添水の音

 気が重い……。
 季節は真夏、うっとおしい蝉の声が聞こえる…。
 そして今、私は西園寺グループ本社の第三応接室へと案内され、確実に足を運んでいる。すべてはあの兄さんのせいだ…。兄さんが駆け落ちなどしなければ…。
 案内人が私を案内しているが、この道は知っている。
 長い廊下だ。
 もっと長ければいいのに…。
「ささ…こちらです。」
「キィ」
 応接室のドアが開いた。
 ああ…なぜ私が兄の尻拭いをしなければならないのだろう。
 すりガラスのついたての向こうに人影が見える。私と交渉をする相手だ。
 このことをどう侘びればよいのやら…。
 私はガラスの向こうをのぞき込んだ。
「綾女さん!」
 私が「綾女」と呼んだ女性はにこりと笑って
「龍造寺コンツェルンの『龍造寺許』部長ですね。」
 と言って私を向かいの席に座らせた。こうして我が龍造寺コンツェルンの今後を決める会談が始まったのだ。


 あの会談から一ヶ月がたった。季節ももうすっかり秋である。
 龍造寺コンツェルン総帥「龍造寺善」には四人の息子、上から順に旋・仁・惇・許がいた。
 長男の旋は小さい頃から悪い奴だった。高校の時、勝手に会社の金を引き出して使っていたのがばれて、勘当されてからは顔を合わしていない。
 次男の仁は段位を持つ空手の達人である。空手ばかりしていて父に呆れられている。しかし、空手に関しては、かなり輝かしい記録を持っているので、父も文句を言えずにいるのだ。
 三男の惇は小さい頃から家にこもって本ばかり読んでいた。しかし気性は激しく、自分の意見は意地でも通そうとする頑固者であった。
 そして四男の私、許である。私は激しい兄たちとは違い、常に何も言わずについて行くしかない控えめな人間である。
 龍造寺コンツェルンと西園寺グループは協力することが多く、両総帥もよく互いの宅に訪れた。その時私たちが連れて行かれた西園寺邸で出会ったのが総帥「西園寺修平」の二人いるうちの上の娘、彩乃さんだった。


「コォン」
 添水が心地よい音をたてて鳴った。
 しかしそのせいで私の思考は中断されてしまった。
 添水とは「鹿威し」の一種で、竹筒の中央あたりを軸にして固定し、水を上から垂らして一定以上水が溜まると反対側に傾いて心地よい音が鳴り、水が流れ出してしまうとまたもとに戻るという仕組みのものである。
「ふぅ。」
 私は今、父が結婚祝いにくれた屋敷の一室で和服を着て仕事をしている。床には高価な畳が敷き詰められ、壁は松が描かれた襖、鳳凰が彫られた欄間で仕切られている。また、いかにも高そうな壺や掛け軸もある。縁側につながる側面だけは光が入るように障子で仕切られており、その向こうには庭があって、そこには先ほど鳴った添水もある。これもすべて父のプレゼントなのだ。父は仕事はほとんどしないが、こっちの方はいい趣味をしていると思う。
 話の続きをしよう。結局我々は政略結婚で惇兄さんに長女の彩乃さん、私に次女の綾女さんがあてがわれることになったのだ。
 なぜ一番上の仁兄さんに何もまわって来なかったのかと言うと、旋兄さんが勘当されて以来、次期総帥として見ていたのはどうやら仁兄さんではなく、惇兄さんらしい。なぜなら仁兄さんは空手に燃えて仕事を全くしようとしないからだ(父も兄のことを言える立場ではないが)。
 結果として仁兄さんは彩乃さんを連れて駆け落ち。そして両企業が決裂するかと思われたところで、父の命により私が遣わされたというわけだ。
「許様。お茶が入りました。」
 襖がゆっくりと開いた。開いた襖の向こうからは青い留め袖を着た栗色の長い髪をした女性が覗いている。
「綾女さん、お茶ですか。女中に運ばせればよかったのに…。」
 うーん。やはり和室には和服だな…。
「この仕事は私でなければなりませんわ。」
 彼女はじっと私を見た。
 それから彼女は目を細め、口のはしに小さくエクボを作って微笑んだ。
「わかった…。お茶はここに置いて。それからもう少し…ここにいてくれないか。」
「…はい。」
 私は仕事に手を戻した。
 結局会談は私達の婚約を元に戻すということで解決したのだ。向こう側もこちらと敵対するつもりはなかったようだ。第一両企業が手を結ばなければ最大手である「尼子財閥」に対抗できなくなってしまう…。
 あっ、そうそう。この屋敷の表札は「龍造寺」ではなく「西園寺」である。私は婿養子になったのだ。娘しかいない修平氏にはこれしか跡継ぎを決める手段がなかったのだ。
 これで私は総帥の椅子のまわってこない末っ子から、別企業とはいえ次期総帥に昇格したのだ。どうやら修平氏は以前から人材として私を欲しがっていたようだ。私が西園寺グループに移る日も遠くはあるまい。
「コォン」
 また添水が鳴った。うーん…。添水の音はいつ聞いてもいいなあ。
 そして彼女…。
 私は彼女を見た。
 彼女がお茶を机の上に置こうと身を乗り出している。鮮やかに光る栗色の髪が彼女の前側にいくらか垂れた。この髪は染めたわけではない。修平氏の奥さんが外人なのだ。だからこういう髪の色の子が生まれたのだ。そして彼女は目も緑色なのだ。
 彼女は社内一競争率の高い女性だったらしい。無理もない…ぱっちりとした大きな瞳、筋の通った高めの鼻、紅く小さな唇、そして何にもましてその紅い唇を浮き立たせる抜けるように透き通った純白の肌…。
「もう歩き回っても大丈夫なのですか?」
「ええ、体の方はだいぶよくなりました。」
「あなたが応接室にいたときは驚きましたよ。」
「はい…。私が父に無理に頼んだのです。」
 彼女は生まれつき体が弱く、ずうっと部屋に籠もったままだった。私が彼女と出会ったのは、西園寺邸に訪れたとき、彼女の部屋に偶然私が間違えて入ったのが発端だったのだ。だから他の兄弟は彼女の顔を知らなかったのである。
 彼女との結婚話が来たとき私にとっては願ってもなかったし、この結婚を望んだのは彼女なのだ。だから政略結婚とはいえ私たちはちゃんと愛し合っているのだ…。
 彼女との会話に緊張が見えるのは、この結婚があまりに急だったからなのだ。しかし実のところそれだけではない。私たちは夫婦でありながら接吻もまだなのだ。多くの者は私を馬鹿扱いするかもしれない…。「夫婦なのに何を遠慮するのか」と。しかし彼女は何も知らない箱入り娘…。いきなり襲うわけにはいかないし、そんなことをしたら嫌われてしまうかもしれない。しかしこれから一−二年経って子ができていなければ周りに不審がられてしまう…。いや、私にやましい考えなどないのだ(と言っても説得力がないか)。とにかく少しずつでも彼女との距離を近づけなければ…。
「綾女さん!」
 私は彼女の手をとった。彼女の雪のように白い頬が桜色に染まっていく…。
「これは政略結婚ですが私はあなたのことを…。」
 私は彼女に顔を近づけた。
「あ…いけませんわ…。まだこんなに明るいのに…。」
 彼女が体を後ろに倒した。
 ちょっと待て!私はまだ何もしていない。もしかして彼女はソノ気なのか?!私はそこまでいくつもりはなかったのだが…。まさか初夜、別室で寝たのもすっとぼけたふりをして、私を誘っていたのか?そしてその前の
「あの…許様…。私…一人でお風呂に入ったことが無くて…。その…ご、ご一緒していただけませんか?」
 もその一環だったのか?
 結局一緒に入ったかどうかは伏せておくとして(笑)。
 「箱入り」なのは私の方?
 いや、彼女に限ってそんなことがあるはずない。彼女は純真な何も知らないかよわいお姫様だ。しかし…。
 私は彼女の白い首筋から真紅の唇、そして濃緑の瞳までを嘗めるように見たあと、思わず唾を飲んだ。
 もはや後には退けん!
 私は彼女の手を握りしめた。
「許ー!いるかー?」
 この声と共に横の襖が勢いよく開いた。
「仁兄さん?!」
「よぉ。」
 ランニングにジーンズという出で立ちの狐目で長身の男が手を振り上げて笑っている。彼が次男・仁。両企業間の溝を作りかけた張本人である。
「兄さん!」
 私は身を起こした。
「兄さんのおかげで、私がどれだけ苦労したと思ってるんです?」
「苦労ねぇ…。」
 兄はからかうような目で私を見た。私の横では綾女さんが起きあがって衣服の乱れを恥ずかしそうに直している。
 これでは私が無理に綾女さんを押し倒したようではないか!
「そんなことより兄さんは何をしに来たんですか!」
 兄は頭の短い髪を掻きむしりながら
「何って…結婚祝いを言いに…。」
 と急に言葉に詰まった。
「仁!許いた?」
「おお彩乃。やっと来たか。」
 仁兄さんの後ろから仁兄さんと同じ服装の女性が入ってきた。
「彩乃さん!」
「あっ許。久しぶりー。」
 そう言うなり彼女は私に抱きついてきた。彼女は体を起こし、私の顔を見て
「元気してた?」
 と訊ねた。
「はい。」
 相変わらず明るい人だな…。
 彩乃さんの顔は綾女さんとよく似て、綺麗な顔立ちをしている。
 ただし肌は綾女さんのように白くはないし、髪も目も黒い。
 それから彩乃さんは綾女さんと私を見比べた。
「ふーん。そういうことになってるんだー…。あっ、綾女。もう外に出てもいいの?」
「ええ。」
「二人とも元気そうで何よりだわ。」
「姉様に子が生まれたと聞いたのですが。」
 私は子供と聞いてドキッとした。
「ああ、怜っていうの。可愛い女の子だったわ。」
「え…?」
 綾女さんはよくわからないといった顔をしている。
「あら…。聞いてないの?生まれたらすぐ惇のところに預けてきたのよ。」
「えっ?」
「だって子育てしながら放浪するのは大変じゃない。だから。」
 そう言い終わると真顔になって
「それで仁。」
「なんだよ。」
「どうやら長居はできないみたいよ。」
「え?!しばらくここに居座ろうと思ってたのに。」
 やはりそれが目的か…。
「灰色服黒メガネの団体が家の周りを囲んでるわ。」
「なぜそんな大事なことをもっと早く言わない?」
 はっ?
 そのときだった。凄まじい足音と共に、聞いた通り灰色服黒メガネの団体が、四方の襖を開けて私達を包囲した。
 私はかなり慌てた。
「兄さんの…連れですか?」
 兄は首を振った。
「まさか…。でも…似たようなモンか。」
 兄に慌てる様子は全くなかった。
 黒メガネ達の中から一回り背の低いのが出てきた。
「やっと見つけたぞ。」
 その男はメガネを外した。
 精悍な顔立ちをした男性である…。
 惇兄さん?!
 仁兄さんが惇兄さんの前へ進み出た。
「おい惇…。いつまで追っかけてくるつもりなんだ?」
「貴方がしたことを今更どうこう言うつもりはない。それより婚約の話だ。」
「誰と誰のだ!」
「私と怜さんのだ。」
「貴様は変態か?!怜はまだ赤ん坊だぞ。」
「あの顔立ちは絶対彩乃さん似に育つ!」
「あのなー…。」
 ああ…この会話を聞いているうちに段々気が遠くなってきた…。ああ…幸せになりたい…。
 そのとき「許様!」と言う綾女さんの声が聞こえたような気がしたがよく憶えていない。


 あ…子供達が遊んでいる…。
 あっ、これは西園寺邸を訪れたときの…。
 あの女の子は彩乃さん…あの子が仁兄さんで、それに惇兄さん、旋兄さんもいる。
 そう言えば彩乃さんはみんなをまとめる姉のような存在だったなあ。
 みんなで隠れん坊をしようと相談しているようだ。
 それで一番小さくて、ただ黙ってみんなについていくように遊んでいるのは…。
 私?!


「許様、許様。」
 綾女さんに起こされて気がついたら私は自室の布団で寝ていた。
 何だか気分が悪い…。
「お風邪を召されたのですわ。お粥を作りましたから食べて下さい。」
「ああ、ありがとう。」
 彼女も私も和服のままだった。
 白い器から彼女がスプーンでお粥をすくって息を吹きかけて冷ましている。
「はい、あーんして下さい。」
「あーん。」
 熱いお粥が喉を通って胃に流れ込んでくる。
「いやぁ、美味しいよ。」
 そうだ。こうしていればいつか彼女も私の気持ちをわかってくれる。何も急ぐことはなかったのだ。
「そう言えば兄さん達はあの後どうしたの?」
「仁兄様と姉様は包囲を振り切って逃げ、惇兄様はそれを追って行かれましたわ。」
「そう…ですか。」
 あの人達はいつまであれを続ける気だろう…。
「はい、あーん。」
「あーん」
 そのときどこかで「カラン」という金属か何かが転がるような音がした。それと同時に何となく周りに白い煙が立ち始めた。
「綾女さん。この白い煙は…。あちっ…綾女さん?」
 彼女の手からお粥を入れた器が落ちて、私の太股の上辺りでひっくり返ったのだ。
「どうしたんです?」
 そう訊くと彼女は私に向かって目を閉じて倒れ込んできた。
「綾女さん?」
 こんなに早く綾女さんの方から来るとは…。
 あれ、何だか妙に眠くなってきた。これはもしかして催眠ガスというやつでは…。
 私は彼女を支えきれず、そのまま後ろに倒れ込んだ。
 眠い…。
 私はそのとき黒い外套のようなものを羽織った一団が部屋に入ってくるのを見ていた。
 今日は厄日だ…。


「お宅の息子さん達は、みな将来有望そうで羨ましいですなあ。」
 ああ…これは屋敷中を有効範囲にして隠れん坊をしたときのことだ…。
「いや、そんなことはありませんよ。例えば許。あいつは主体性がないというか何と言いますか…。ほらよくいるでしょう…働きはするが要領が悪くて出世できない奴…そんな感じですなあ…。」
 ああ…これを聞いた私は走り去ってしまった…。どこへ行くんだろう。
 そう言えばこれ以来自分から父に話しかけなくなったんだなあ。
 後日わかったことだが修平氏はこれに対し、大いに反論したという。修平氏の私に対する評価の高さは私を婿養子、しいては後継者に欲しがったことからわかるであろう。私のどこをそんなに評価するのかはわからないが。


 目が覚めた。もう気分は悪くない。寝ている間に風邪は治ってしまったのだろう。私は冷たい床に仰向けに転がされている。手が動かない。視界には…知らない天井が見えた。
「ここはどこだ…。」
 私は何とか体を起こした。両手と胴がまとめてぐるぐる巻きにされているだけでは飽きたらず、両足首まで縛られていたので体を起こすだけでも苦労した。
 暗いな…。
 なんて暗い部屋だ。奥の方にダンボール箱が積んである。何かの物置か?窓がなく扉が一つだけある。その扉に鉄格子のはまった窓が付いており、そこから微かな光が漏れている。
「う…ん。」
「綾女さん?!」
 すぐ横で綾女さんが寝ている。
「綾女さん。起きて下さいよ綾女さん。」
 私は腰を揺らして彼女の体にぶつけ彼女を起こした。
「許様…。ここは…。」
「わからない。どうやら私達は誘拐されたらしいな…。」
 彼女は体を起こして辺りを見回している。
「すまない…。こんなことになってしまって…。」
「そんなこと…。」
 彼女は上目遣いに私を見た。
「私は貴方と一緒なら…。」
 ただそう言って彼女は恥ずかしそうに私の胸に顔を埋めてきた。
 聞いていた私の方も恥ずかしくなって天井を見上げた。
 そのまましばらくの時が流れた。
 私も彼女も何も言わなかった。
 ただ彼女は私にもたれたままだった。
 そうしているうちに向こう側から誰かがこちらを覗き込んだ。
「目を覚ましたようです。」
「よし、開けろ。」
 という会話が聞こえた。カチャカチャと鍵を開けているらしい音が聞こえ、その後ギィと嫌な音がして扉が開いた。
「久しぶりだな許。」
「旋兄さん?!」
 扉の向こうから現れたのは長い髭を生やした黒い外套の男だった。
「ほう…これだけ髭を生やしたのに俺とわかったか。」
「兄さん…どういうこと?」
 彼は自分の外套を見た。さらにそれを指さして
「こういうことだよ。あとはてめえで考えな。」
 彼はちらりと綾女さんを見た。
「うまくやっているようじゃねえか許。俺をさしおいてそんないい女と…。それに西園寺グループ次期総帥だとぉ?調子に乗るのもたいがいにしやがれ!」
 彼は足を踏みならした。
「まあそれだけいい目にあってるんだから、たまには悪い目にあっても罰は当たらねえぜ。まぁ、そこでせいぜい反省してな!」
 そう言って旋兄さんは出ていってしまった。
まあじたばたしてもしょうがない。旋毛兄さんに言われたとおり考えるとするか。ええと黒い外套と言えば…「米食会」!それで米食会と言えばあの与党S党と深いつながりがあるという日本一大きい宗教団体…。S党は確か一部の派閥が分裂して新党E党が結成されて…我々が支援している対抗野党のG党は、そのE党を味方につけて次の選挙で連立与党にするめどがついたとかつかないとか…。待てよ?S党とつながっているのは米食会だけじゃない。対抗企業「尼子財閥」!そうか…尼子財閥と米食会でつながりがあってもおかしくないからな…。尼子財閥で実質指揮をとってそうなのは、現総帥「尼子健」の息子で次期総帥と囁かれている「尼子久」辺りか…。米食会ではこちらも現教主「張宗我部光輝」の息子で次期教主・「張宗我部元宗」だな。こいつらは切れ者らしいからなあ…。あと現首相の「姉公路遙」なども絡んでいるやも…いや…というよりその兄の「姉公路昇」の方が…。
「ガァァン」
 沈黙を破る一音が響き渡った。扉が蹴倒されたのだ。この音で私の思考は完全に白紙に戻されてしまった。
 さらにそのあと扉が倒れる第二音が響いた。
「許ー。無事かー?」
「仁兄さん?」
「ちょっと…。そんなに大きな音出して大丈夫?」
 彩乃さんもいる…。
「早く縄を解いて下さいよ。」
「ああ。」
 兄さんが縄を解いてくれているとき、黒い外套を着ているのが目についた。
「兄さん…何でここに?」
「ここにいれば食い物には困らんだろう。」
 なるほど…。この教団は自給自足だからなあ。
「しかしここにももうおれんな…。さあ解けた。逃げるぞ。」
 彩乃さんも綾女さんの縄を解き終わったようだ。
 部屋を出るとさっきの見張りと旋兄さんが倒れていた。
 勘当された者とはいえ、実の兄を殴り倒したか…恐るべし、仁兄さん。
 綾女さんが着物のせいで遅れてはいけないので私は彼女について走った。何メートルかおきに蛍光灯のある長い廊下を走り、いくつかの角を曲がった。
 窓がないということは…地下なのか?
「なぜ信者が全然いないの?」
 兄さんが答えた。
「入り口で黒メガネ達と乱闘してるからだ。」
「なんで?」
「俺が電話で呼んだからさ。『ここにいるからすぐに来い』ってな!」
 なるほど…。
「さ、こっちが裏口だ。」
 階段を登っていくとやっと地上に出た。
「綾女さん、大丈夫ですか?」
「ええ…。」
 明らかに無理をしている。肩で息をしている。辛そうだ。
 私は彼女をこんな目に遭わせた自分を呪った。
「タクシーを拾うぞ。」
 兄さんは長身なのでタクシーはすぐ止めれる。
「K病院へ行くぞ。」
「K病院?!」
 思わず変な声を出してしまった。
「ああ、そうか。あんな所にいたから知らなかったのか。」
 彩乃さんが言った。
「父さんが狙撃されたの。」
「お父様が?!」
 綾女さんが泣きそうな声を上げる。
「綾女さん…。落ち着いて。とにかく早くタクシーに乗ろう。」
 私はタクシーの中で考えた。
 西園寺グループを攻撃するなら確かに総帥の方にも何かあってもおかしくない。
 タクシーが早くK病院に着かないかと気ばかり焦ってきた。
 綾女さんは気分が悪そうで今にも倒れそうだった。
 彩乃さんはそんな妹を心配していた。
 仁兄さんは助手席で運転手を急かしている。
「お父様…。」
 真っ先に病室に入ったのは綾女さんだった。
「おお…やっと来たか…。」
 修平氏は予想に反して元気だった。
 左肩にかすり傷をおっただけだったのだ。
「よかった…。」
 綾女さんは安心して力が抜けたのか、その様子を見て崩れる様に倒れた。
「綾女さん…。」
 助け起こした彼女の体は熱く火照っていた。
 風邪…うつしてしまったのか…。
「お義父さん。綾女さんが風邪をひいてしまったようなので、今日は連れて帰ります。後日、改めてお見舞いに伺いますので…。」
 修平氏は軽く笑った。
「かまわんよ。それより許君。」
「はい。」
「綾女を頼むぞ。」
「わかっています。」
 私は精一杯の自信を込めてそう言った。


 私はその後兄さん達に挨拶をしてから綾女さんを家に連れて帰り、自分の布団に寝かせた。
 私は寝ている彼女に囁いた。
「綾女さん。今度は私がお粥を作ってあげますから。待っていて下さいね。」
 私は立ち上がって部屋を出ようとした。
「待って!」
 えっ?
 振り向くと綾女さんが体を起こそうとしている。
「綾女さん。無理をしてはいけませんよ。」
 そう言って私は彼女の体を支えた。
「許様!」
 彼女は私に抱きついてきた。
「綾女さん?!」
「私知ってるんです。貴方も姉様が好きだったこと。」
 その言葉は私の心の奥深くに刺さっていた棘を甦らせた。
 この棘は兄が駆け落ちしたとき刺さったものだった。
 それを思い出したとき、彼女に手を出せなかった本当の理由が分かったような気がした。
 彼女のような人が気付いていたなんて…いや、彼女のような人だから気付いてしまったのか…。
 私は彼女に彩乃さんを重ねるのを恐れていたのか…。
 彼女は顔を上げ、深緑の瞳で真っ直ぐに私を見た。
「お願いです…。今は私だけを見て…。」
 私は彼女の瞳の奥を覗いた…。
 私は彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
 彼女と私の初めての接吻だった。
 そして私は彼女をそのまま布団の上に押し倒したのだった。


 私が走っていく…どこへ行くんだろう…。
 この私はまだ幼い。
 父に悪く言われたのが恥ずかしくて、隠れん坊をしていることも忘れている。
 ただ、どこかに隠れてしまいたかったのだ。
 そのうち彼は一つの部屋に逃げ込んで扉を閉めた。
「貴方は…誰?」
 部屋の奥から透き通った声。
「なぜそんなに泣いているの?」
 少年は自分の顔に触れた。そのとき彼は初めて自分が泣いていたことに気付いたのだ。
「ごめん…僕…行かなきゃ。」
 少年は慌てて部屋を出ようとした。
「待って!」
 少年は振り向いた。
 彼はそのとき初めてその少女の顔を正視した。
「また…来て…くれる?」
「うん!」
 この後少年はこの屋敷に来るたびに彼女のもとを訪れたのだ。
 これが私と綾女さんの…このときから私と綾女さんは…。


「コォン」
 添水の音で目が覚めた。体が熱い…。どうやら私は風邪をひいているらしい。確か彼女と二人きりの夜を過ごした…はずが記憶がない。それに風邪をひいていたのは綾女さんのはず…。
 障子から朝日の光が入ってきている。
 朝か…。
 まさか最初に風邪をひいてから今までのことはすべて夢だったのか?
 確かにそれなら記憶が薄いのにも合点がいく…。もし夢でなかったとしたら…。
 体が熱くなってきた。
 綾女さんにうつした風邪をまたうつされたということか…。
 まあしばらくすれば全てが分かるだろう。
 襖がゆっくりと開いて、綾女さんが入ってきた。
「許様、お目覚めでしたか。お粥を作りましたから食べて下さい。」
「ああ、ありがとう。」
 彼女は和服のままだった。
 白い器から彼女がスプーンでお粥をすくって息を吹きかけて冷ましている。
「はい、あーんして下さい。」
「あーん。」
 熱いお粥が喉を通って胃に流れ込んでくる。
「いやぁ、美味しいよ。」
 やっぱり夢だったんだろう。彼女の様子は前とちっとも変わらない。
「許様。」
「なんだい。」
「生まれてくる子の名前ですが、男でも女でもいいように『玲』というのはどうでしょう…。あ、許様、どうなさいました?」
「いいんじゃないかな。」
 どうやら夢ではなかったらしい。
 夢ではないということは彼女と私との二人っきりの熱い新婚生活がやっと始まる…。
 私は感激に胸を打ち振るわせた。
 このとき私は隣の部屋で襖に耳を当て、この会話を盗み聞きしている兄夫婦が住み着いていることにより、すでに二人っきりが崩されていることなど知ろうはずもなかった。
 こうして私達の幸せは、また遠のいて行くのであった。


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