?」
「で、総悟はして欲しいの?して欲しくないの?」
 これ以上は機嫌を損ねない方が良さそうだ。
「して欲しいですっ、僕にキスを下さい美幸様!」
「ふふ、よろしい」
 少し躰を放し、上から美幸の顔が近づいてくる。
 美幸が乱れた前髪を右手で書き上げ、目を閉じて艶っぽい唇を俺の顔に向け、押し出してくる。
 暗い部屋の中で、目前に迫ったその顔が見えたかと思うと次の瞬間に俺達の唇は深く重ね合わされていた。
 時間にして十秒前後。
 少し音を立てて俺達の唇は離され、俺達は再び抱き合う形になる。
 さっき暗闇で一瞬見えた美幸の顔がいつもの美幸じゃないみたいに艶っぽくて、俺はとてもどきどきしていた。
 そんな顔を隠すかのように俺は美幸の胸に更に顔を深く埋めた。
 すると、美幸の鼓動も早くなっていくのが伝わってくる。
「ねえ、総悟」
「ん?」
 美幸がさっきとはうってかわって甘えるような声を出す。
「あたしのこと、すき?」
「ああ」
 即答。
「あたしのこと、あいしてる?」
「ああ」
 また即答だった。
「あたしも」
 美幸は嬉しそうにそう言って俺を更に深く抱きしめた。
「俺、絶対お前と結婚するからな」
「うん、幸せにしてね総悟」
 そして俺達は深く互いを抱きしめた。
 俺は絶対にTKO大に受かることが出来る。
 そんな確信があった。
 俺が美幸のために出来ないことなんてあるわけないじゃないか。
 俺はその晩、美幸と俺が教会で結婚式を挙げている夢を見た。
 ああ、なんて幸せなんだろう。
 もうこれ以上何もいらないほどに。
 おそらくこれ以上何かを欲しがったら見えない力に淘汰されてしまいそうだ。


 朝。
 今日は日曜日。
 連休も今日で終わり。
 明日からはまた学校だし、夕方になれば水無月姉妹も実家から帰ってくる。
 俺は一欠伸して目を覚ます。
 布団の乱れが隣で寝ていた愛しい人の存在を証明している。
 今頃下で朝食の準備をしている頃だろう。
 自分の体内時計と部屋の壁掛け時計を照合する。
 俺の経験則からそろそろ呼びに階段を上がってくる頃だ。
「総悟〜」
 なぜか美幸は小さな声で忍び込むように部屋に入ってくる。
 俺は美幸の足音に合わせてベッドに寝たふりをしていた。
 起こされる前に起きているなんてなんだか尺だというくだらない理由で。
「まだ起きてないの?」
 なぜそんなひそひそ話のような小さな声で呼びかける?
 いつもの調子はどうした?
 起こす気がないのか?
「総悟……」
 俺が薄目を開けると、美幸は目を閉じて俺の顔に自分の顔を近づけてきていた。
 ってオイ。
 小さく音を立てて二人の唇が重なる。
 それだけのキスではあるのだが、嫌に長い。
 もう一分近い。
 美幸が唇を離したタイミングで、俺も目を開いた。
「コラ」
「えっ、総悟?」
 朝日の中に美幸がいた。いつものエプロン姿で。
 唇を手で覆い隠し、その顔は真っ赤だった。
「一回や二回じゃないだろ?」
「いつから起きてたの?」
「オマエが部屋に入ってくるちょっと前からだよ」
「ええっ……と」
 目を反らし、知らずのうちに後ずさる美幸。
「よくも俺が寝てる間に俺の唇を好き放題に弄んでくれたなあ」
 俺は手をわきわきさせ始める。
「お仕置きの時間だぁ」
 俺は美幸に向かって飛びかかった。
 幸い起きたばかりで下半身も元気いっぱいである。
 そして、飛びかかる俺の勢いを利用して、威力を倍加させた美幸の拳がまっすぐに俺の鼻頭に食い込むのを、なぜか俺は瞬きひとつせずに見ていた。
 これがクロス……
 そう認識した次の瞬間にはやはり俺は床を這っていたわけで。
 美幸、いつの間にそんなに強くなったんだ?
「じゃ、じゃあ何であたしがキスする前に起きて文句言わなかったのよ。てことはアンタもキスして欲しかったって事でしょ!合意なんだからオアイコよオアイコ、ふんっ」
 そう言い捨てて美幸はバタバタと部屋を出ていった。
 そんな理屈があるものだろうか?
 しばらくしてようやく立ち上がれるようになり、階下へ降りると昨日と同じように美幸が朝食を机に並べていた。
「あ、ちょうどよかった。今できたところ。何ですぐに降りてこないのよ」 
「誰かさんがいいパンチ決めてくれたもんだから、しばらく足が使い物にならなかったんだよ」
「あ……ああそう」
 なんで目を反らすかな。
 今日のメニューは昨日の朝食の目玉焼きがベーコンエッグに変わっただけのものだった。
 同じ卵料理でもバリエーションを持たせようと言うことだろう。
 そう言えば味噌汁の具も違うし。
「いただきます」
「はい、いただきます」
 お互い手を合わせ、箸に手をつける前に俺は美幸に訊いてみた。
「なあ、美幸。オマエにとって俺は今、どんな立場の人間だ?」
 美幸は少しだけ考える仕草をした後、
「コンヤクシャ……で手間のかかるコドモ。これでいいの?」
「ああ」
 俺は満足して頷いた。
「さ、早く食べましょ、ア・ナ・タ」
 美幸がそうふざけて、俺達は朝食を食べ始めた。
 もし結婚しても、もしかしたら俺達はこんな感じで何も変わらないのかも知れない。
 でも、それでも良かった。
 美幸がそこにいれば。
「ねえ、今日このあと、買い物に行かない?で、そのまま外でお昼を食べて……」
「何か買いたい物でもあるのか?」
 夕方には久留里さん達が帰ってきて夕飯を作ってくれるから夕飯の買い物は必要ないはずだが。
「婚約指輪」
 ぶっ
「じゃ、じゃあ大型の工務店に行こうか」
「えーと……婚約指輪買うのになんで工務店に行くわけ?」
 美幸が眉間に皺を寄せてトントンと額を叩いている。
「大型工務店ならオマエの指にあったサイズで、デザインもオマエ好みのナットが見つかるだろ」
「101回目のプロポーズってわけね」
「知ってるじゃないか」
 そして再開される朝食。
「あのねえ、私がそんなものを欲しがると思うの?」
「いや、婚約を形にしたものが欲しいんだと思ったから。だから金のない男が送る婚約指輪として公式に認められているナットをだな……」
「ハイハイ、まあそれが公式に認められてるかとか、アンタに金がないかはともかく、そんなものを普段から指にはめて生活できると思う?明らかに非実用的じゃない」
「まあ、確かにそうだ。じゃあ、オモチャ屋に行こうか」
「もうこの際それでいいわ。とりあえず何でもいいから出かけましょう」
 そう言うが早いか美幸は食べ終わった食器を片づけ始めた。
 俺はその合間に昨日買った赤本を開いている。
「ねえ、総悟。あたしのためにそこまで勉強してくれるのは嬉しいけど。今も大切にしてよね。大切なのは今なんだから。じゃないとあたし……」
「オマエはいなくなったりしないよな」
 俺は赤本から視線をずらして美幸の後ろ姿を見た。
「大丈夫。あたしは死なないよ。総悟が好きだから」
 まだ101回目のプロポーズのネタで引っ張るのか。
 まあ振ったのは俺なんだけど。
「じゃ、出かけよっか」
 美幸は布巾で手を拭きながら言った。
「ああ」
 身支度をして玄関の扉を開ける。
 俺はあまりの寒さに身震いした。
「今日は一段と冷えるね〜」
「雪が降るんじゃねーのか?」
「かもね〜」
 鍵を閉め、門扉を閉めて歩き出したときだった。
「総悟っ」
 美幸が腕を組んでくる。
「どう、あったかい〜?」
「おう」
「あたしも〜」
 そう言って俺の肩に頬をこするつけてくる
「じゃ、いこっか」
「うん」
 そして俺達は歩き出す。
「ねぇ総悟」
「ちゅ〜」
 美幸が俺に向けて唇を突きだしている。
「いい加減にしろっ」
 そう言って俺は顔を背けたが
「えいっ」
「うわっ」
 美幸は俺の首に腕を巻き付けて顔を抱き寄せ、強引に唇を押しつけてきた。
 全くこんな往来で……
 そう考えられていたのもつかの間、そのキスはいつものキスとは違っていた。
 もっと原始的な求愛行為。
 むさぼるように俺の唇を求め、俺の体の精気を吸い取られるかのように俺はボーッとなって体の力が抜けていった。
 ぽんっ
 そんな音がして美幸はようやく唇を離してくれた。
「ぷはっ……全く」
 思いっきり感じてしまった。
 足下がおぼつかない。
 美幸はさっきと同じように俺に寄り添ってくる。
「ホントは気持ちよかったくせに」
 耳元でそっと囁く。
「な、何を言って」
 自分でも顔が紅潮するのがわかる。
「どうどう、またしてあげるから」
「あ、あのな〜」
 俺は美幸の顔をまともに見れずにいる。
「総悟を喜ばせてあげられるんならあたしも嬉しいし」
「だから俺はそんなこと一言も言ってないだろ!」
 ようやく美幸の方をふり返る俺。
「顔はそうは言ってないよ?」
 美幸は俺の顔を見つめてにんまりと笑みを浮かべた。
 俺の負け……か。
「じゃあまた……頼む」
 美幸は機嫌良く俺の肩に顔を預けることでそれを承認した。
 そして俺達は再び寄り添って歩き始める。
 そんな、年の瀬のいつもと少し違う週末のことだった。

Fin


戻る