後漢(東漢)王朝時代


 さて、本論に入る前に大学在学時代に小生が研究していたのがこの後漢王朝なのですが、小生が高校時代から唱えていた一つの説があります。それは日本の鎌倉から安土桃山までと中国の前漢から三国までとが照合できるという説です。つまり、源平合戦が漢楚争覇時代・鎌倉時代が前漢王朝・室町時代が後漢王朝・そして安土桃山時代が三国時代と。源氏が劉氏で平家が項氏だとか、源頼朝が劉邦で北条政子は呂后だとか、室町時代も三代までは順調にいっていたという点が後漢王朝が同じだとか、安土桃山時代と三国時代に至っては織田信長は曹操で徳川家康は仲達だとか照合している人が結構います。そして照合できる中で最も歴史学っぽいものは室町幕府が後漢王朝と同じ豪族の連合政権だったという点です。その点については小生の拙い卒論がございますのでそちらをどうぞ。[漢代における豪族についての一考察]そして、その照合から最終的に見いだされる結論は、この日本と中国の似通った時代の一千四百年のズレがそのまま日本と中国の文化のズレであったと言うことです(高校時代からこんな事エラそーに言ってるけど本物の専門家から言わせれば的外れなんだろーな…)。
 さあ、本論に入りましょう。ご存じの通り前漢を滅ぼしたのは王莽です。王莽は劉信らの反乱を鎮圧した後、慎重に大司馬、安漢公、宰衡と称号をエスカレートさせてゆき、仮皇帝、摂皇帝となってから西暦八年ついに皇帝となりました。王莽の簒奪する手順は実に現実的に計画を立てたのですが、政治は実に非現実的なものでした。それは周代に帰る復古主義でした。天下の耕地はすべて王田であり、周代でも本当に実行されたか分からない「井田法」を現実に行おうとしました。それは人間は全て天子のものであるが、今かりに個人があずかって耕作に従事させているという考え方です。ということは無論、天子のものである土地や私属(官奴以外の奴隷)を売買することは禁じられました。各地の豪族が反感を持ったのは当然です。貨幣制度の改革も行いました。これがかえって経済を混乱させ、貨幣私鋳が儲かる商売となりました。また、儒教の華夷思想(文化の中心的な担い手である華と、文化の未発達な状態の夷を区別する考え方)により、匈奴単于を「降奴服于」と改名したり、それを王から侯に降格させたり高句麗を「下句麗」としたりして、諸部族をも敵にまわしました。
 もういつ反乱が起きてもおかしくありませんでした。各地の反乱の引き金になったのは海曲県(山東省日照県の西)の呂母とよばれる女性でした。彼女は県宰(県の長官)に自分の息子を殺され、自分も殺されそうになったところを海へ出て、海賊達を手下にしてとって返し、県宰を殺し、息子の仇をとったのである。その直後、呂母は死にその軍は泰山の樊崇という男の率いる造反軍に吸収されたのだった。後にこの軍が大きくなったとき、味方である目印に眉に赤い塗料を塗るようになった。これが赤眉軍である。一方、現代の湖北省当陽県辺りの緑林山という山にも王匡、王鳳(このころ赤眉軍を討伐した新王朝側の司令官も王匡といったが無論別人である。ついでに言っておくと、王鳳の方も王氏一族専横の時に一番最初に大司馬になった王莽の伯父に王鳳と言う人物がいるが別人である。)といった人物が率いる大きな造反集団ができていた。緑林軍がいくつかの討伐軍を破ったのは良かったのだが、その後疫病がはやり、それを避けるため二手に分かれて山を下りた。王常、成丹が率いた軍は「下江兵(長江を下る兵)」と号し、西の南郡に向かった。王匡、王鳳、馬武といった者達は「新市兵」と号し(新市出身の兵が多かったから)、北上して南陽に入った。そこで陳牧率いる平林兵と呼ばれる軍と合流し、漢の末裔の一人である劉玄を皇帝に立てた(更始帝)。ここから新市兵と平林兵が合流してできた軍を更始軍と呼びましょう。この軍には劉[糸寅]・劉秀兄弟もおり、彼らの方が人望があったのになぜ劉玄が立てられたのか。確かに下江兵の頭目・王常などは劉[糸寅]を立てるべきだと主張したという。しかし多くの者が望んだのは傀儡皇帝だったのだ。
 それはさておき王莽は王邑、王尋に「虎牙五威兵」と号する大軍を率いさせたのである。その百万といわれた大軍は劉秀の守る昆陽城を囲んだ。それを劉秀は一万足らずの軍で巧みな戦術を用いて破ったのである。この戦いで形勢は完全に造反軍側に向いた。そのあと更始軍の王匡と新朝の太師王匡の同姓同名対決の結果洛陽も陥落、長安も内応者が出て落城して王莽も敗死。新王朝は滅びた。このころ劉秀の兄劉[糸寅]を代わりに皇帝に立てようという動きが起こったので、更始帝は理由をもうけて劉[糸寅]を殺してしまった。このとき劉秀もついでに殺してしまおうとなったわけですが、劉秀は恭順な態度をとったし、何より昆陽の大功労者をそう簡単に粛正できず、結局劉秀は河北を平定するという理由で中央から遠ざけられたのである。その後劉秀は、河北最大の勢力を誇った成帝の落胤と称する王郎を滅ぼしていた。余談だがこのとき劉秀は王郎の宮殿の文書を読まずに焼き捨てた。もちろん中には劉秀の配下が王郎側に内応を約束した誓約書などもあったろう。それを読まずに焼き捨てたのだ。この行為により劉秀は人望を集めた。この行為は後の官渡の戦いの後、曹操が真似ている。
 一方、赤眉軍の頭目樊崇は更始帝のいる洛陽に何らかの官職をもらうため出向き、軟禁された。それを運良く脱出した樊崇は本拠地に戻り、劉盆子というこれまた傀儡皇帝を立て、長安へ向かって進撃を開始したのである。赤眉軍の西進に対して更始帝のとった策は劉秀を赤眉軍にぶつけるというものであった。しかし劉秀は河北がまだ平定しきれていないことを理由に長安に凱旋せよという勅命を蹴りました。そして赤眉と更始の戦いの勝者と闘うときに後顧の憂いがないよう河北の銅馬軍をはじめとする諸軍閥を討伐してまわったのである。劉秀は降伏した者をもとの組織のまま軍に編入し、そんな者達の間を軽装で馬に跨って視察してまわったのである。早い話、いつでも暗殺できたのである。つまりこれは劉秀が兵達を信じているという意志表示だったのだ。これにより、劉秀はますます人望を一身に集めた。人々は彼のことを銅馬帝とよんだ。しかし実際に劉秀が皇帝に即位したのはその翌年のことである。
 そろそろ劉秀とよぶのをやめて光武帝とよぶことにしようか。光武帝は河北諸軍閥を平定して得た兵力を持って洛陽を落とし、赤眉軍が長安から更に西へ向かい隴の軍閥に敗れ、東へ戻ってきたところを撃ち、長安を版図に加えた。こうして光武帝は隴、蜀の地を統一すると官の整理を行って政府を簡素化したり、奴婢解放令を出したり、国民皆兵制・度田制作・ベトナム遠征・南匈奴を降したり・倭と交流を行ったりしました。(「漢の倭の奴の国王」の印は光武帝が晩年に送ったものです)


 内藤湖南はその著『支那上古史』において光武帝の政治方針−功臣に政治の実権を与えず、政治は全く実務をとるものに任せて、実権は天子自らが握り、三公以下を統轄する−を評価し、光武帝、明帝の二代は政治がよく治まり、前漢の衰亡に鑑みて外戚が権力を握るのに用心したと指摘しており、この湖南氏の指摘は『東観漢記』の

 初め、世祖(光武帝)前世の権臣太盛にして、外戚政に預かり、上は明主を濁し、下は臣子を危うくするを閔傷す。漢家の中興は、惟だ宣帝にのみ法を取れば、建武の朝には権臣無く、外族陰・郭の家も九卿に過ぎず、親族の地位も、許・史・王氏の半ばにも及ぶ能はざるに至る。

という記述と一致するそうです。
 王莽の簒奪を経験した光武帝が、権臣の出現こそ最も忌むべき事柄であり、権力を皇帝一身に集中することが漢王朝再興の緊急課題であると考えたのも当然であったろう。このような根本的な政治姿勢から、内藤湖南の言う「実務をとる者」つまり尚書を皇帝自ら統領して、臣下に権力が移行することを強く警戒したのである。
 ところでさきほど挙げた『東観漢記』の一説の中に「漢家の中興は、惟だ宣帝にのみ法を取る」とあった。このように言われるのは光武帝が外戚を警戒したのもその一因であろうが、宣帝が武帝のように酷吏によって豪族を弾圧するのでなく、後の光武帝と同じく循吏によって豪族勢力を懐柔するという手段を用いたからと考えることもできる。しかしこれはあえて懐柔を選んだのではなく、前漢の宣帝期や後漢王朝が武帝期のような弾圧策をとれるほどの力を持っておらず、豪族達の地方における勢力を利用して統治するという方法を採らざる得なかったと言えよう。つまり後漢王朝は、創業の勢いをもって皇帝支配制の強化を図ろうとしたのだけれど、地方社会における豪族勢力は如何ともしがたく、自ら豪族出身の光武帝の、宣帝の政治を模範とするという方針は前漢の武帝期を経て、地方社会における豪族勢力を認め、循吏を駆使して皇帝支配体制の強化を図った宣帝の政治方針に倣おうとしたところに生まれてきたものであると見ることも可能であろう。

 田中芳樹の中国武将列伝に次のような記述がありました。

 史上、「漢帝国を再興する」と叫んだ者は数多くいるが、ほとんどが惨めに失敗した。成功したのはただひとり光武帝だけである。前漢の滅亡後、二十八才にして起兵し、卓絶した軍事的政治的手腕によって天下を統一した。統一後、ひとりの功臣も粛清しなかった点は、先祖である前漢の高祖にまさる。画期的な奴隷解放宣言も出している。一代にして創業(実力による天下統一)と守成(新秩序の確立、民生の安定、文化の振興、後継者の育成)をなしとげ、総合点からいって中国史上最高の名君といってよい。−中略−中国の歴史上、自力で天下統一に成功した皇帝は、秦から晋まで十人ほどのものである。光武帝と二十八将の事績はもっと知られ、もっと評価されてよい。漢の武帝は英雄的君主であったが濫刑酷刑の傾向があり、無実や軽罪にして獄死した人がずいぶん多い。また民政にまったく無関心で、黄河の堤防が決潰したのを二十年以上も放置し、二百万人の民衆が家も農地も失って流亡するのを救済しようとしなかった。宋の太祖趙匡胤は先帝の大いなる政治的遺産を受けついだ幸運児であった。明の太祖朱元璋はあいつぐ血の粛清によって朝野の人材を殺しつくした。光武帝は彼らのいずれにもまさるように思われる。光武帝が日本で無視されているのは、漢楚争覇時代や三国時代と異なって、ポピュラーな宣伝文書を欠いているからにすぎない。


 後漢王朝も光武帝・明帝・章帝三代までは光武帝の皇后だった絶世の美女・陰麗華や明帝の皇后・伏波将軍馬援(蜀の五虎将軍の一人、馬超の祖先)の娘の馬氏が身を慎んだ為、外戚は権力を握っていなかったのですが、四代の和帝が即位すると、章帝の皇后で建国の功臣竇融の曾孫だった竇氏が権力を振るい始めました。竇太后とその兄、竇憲の間でいざこざがあり、竇憲は匈奴を討つ功で罪を贖いたいと申し出ました。その頃、西域で活躍していた班超を主人公にする小説では竇憲をまるで名将竇固の族子で、西域開発に理解のある好漢に描かれ、それと対立した宦官鄭衆が悪役に描かれますが、どうやら竇憲の方が無茶をしていたようです。鄭衆に敗れた竇憲らが処刑されたとき、班超の兄で『漢書』の著者・班固も獄死しました。これも鄭衆が悪役に描かれる一因でしょう。和帝が崩御し、殤帝の時代を経て安帝が即位すると今度は光武帝の軍師登禹の孫娘の登太后が権力を握りました。安帝は登太后の死を待ってその一族を滅ぼしました。紙を発明した宦官・蔡倫もこのとき自殺しています。この時代に活躍した楊震もこの後の権力者閻皇后に殺されました。楊震は袁安と並んで四世三公と呼ばれる名門の家系の初代の人物です。それぞれ三国志の楊修と袁紹の祖先に当たります。その後、安帝の皇后・閻氏の思惑の関係で少帝が即位しましたが、すぐに没し孫程ら宦官による閻皇后の誅殺後順帝が即位しました。順帝の時代、宦官は養子を持って爵位を継がせることが許されるようになりました。順帝の皇后は梁氏です。その父、梁商は謙虚な人物でしたが、その跡を継いだ梁冀はとんでもない人物でした。そして、赤ん坊の沖帝を立て、数ヶ月で死ぬと質帝を立て、跋扈将軍と言われたことに腹を立てて毒殺しました。そして次の皇帝に劉蒜を立てるという清流派の李固という人物の動きがあったのですが、曹騰の協力で桓帝を立てました。曹騰は魏の曹操の祖父で、順帝の学友だった宦官です。しかし梁太后が没するのを機に桓帝は単超、具援、唐衡、左[小官]、徐[王黄]という五人の宦官と謀り宮廷から梁氏を誅滅します。ここから宦官の専横が始まります。そして、梁氏と共に順帝の時代栄華を誇っていたはずの曹騰はなぜかその煽りを受けなかったようです。正史を紐解いても彼の悪口はなかなか見当たりません。しかし、だからこそそこに早々の祖父に当たるこの宦官に私は底知れぬ怖さを感じます。


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