漢代の豪族についての一考察


目次

序論

一 豪族研究の概況

二 漢代の豪族とは
 T 語義
 U 特徴

三 邑から村へ
 T 上代の邑、国から漢の郷亭へ
 U 漢代の郷・亭とは
 V 里とは
 W 郷里制の崩壊から村の出現へ

四 漢代の大土地所有とは
 T 大土地有とは
 U そこで働く人々

五 政治面について

結論



序論

 秦漢社会の中に豪族をどう位置付けるかは、共同体や、個人別支配とも深く繋がる秦漢帝国の構造を明らかにする際の主要テーマである。漢代において、豪族が力を徐々に増し、楊聨陞氏の「東漢的豪族」(1)により、後漢にはすでに豪族連合政権であったと言われていた。そのあとも、宇都宮清吉氏等の研究(2)があり、さらに問題は豪族の耕作の労働者問題を巡って時代区分論争にまで飛び火した。今回はこの時代に於ける豪族の実態がどのようなものであったかを見ていきたい。

一、豪族研究の概況

 一九五〇年、西嶋定生氏は「古代国家の権力構造」(3)を、さらに一九六一年、『中国古代帝国の形成と構造─二十等爵制の研究─』(4)において漢の一般庶民が無籍の流民や賤民・奴婢を除いて全て一様に天子から爵を与えられていると言う制度に注目した。単に貴族や高級官僚のみでなく、一般庶民に至るまで全て有爵者であるというこの事実から、爵制の持つ性格に即して、爵を通じて結ばれる天子と人民との関係の意味や、そこに設定される両者の間の秩序を明らかにしようとした。爵の観念によれば、天子も爵称の一つなのである。天子は爵制を超えた存在ではなく、その構造の中心に位するその一員なのである。そのような爵の観念は、天子は天命を受けて民生を計る責任者であって、その限りで人民統治の正当性を与えられ、天子の行動が正当的支配の枠外に出るときは天命を失うとされる、儒学のの易姓革命の皇帝観と大凡一致する。
 さて、この西嶋氏の説は前田直典氏「東アジアに於ける古代の終末」(5)を継承するものと言われている。この論文は戦国から唐末をして、豪族が大土地経営の主として奴隷を使役していたとし、唐末までを古代とするものであった。この論を唱えると必然的に内藤湖南氏(6)・宮崎市定氏(7)・宇都宮清吉氏(8)と継承されてきた「後漢ないし魏晋期以降中国中世説」を批判することになる。しかし西嶋氏の説は「中国古代帝国形成の一考察─漢の高祖とその功臣─」(9)に見られるように家内奴隷の労働力に比重を置いたものであった。
 しかし、西嶋氏の説は画期的すぎたのか、高祖集団を豪族に見立てて漢帝国の構造に投影した「中国古代帝国形成の一考察─漢の高祖とその功臣─」は守屋美都雄氏に(10)、もう一つの論拠として名田を挙げた「漢代の土地所有制─特に名田と占田について─」(11)は平中苓次に批判されている(12)。家内奴隷制説そのものにも増淵龍夫氏(13)・浜口重国氏(14)と言った人々の批判に晒されたのである。小生はこれらの論文には目を通したが、多くが批判に終始して具体的な代替案なく結んでいることに釈然としないものを感じた。ここにこの論争はしばらくの停滞を見たのである。

二、漢代の豪族とは

  T、語義

 宇都宮清吉氏によると(15)学術語として「豪族」という語は明治以来日本の学者が好んで用いたものであるという。しかし、近世に至るまで豪族という語は中国語として慣用されておらず、「豪族」は日本学界からの輸入語であると氏は語っている。氏は三史(史記・漢書・後漢書)より、漢代豪族を表現する諸語を抜粋、整理し四つのグループに分けた。
   @ 豪字を要素とするもの
      豪・豪族・豪姓・豪右・豪宗・豪彊(強)・豪傑・豪傑大姓・豪黨之徒・
      豪民(人)・豪猾など
   A 大字・著字を要素とするもの
      大姓・郡大姓・縣大姓・豪傑大姓・大族・著姓・郡著姓・縣著姓
   B 族字を要素とするもの
      名族・大族・姓族・族姓・郡族姓・豪族など
   C その他
     (イ)諸某・諸某氏・某氏・某氏宗人何百家・某氏門宗何十人など
     (ロ)世吏二千石・家世衣冠・家世名族など
     (ハ)兼併之家など
 がそれに当たる。氏によるとこれら諸語は、全く同義語として用いられることもあるが、時には若干ニュアンスの違いを示しつつ用いられているという。氏はニュアンスの違いの中に、漢代豪族の特性や、用法の時代性が見えることを指摘した上で具体的な用法の違いを述べている。

  U、特徴

 さて、前項において語義を説明した豪族なるものがこの時代においてはどのようなものであったかを、漢代において最も多く豪族の例に挙げられる南陽豪族の樊氏を例にとって考えたい。まずは後漢書巻三二樊宏伝の冒頭を抜粋してみた。

  為郷里著姓。父重、字君雲、世善農稼、好貨殖。重性温厚、有法度、三世共財、子孫
  朝夕禮敬、常若公家 。其営理産業、物無所棄、課役童隷、各得其宜、故能上下戮力、
  財利歳倍、至乃開廣田土三百餘頃。其所起廬舎、皆有重堂高閣、陂渠灌注。(中略)
  貲至巨萬、而賑贍宗族、恩加郷閭。外孫何氏兄弟争財、重恥之、以田二頃解其忿訟。
  縣中稱美、推為三老。年八十餘終。其素所假貸人間數百萬、遺令焚削文契。責家聞者
  皆慙、争往償之。

  郷里の著姓なり。父重、字は君雲、世に農稼を善くし、貨殖を好む。重性は温厚にし
  て、法度あり、三世財を共にす。子孫朝夕に禮敬するに、常に公家の若し 。其の産
  業を営理するを、棄てる所無く、童隷を課役して、各其の宜を得、故に能上下力を戮
  せて、財利を歳に倍す、乃ち田土を開廣して三百餘頃に至る。其の起きる所の廬舎
  に、皆重堂高閣有りて、陂渠灌注せり。(中略)貲は巨萬に至る、宗族に賑贍し、恩
  郷閭に加う。外孫何氏兄弟財を争う、重之を恥じて、田二頃を以て其の忿訟を解く。
  縣中美稱す、推して三老と為す。年八十餘にして終う。其の素より人間に假貸せる所
  の數百萬を、遺令して削文契を焚き、責家聞く者皆慙じて、争い往きて之を償う。
                          (中華書局標点本一一一九頁)

 この樊氏に見られる豪族の特徴を見ていくと、まず第一に「乃ち田土を開廣して三百餘頃に至る。」とあることから大土地所有が挙げられる。宮崎市定氏の言説に従って(16)漢代に改められた頃の面積で計算すると平均的な城郭都市の周辺に広がる耕地面積は二二〇頃と言うから、この広さはそれを凌駕するようだ。
 第二に、その耕地を耕す奴隷である。「童隷を課役〜」の一節であるが、これはそのまま奴隷ととってよいようだ。宇都宮氏によると(17)これが指す人々は、豪族に借りた金を返せなくなった者などがいたという。第三に樊重が三老になっている事に注目されたい。これは地元の顔役とも言うべきもので、赴任してきた地方官も三老を無視することはできなかったという。地方に赴任してくると地元の豪族の有力者を功曹等の補佐官に取り立て、円滑に統治するのが通例だったようだ。さらにこれが治安が悪くなると豪族の子弟達は安全を求めてこれを足がかりに、孝廉・辟召といった手段で中央に進出したようだ。そしてもう一つ。「宗族に賑贍」や「三世財を共にす。」、それに三老に推されるきっかけとなった何氏兄弟の財産争いの一節から察することができることがある。それは同族が同じ土地で暮らしていたことである。無論、これは長く住めば住むほど人口を増し、その土地において地縁集団であり、血縁集団となっていくであろう。これも当時の豪族の特徴であると捉えることができる。

三、邑から村へ

  T、上代の邑、国から漢の郷亭へ

 宮崎市定氏は中国古代には都市国家が存在したことを唱えており(18)、それは極度に発達した集村型の聚落が発達したものであると語る。氏によると都市国家という後はギリシャ語のpolisを一度英訳し、city-stateと言ったのを日本語訳したものであるらしい。この訳語は適当ではなく、この訳語から実態を論じると誤解が生じるという。氏曰くまず、都市と言ってもそれは商業都市ではないし、国家と言っても大領土は寧ろ持たないことが原則である。中国で「国」と言えば戦国の七雄のような強国を指す場合があり、漢代にも郡或いは縣とほぼ同等な地域を封建君主の領土として錫与されたときに、それを国と称する場合があるという。加えて「国」の概念はそれほど大きなものではないとし、例として『戦国策』趙策襄文王下の

  古者四海之内。分為万国。城雖大無過三百丈者。人雖衆無過三千家者。

古は四海の内、分かれて万国となる。城は大なりと雖も、
  (周囲)三百丈に過ぐる者なく、人は衆しと雖も、三千家に過ぐる者なし。


 を挙げている。万国は数が多いことを示すが、同時に形が小さいことを意味していると氏は語る。
上古には中国に万国が実際に存在し、それが次第に減少していったというのが中国人の伝統的な考えであると氏は語る。それを代表するものとして続漢書郡国志の序における梁の劉昭の原注を挙げている。また、生存競争に勝ち残った独立国のみを国と数えるか、独立を失ったままの附庸までも国と数えるかで結果が著しく違ったものになることも氏は指摘している。 さらに古代には多数の国が存在し、時代を遡れば遡るほど多くが独立を保っており、漢代にその痕跡が残っていたという。上代の国がそのまま漢代の国名として残ったものに陳国や魯国の大国を、郡名として残ったものに魏郡を、縣名として残ったものに上蔡縣・南頓縣を具体例として挙げ、最後の例が最も多いことを氏は付け加えている。
 氏はさらに漢代の縣の下にはさらに小さい地域区分の単位として郷・亭・聚などの名があり、上代の国名がこれらの地域区分の名として残っていることを指摘している。さらにその史料として氏は続漢書郡国志・水経注を挙げている。氏によると城という名称は漢代になるとおおよそ二通りの意味を持ち、続漢書郡国志において、郡国に幾何の城があるという時は縣城を指すが、縣の城下において某城という地名を挙げるときは、その城は郷よりも小さい、聚または亭と同じくらいの聚落を指すものの如くであるという。これらの記事から氏は、上代の邑国は漢代まで縣・郷・亭などの聚落として存続したものが多く、しかもそれらの聚落は上代の邑国であった時代は勿論、漢代に入って単なる聚落区分となった後までもその周囲に城郭を有していたと推測し、漢代の郷・聚・亭はその周囲に城郭を巡らせていたのが一般的であったのではと考えを広げている。

  U、漢代の郷・亭とは

 宮崎氏は漢代の郷・聚・亭はその周囲に城郭を巡らせていたのが一般的であったと言うことの論拠として多数の史料を挙げている。
 郷については続漢書郡国志より魯国の[吾β]郷城、泰山郡の竜郷城、済北郡の鋳郷城、山陽郡の茅郷城、南陽郡の豊郷城を例に挙げ、これらがかつて郷であったものが郷でなくなった後に、某郷城という名を得たものであり、城と称せられるのは城郭を有していたが為であると語る。逆に済陰郡の鹿城郷は城を持った聚落が新たに郷に昇格してから得た名であるという。さらに同史料で河内郡の原郷が原城、河東郡の耿郷が耿城、山陽郡の梁丘郷が梁丘城とそれぞれ注中で説明されていることを指摘し、また後漢書巻一光武本紀の南陽郡の舂陵郷、南郡の津郷も注中においてその故城の位置が記されているのは郷が城郭を持った例であるとしている。
聚についても同じく後漢書巻一光武本紀の戯陽聚、東陽聚が注中において故城の位置が示されている。乗恵聚については注中に一名礼城なりとあり、桃城の名は注に桃聚と言いかえているのを挙げている。同書巻九献帝紀も注中にその故城の位置が示され、続漢書郡国志では泰山郡の菟裘聚が注中で菟裘城と説明されており、南陽郡には和城聚なる地名が記されていることを例として挙げている。
 亭についても続漢書郡国志において、河東郡の高梁亭が梁城、鉅鹿郡の昔陽亭が昔陽城、東平国の[カン]亭が[カン]城、北海国の渠丘亭が渠丘城と注中で呼びかえられている例を挙げて、北海国の斟城が注中に斟亭と記されている逆の例も挙げている。さらに水経注から巻二河水の条に街亭城、巻三河水の条に原亭城、巻五河水の条に艾亭城・界城亭、巻八済水の条に博亭城、巻九淇水の条に高城亭・界城亭・歴城亭、[シ亘]水の条に女亭城、巻二十一汝水の条に夏亭城、巻二十二潁水の条に青陵亭城・皐城亭、巻二十四雎水の条に新城亭、巻二十六[シ文]水の条に[吾β]城亭、[シ維]水の条に平城亭、巻二十八 水の条に方城亭の例を挙げている。
 さらに梁の劉昭の補注の他に、王先謙の後漢書集解を利用するとさらに多くの例が挙がると語り、後漢書本紀中の戦場として記された郷・聚は城郭陣地を指すものであると氏は言う。ここから氏は上古に万国や千八百国と称せられた無数の邑が漢代になって新興の聚落と共に大きさによって縣・郷・聚・亭に位付けされたと結論した。縣は自身が大きな郷(都郷)であるとともに附近の小さな郷を支配し、同じく郷は自身が大きな亭(都亭)であるとともに附近の小さな亭を支配したという。さらに聚が亭を支配した例として続漢書郡国志に漢陽郡の隴縣、[豕原]抵聚、秦亭を挙げ、三者が本質的に何ら変わらない周囲に城郭を持った聚落であることを語る。さらに縣、郷、亭の間で昇格及び降格が頻繁に行われていたと言う。極端な例として続漢書郡国志、漢陽郡条注に献帝起居注を引いた、

  初平四年十二月。分漢陽上郡([圭β])為永陽。以郷亭為属縣。

  初平四年十二月。漢陽(郡)の上[圭β](縣)を分かちて永陽郡と為す。
  (上[圭β]の)郷亭を以て(永陽郡の)属縣と為す。

 を挙げ、さらに極端な例として水経注巻二、河水湟水の条に

  東城即故亭也。(中略)魏黄初中。立西平郡。憑倚故亭。増築南西北城。以為郡治。

  (西平郡の)東城は則ち故の亭なり。(中略)魏の黄初中に西平郡を立つるや、
  故の亭に憑倚し、南・西・北城を増築して、以て郡治と為せり。

 を挙げている。

  V、里とは

 さて、次に里についてである。
 宮崎氏は漢書巻十九、百官公卿表、続漢書百官志、注下の漢官儀・風俗通、及び宋書巻四十、百官志下に通じてみられる記述に、

  十里一亭。

と言うものがあり、亭に里が属していた有力な論拠となっていると言う。また、氏によると水経注巻十二、巨馬河の条の、


  琢縣[麗β]亭楼桑里(即劉備之旧里也)。

  琢縣の[麗β]亭の楼桑里(即ち劉備の旧里なり)。

とあるのも亭の下に里が属していたという一証であるという。さらに管子、大匡第十八の

  凡仕者近宮。不仕者与耕者近門。工賈近市。

  凡そ仕うる者は宮に近くし、仕えざる者と耕す者とは門に近くし、
  工と賈とは市に近くす。

を挙げ、城中には士農工商が含まれ、士は城内の宮に近く、工と商は市に近く、農は耕地が城外にあるので城門の近くに住むと氏は語る。そこで城内は宮殿・市・及び民居の三部に分けられるが、この民居が里に当たると説いている。また、水経注巻十七渭水の条の、

  元始二年。平帝罷安定[シ虚]沱苑。以為安民縣、起宮寺一里。

  元始二年。平帝安定の[シ虚]沱苑を罷めて、以て安民縣となし、宮寺一里を起せり。


を挙げ、これは城中に必要なものとして、宮寺と市と里の三者を挙げているという。この中で最も広い面積を誇るのはやはり里で、宮崎氏は水経注巻二十二、 水の条に

  (大梁城)梁伯好土功。大其城。号曰新里。

  梁伯土功を好み、その城を大にし、号して新里と曰えり。

とあるのは、城郭を広めて新たに拡張された城内の部分が新里と称せられたという意味だという。この実体は唐代まで続き、氏曰く後漢書巻八十四、楊震伝、唐章懐太子注に


  里即坊也。

  里は即ち坊なり。

とある通り里は唐代の坊に相当するという。
ではその具体的な大きさはどうであったのか。
まず氏によると里は百家とするのが、経・史・子に通ずる一般的解釈であるという。
さらに氏は経書では二十五家・五十家・七十二家と諸説紛々ではあるが、礼記・雑記下・里尹の鄭注に、

  王度記曰。百戸為里。

  王度の記に曰く、百戸を里となす。

とあり、管子、度地篇には、

  百家為里。

  百家を里と為す。

とあり、史書においては、漢書百官公卿表、続漢書百官志、宋書百官志の全てが百家一里の説を掲げており、どうやら一里百家の原則がだいたいにおいて通用すると語っている。また、具体的な面積については僅かに水経注巻二十五、泗水の条の孔子の闕里について、

  南北百二十歩。東西六十歩。四門各有石闌。

  南北百二十歩、東西六十歩あり。四門に各々石闌あり。

とあり、一歩を今の五尺として計算すれば、この総面積は五千坪となるという。氏によるとこれを百でわると一家あたり五十坪となってこれが適当な敷地であるらしい。
 次に亭については、漢書百官公卿表、続漢書百官志注、宋書百官志は何れも十里一亭と記しているという。一里を百家として計算すると一亭は千家となるわけだが、これは実際の数字なのだろうか。
 氏曰く漢代の戸数を大凡に推測出来る史料で、まず最も大量的な観察は続漢書巻三十三、郡国志に見える天下の戸数、九百六十九万八千六百三十で、同所の注に見える天下の亭数、一万二千四百四十三で割ってみると、一亭七百八十戸弱となるという。
 次に後漢時代の封建制度の亭侯の封戸を銭大昭の後漢書補表によって数えると一亭の戸数は二百〜五百戸となり、一里百戸とすると一亭は二里から五里にしかならないことになると氏はいう。
 次に里と郷と亭の相互関係について考察すると、

  十里一亭(漢書百官公卿表・続漢書百官志補注・宋書百官志)
  十里一郷(続漢書百官志補注所引風俗通)
  十亭一郷(漢書百官公卿表・宋書百官志)

と言う三つの記述があり、三つ同時に成立させることは出来ないらしい。しかし、古代の観念で見れば亭と郷は上下の関係ではなく、左右の関係であるので、十里という数字にこだわらなければ十里一亭と十里一郷はある程度までは両立できると氏は語る。次に十亭一郷であるが、これは十個の亭があればその中の最大のものを郷(都亭)とし、他の九亭がこれに付属することを指すらしい。
 宮崎氏の研究を要約して上古から漢代までの聚落形態を描き出すと、耕地の中心に城郭があり、城郭内部が数区に区切られており、それが里である。工商のみならず、農民もここに住み、漢代にはこの城郭の大きさ、重要さ、人口の多寡等に応じて縣・郷・亭に位付けされ、大きい聚落が小さい聚落に属したことになる。

W、郷里制の崩壊から村の出現へ

 漢代に至り、村が出現するが宮崎氏によるとその始まりは城郭の外に人が住むようになったことだという。続漢書郡国志、東郡、濮陽縣に記された  の冢は劉昭注に、

  在城門外広陽里中。

  城門外の広陽里の中にあり。

とあり、氏は門外にはみ出した新しい里の名であろうと氏は推測する。これを助長したのがいわゆる豪族勢力であり、彼らが城郭周辺の便利な耕地を買い占める。貧民は遠地に耕地を求めなければならず、豪族はその遠地に荘園を開拓し、あぶれた労働者を呼び集めた。これが村と言う聚落の始まりであると氏は論を進めている。
 郷里制崩壊のさらなる要因として氏は前漢末、後漢末それぞれの内乱を挙げている。人民はこれに際して郷里を捨てて脱出したという。その要因として氏は漢書巻九十九、王莽伝、田況の上言中に

  収合離郷小国無城郭者。徙其老弱。置大城中。積蔵穀食。并力固守。

  離郷小国にして城郭なきものを収合し、その老弱をと徙して大城中に置き、
  穀食を積蔵し、力を并せて固守せしめん。

と言う提議が為されたことを挙げている。これに対し人民は故郷の城郭を捨てて流浪し、新たな戦乱の世における自衛のために要塞を築いてそこに立て籠もった。それが塢であるという。その例として宮崎氏は水経注巻十五、洛水の条の一合塢についての記述

  城在川北原上。高二十丈。南北東三箱。天険峭絶。
  惟築西面。即為固。一合之名。起于是矣。

  城は川の北の原の上にあり。高さ二十丈あり。南・北・東の三箱は天険峭絶なれば、
  惟だ西面を築いて即いて固めをなす。一合の名は是より起こるなり。

を例に挙げている。ただし、大部分の農民は山上の塢に立て籠もらず、単に耕作の便利だけを考えて耕地の近くに無防備な状態で散居したという。それが村であり、城郭にいたときのように密集していては略奪のいい鴨になってしまうので、出来るだけ散居する必要があったらしい。さらに北方民族が内地に移住することにより騎馬や牛耕が取り入れられ、遊牧民である彼らは城郭に住むことに慣れていなかったから、村に住むことが定着していったという。これらの保護者はやはり多くの場合豪族で、同姓同族が相互に扶助するものが多かったという。ここから豪族の大土地所有とそれを耕す労働者の関係が生まれたようだ。


四、漢代の大土地所有とは

  T、大土地所有とは

 さて、話を大土地所有のために遡らせると、前項で述べたように上代において豪族の主導で次々と遠くへと耕地が開墾されていったわけであるが、地上に城郭都市が一つしかないわけではないから、いずれ他の城郭都市の耕地とぶつかった。宮崎氏は、孫星衍の漢官六種本、漢旧儀に、


  設十里一亭。亭長亭侯。五里一郵。郵人居間。相去二里半。

  十里に一亭あり、亭長亭侯を設く。
  五里に一郵あり、郵人、間に居る。相い去る二里半なり。

を挙げ、十里というのはこの場合距離を示し、この文は亭の中心から次の亭の中心まで十里(今の四キロ半)あったことを指していると語る(19)。そして、この近い邑が多くの場合征服による統合で大きな邑に成長していったという。そして氏は耕地の遠さが限度を超えると、他の邑の里民を自分の里へ移住させるのではなく、其の里をそのまま隷属させるようになったという。さらに耕地と城郭を結ぶ阡陌と呼ばれる農道が整備されたという。こうして上古に広がった耕地が漢の統一が為ると、邑の後身たる郷や亭はおろか縣の境界も超えて土地の兼併、拡張が進んだと氏は語る。こうなると農業がよい投資になってくるのであるという。氏によるとそれはよい金儲けという意味ではなく、史記貨殖列伝に

  用貧求富。農不如工。工不如商。
  貧を用いて富を求むるは、農は工に如かず、工は商に如かず。

とある通り、単純に金儲けなら、今と同じく農業より工業、工業より商業が儲かるのであるという。ただ同じく貨殖列伝に

  以末致財。用本守之。

  末を以て財を致し、本を用いて之を守る。

とある通り、金を儲けたらそれを守るのには農業が一番安全且つ堅実だったと説いている。

  U、そこで働く人々

 さて、前項のように一儲けしてそれを農業に投資し、大土地所有者の為った人物はその自分一人や家族だけでは耕しきれない土地をどうやって耕したのだろうか。当然自分以外の者に耕させるのであるが、宮崎氏によると

   @賃労働者を雇う
   A小作人に貸す
   B奴隷に耕させる

と言う三つの選択肢があるという。まず、一番目の賃労働者を雇う場合については史記巻四八、陳渉世家の索隠に、

  廣雅云。傭役也。謂役力而受雇直也。

  広雅に云う、傭は役なり、力を役して雇直を受くるを謂うなり。

とある通り、当時は一般的に傭と言ったらしい。氏によると小規模な土地経営に適したらしく、後漢まで続いたという。

 第二の小作人に貸すとうの氏曰く逆に大土地経営に適するという。氏は史記巻一二二酷吏伝寧成に、

  貰貸買陂田。千餘頃。假貧民。役使數千家。

  (未墾地を政府より)貰貸し、田を陂すること千余頃。貧民に仮し、数千家を役使す。

とある一例として挙げている。氏によると仮とは小作人に貸すこともしくは小作料を指し、賃労働者に耕させることを傭作と言うのに対し、小作人に耕させることを仮作と言うらしい。
 第三に奴隷に耕させる場合である。氏曰くこの例は甚だ少ないらしい。ただの奴隷ならばまだしも、農作業をする奴隷というのは本当に少ないらしく、その中から後漢書書巻七十九、仲長統伝に

  豪人之室。連棟數百。膏田滿野。奴婢千郡。徒附萬計。

  豪人の室は棟を連ねること数百、膏田野に満ち、奴婢は千郡、徒附するもの万計あり。

を挙げ、連棟数百の内部で家内労働に従事するのが奴婢で、膏田で農業労働に従事するのが徒附であると説明している。
 時代が進み、大土地所有が進むに連れて、傭作から仮作、仮作から奴隷の占める比重が大きくなったようである。また、時代区分論争において古代=奴隷社会であったため、奴隷がどの時代までいたかが激しく論じられていたようである。

五、政治面について

 さて、これまで述べてきた豪族なるものが政界へはどうやって進出したのだろうか。漢代には高級官僚の予備軍として一般的に郎官があった。永田英正氏による、そこに到達するには大ざっぱに三つの方法があったと思われる(20)。

   @良家子・任子・入貲

 本当は一括りにしてしまっていいものではないのだが、大きく扱うつもりがないので敢えてこうした。いずれも高級官僚や世襲的身分、資産家・豪族と言ったごく少数の特権的身分の者が優先的に通れる道である。無論、豪族の子弟もこの道を通ることが可能である。

A賢良方正・孝廉・茂才・直言・有道

 選挙と呼ばれるものである。この中でも孝廉・茂才は常科、それ以外は制科と言う。常科の孝廉は毎年二十万人に一人、毎年茂才は州で一人推薦される。制科は臨時に推薦されるものである。孝廉は他薦であったから、地方ですでに声望を得ている豪族の子弟は簡単に推挙されたようである、

B辟召・徴召

 太傳・大将軍・三公といった中央の高官に召されるのが辟召であり、皇帝自ら徴するのが徴召である。略して辟・徴と言う場合もある。

 漢初、孝廉が横行したが、郎に人数制限がなく、毎年孝廉科だけで約二〇〇人ずつ郎が増えるわけで、その郎の中で運良く地方官になれた者が早々に異動するわけではないから郎になったからと言って必ずしも高官になれたわけではなかったらしく、次第に孝廉の推挙を辞退したり、理由を付けて官を辞したり、二重に推挙を受けるなど、孝廉から直接高官になる者が減り、孝廉に推挙されたことがあるという箔が付くだけのものに成り下がってしまったようだ。それに取って代わって盛んになったのが辟召で、孝廉に挙げられた経験のある者が中央の高官の推挙により郎官となった。ただし、ただの郎官ではなく郎官の最高位である議郎となり、孝廉よりも遥かに早い出世が望めたようである。
 また、辟召を行う権限を持つ者は、自分の属官の任免権も持っていたため、後漢後半期に入り、宦官や外戚が勢力を伸ばしてくると、次第に自分の門生・故吏と言った人物で身のまわりを固めてしまい、また彼らが世襲によって官界に残るという悪循環が始まった。豪族の子弟の出世の多くは辟召の権限を持つ太守の功曹となり、そこから先の方法で中央に進出するというものであった。例としては、朱穆・寇恂・馮勤・法雄・韓陵・橋玄・史弼等がある。そして、高官になった者が辟召の権限を持ち、官僚としてその一族が恒久的に官界に根付いていったのである。

 結論

 豪族について、解っていることは、大土地を所有し、それを仮作・傭作・及び奴隷に耕させていたこと。さらに地縁集団且つ血縁集団であり、赴任してきた地方官を利用し、中央進出もすると言うことである。統一国家内では行政区画を超えて土地を兼併し、農業以外にも高利貸しや漁業・牧畜・商業等も行う者もおり、得た富を土地に投資して維持していたと思われる。ただし、今回見た樊氏は当時の最大規模の豪族であり、当時の豪族全てがこうであったとは思えない。
 解らないことは具体的にどの時期からどの時期にかけて労働力が奴隷に移行していったかと言うことである。また、豪族が官界にどの程度進出していたかという具体的なことも掴めなかった。


(1)楊聨陞「東漢的豪族」(『清華学報』11−4 1936)
(2)宇都宮清吉「漢代豪族論」『中国古代中世史研究』創文社
                         昭和52年2月25日初版発行
(3)西嶋定生(『国家権力の諸段階』岩波書店、1950)
(4)西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造─二十等爵制の研究─』(東京大学出版会)

(5)前田直典「東アジアに於ける古代の終末」(『中国史の時代区分』)
(6)内藤湖南『中国近世史』(内藤湖南全集10、筑摩書房、1969)
(7)宮崎市定「東洋的古代」(『アジア史論考』朝日新聞社、1976)
(8)宇都宮清吉「東洋中世史の領域」(『漢代社会経済史研究』弘文堂、1955)
        「古代帝国史概論」(『漢代社会経済史研究』弘文堂、1955)
(9)西嶋定生「中国古代帝国の一考察−漢の高祖とその功臣」
                        (『歴史研究』141,1949)
(10)守屋美都雄「漢の高祖集団の性格について」
               (『中国古代の家族と国家』東洋史研究会、1968)
(11)西嶋定生「漢代の土地所有制−特に名田と占田について」(史学雑誌58−1)
(12)平中苓次「漢代の所謂名田・占田について」
       (『中国古代の田制と税制−秦漢経済史研究』東洋史研究会、1967)
(13)増淵龍夫「所謂東洋的専制主義と共同体」(一橋論集四七巻三号一九六二年)
        「漢代における民間秩序の構造と任侠的風習」
                           (『中国古代に社会の国家』)
(14)浜口重国「中国史上の古代社会問題に関する覚書」
                 (『唐王朝の賤人制度』東洋史研究会、1966)
(15)宇都宮清吉「漢代の豪族」『中国古代中世史研究』創文社
(16)宮崎市定「東洋的古代」『宮崎市定全集3 古代』
(17)宇都宮清吉「漢代大私有地に於ける小作者と奴隷の問題」
                       (『東洋史研究』1−1,1935)
(18)宮崎市定「中国における聚落形体の変遷について
         ─邑・国と郷・亭と村とに対する考察─」『宮崎市定全集3 古代』
(19)宮崎市定「東洋的古代」『宮崎市定全集3 古代』
(20)永田英正「後漢の三公に見られる起家と出自について」
                      (『東洋史研究』24−3 一九五六年)
        「漢代の選挙と官僚階級」(『東方学報』京都第四十一冊 一九七〇年)


参考文献目録

東晋次   『後漢時代の政治と社会』 名古屋大学出版会 1995・11
宇都宮清吉『漢代社会経済史研究』弘文堂 1955
       『中国古代中世史研究』創文社 1977・2
多田狷介『漢魏晋史の研究』汲古書院 1999・2
尾形勇  『中国古代の「家」と国家』岩波書店 1979・10
狩野直禎『後漢政治史の研究』同朋社出版 1993・2
鎌田重雄『秦漢政治制度の研究』日本学術振興会 1962
      『漢代史研究』川田書房 1949・5
五井直弘『漢代の豪族社会と国家』名著刊行会 2001・5
清水盛光『支那家族の構造』岩波書店 1942・6
鈴木俊・西嶋定生編『中国史の時代区分』東京大学出版会 1957
内藤湖南『内藤湖南全集 10』 筑摩書房 1969〜1976
西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造─二十等爵制の研究─』東京大学出版会 1961
      『中国経済史研究』東京大学出版会 1966
      『国家権力の諸段階』岩波書店 1950
      『秦漢帝国』講談社 1974
西村元佑『中国経済史研究』同朋舎 1968・3
浜口重国『唐王朝の賤人制度』東洋史研究会 1966
福井重雄『漢代官吏登用制度の研究』創文社東洋学叢書 1988・12
藤家礼之助『歴史における文明の諸相』東海大学出版会 1974
平中苓次『中国古代の田制と税制−秦漢経済史研究』東洋史研究会 1967
牧野巽  『支那家族研究』生活社 1944
宮崎市定『宮崎市定全集 3』 岩波書店 1991〜
守屋美都雄『中国古代の家族と国家』東洋史研究会 1968
好並隆司『秦漢帝国史研究』 未来社 1978・3
渡邉嘉浩『後漢国家の支配と儒教』雄山閣出版 1995・2


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