前三国時代(曹魏・孫呉・蜀漢)


 後漢時代も末期になり、中央では宦官が権力を握りだして私腹を肥やし、地方では役人が宦官と結びつき私腹を肥やすという状態になりました。しかし役人が全員私腹を肥やすことばかり考えていたわけではない。中には善政を施す役人もいた。このような者達は自らを清流派と称し、宦官達を濁流派として批判した。民衆はその清流派の中で順位をつけ、上から順に三君、八俊、八顧、八及、八厨とした。また、八俊に荀イク(伯脩)、八及に劉表(景昇)、八厨に張[え貌](孟卓)の名が見られる。三君にかぞえられる大将軍竇武(遊平)(妹が皇后になったおかげでここまで出世できた)と太傳陳蕃(仲挙)その他、八俊の筆頭李膺(元礼)などの清流派達が宦官勢力を誅滅しようと謀るが竇武の妹である竇皇后が宦官の悪事を信じず、もたもたしているうちに事が漏れ、彼らが逆に曹節・王甫ら宦官に誅滅され、竇皇后も信じていた宦官にわけが分からぬうちに殺害された。そして宦官はとどめに皇帝に清流派を宮廷から追い出す後に党錮とよばれる指令を二度に渡ってださせたのである(党錮の禁)。ただし劉表だけは皇室の一族ということで難を逃れる。これにより宦官の権力は揺るぎないものとなった。
 そこに目を付けたのが太平道の教祖張角であった。張角は大賢良師と名のって古代道教を布教した。張角の宗教の内容は、宇宙には人間界を支配する絶対的な神格が存在し、発病の原因はその神が当人に対して下す懲罪の結果による物で、病人には静室という牢獄で罪を反省させ、その後で符水(護符を沈めた水)や呪文で本格的な治療を行うという物である。このように天師道は従来希薄で斬新な道徳感と、旧来有力で伝統的な呪術性を一体化していたので多くの民衆に崇拝され、その後信者は青・徐・幽・冀・荊・揚・袞・豫の八つの州に広がり、百万人を越えた。そして西暦一八四年長子張角は天公将軍、次子張宝 は地公将軍、そして三子張梁は人公将軍と名乗り、信者全員に黄色い巾を付けさせ、大小三六の方という軍を編成し、それを渠帥という将軍に率いさせて反乱を起こしたのである。
 これに対し、竇武と同じく妹が皇后になったおかげで大将軍になり、無上将軍と言われた何進(遂高)は討伐軍として朱儁(公偉)、皇甫嵩(義真)、盧植(子幹)(劉備・公孫讃の師)を派遣した。また、清流派と黄巾賊(蟻賊とも呼ばれる)との結びつきを避けるため、党錮の禁は廃止された。そして、義勇軍も募集された。その中には劉備(玄徳)の姿もあった。この反乱、一時は賊軍が優勢だったものの漢軍の名将皇甫嵩の一度の勝利と首領張角の病死により戦況は一変する。その後張宝、張梁共に敗れ張曼成の勢力が粘るもののついに鎮圧される。
 その後も宦官の増長は留まる所をしらず、その中でも十常寺と呼ばれる張譲、趙忠を始めとするその他段珪・夏輝・郭勝などの十人の宦官集団(本当は一二人で正史と演義で共通するのはこの五人だけ。)は桓帝の後の一二代目皇帝霊帝劉纉が張譲を父、趙忠を母と言うほど権力を持っていた。また霊帝は暗愚で犬に官職を与えたりして、政務はすべて宦官に任せて遊んでいた。また、そのころ国家予算が少ないのことに対する打開策として、官職が売られた。そのとき太尉の位を曹嵩(巨高)(曹騰の養子であり、曹操の父)が買い取ったことは有名である。また、曹嵩は夏侯氏の出身だったので、この後から曹氏と夏侯氏は親族となった。曹氏は曹参、夏侯氏は夏侯嬰の末裔と、前漢建国の功臣の子孫で「項劉記」と照合できて面白い。そして霊帝が没すると長子の太子劉弁でなく次子の陳留王劉協を立てようとしたのである。何進はもちろん妹、何皇后子の子劉弁を立てる。何進は「西涼の怪物」董卓(仲潁)を呼び入れ、宦官の誅滅を謀るが、事前に事が露見し、何進は宦官達によって殺される。そこで彼の腹心であった司隷校尉(今の警視総監)の袁紹(本初)が従弟の袁術(公路)と共に斬り込み、髭のない者を宦官とみなし、片っ端から斬り捨てたのである。また、宦官ではないのに髭がなかったので斬り殺されたという例も多くあったので、男の証を見せつつ逃げ回る者もいた。その混乱の中、十常寺の筆頭張譲は皇帝に立てられた少帝と陳留王を連れ脱出を謀るが、袁紹軍の兵士に殺される。そして少帝と陳留王は露頭に迷うこととなる。しかし二人は西涼から来た董卓軍に保護される。その際、二人の様子を見て、董卓は「陳留王の方が才がある。」と思うのであった。
 董卓という人物は黄巾軍との戦いで盧植が討伐軍の司令官を解任されたとき代わりに任命された将軍です。敗退したのに西涼の太守から并州の牧に出世しました。逆に大功を立てた皇甫嵩は降格されています。だいたい解ると思いますが盧植の更迭も含めて全ては宦官への賄賂の有無で決まったことです。腐敗ぶりがよく解ると思います。その後、董卓は強引に劉協を皇帝に立てようとして周りから反感を買うが、逆らう者を追いだした。その中には袁紹、袁術、曹操、盧植、丁原(建陽)、伍孚などがいた。丁原は、董卓と戦うが、董卓の工作による腹心、呂布(奉先)の裏切りに遭い、殺される。そして、董卓は何進、丁原の兵力を吸収し強大な力を持った。彼は太師と称し、墓荒らし、誘拐、強奪、強姦などの様々な悪さをする。そこで、袁紹を盟主とした反董卓連合が結成された。しかし先鋒に立った孫堅(文台)は兵糧係の袁術の出し渋りのせいで兵糧が尽きて[シ巳]水関で猛将華雄に敗れる。
 しかし反董卓連合はなんとか公孫讃(伯珪)の配下として参戦していた劉備の武将、関羽(雲長)が董卓軍の猛将華雄を殺したことで勢いづき、劉備三兄弟の三人がかりで呂布も退け虎牢関を落とし、洛陽に進むが、そこはすでに董卓に焼き払われ、都は長安に移った後だった。そこで彼らは仲間割れし、曹操は張[え貌]の援軍と共に董卓を追撃するが破れ、連合軍は空中分解する。結局洛陽で上げられた成果は孫堅が玉璽を得たことぐらいだろうか。しかし、その玉璽のせいで孫堅は袁術にそそのかされた劉表に襲われ、同じく袁術の命で劉表と開戦するも荊良(子柔)の策略で黄祖に殺される。一方その後董卓は長安で司徒王允(子帥)の貂蝉(中国四大美女B)という女人を使った工作による呂布の裏切りに遭い殺される。しかし、董卓配下の武将であった李寉(稚然)らが呂布を破り、長安に攻め込んで来て王允を殺した。そして今度は彼らが実権を握り、再び都は彼らの権力の奪い合いで混乱の渦となる。そんな中、北の白波賊の楊奉、韓暹、胡才、李楽らは長安から帝を助け出し、洛陽に連れて行く事に成功したのである。
そのころ鮮卑討伐の為朝廷から派遣され、鮮卑と同盟を結ぼうと務めていた幽州刺史劉虞(伯安)という男がいた。しかし以前から鮮卑討伐で名を上げ、白馬将軍と言われ恐れられていた公孫讃とは馬が合わなかった。袁紹は劉虞を皇帝に立てようと考えていた。まず彼は冀州刺史韓馥(文節)から冀州をだまし取った。そして彼はそこで多くの人材を得る。謀臣では田豊(元皓)、沮授、逢紀(元図)、審配(正南)、辛評(仲治)、郭図(公則)、許攸(子遠)、武将では張[合β](儁乂)、顔良、文醜、淳于瓊(仲簡)、麹義、高覧などであった。
 その後劉虞に帝位に着くよう手紙を出すが、劉虞は着こうとしない。そんな事をしているうちに、劉虞と犬猿の仲の公孫讃が劉虞を殺してしまう。それに激怒した袁紹は公孫讃と戦争を始める。趙雲(子龍)や劉備などが何度かくい止めるものの最後には公孫讃は黒山賊の頭領張飛燕に援軍要請の使者を差し向けるが、間に合わず易京にて戦死する。張飛燕はもとは緒飛燕と言う名で、黒山賊の小頭目にすぎなかったが、そのとき黒山賊の最大勢力を誇っていた張牛角が死んだ際、その兵力を吸収し、小頭目の孫軽、王当を傘下に加え、一大勢力となった。そのとき姓を緒から張に改め、彼の名は張飛燕となったのである。彼の姓名は張燕だったが人々は彼の動きがとても俊敏だったので飛燕と呼んだ。公孫讃を倒した袁紹は、そのとき滞在していた呂布の協力で黒山賊をも破り、河北を統一する。また、呂布は袁紹のもとから抜け出す。
 曹操はその頃西暦一九四ー二〇〇年にかけて戦争にあけくれていた。袞州で刺史の劉岱が黄巾賊の残党の鎮圧に失敗して死んだので、彼の腹心だった斉北の相魴信によって刺史として迎えられ、鎮圧に成功していた。そしてその黄巾賊降伏した者の中から精鋭を選りすぐり、青州兵と称した。袞州で曹操は多くの人材を集めた。武将では一兵卒の中から登用した于禁(文則)、楽進(文謙)や親族の四天王、夏侯惇(元譲)・夏侯淵(妙才)・曹仁(子孝)・曹洪(子廉)や典韋、許緒(仲康)、李典(曼成)など、知将では荀イク(文若)や荀攸(公達)、程イク(仲徳)、鐘ヨウ(元常)、郭嘉(奉孝)、劉曄(子陽)、満寵(伯寧)、毛介(孝先)、呂虔(子格)、陳羣(長文)などであった。
 彼はまず皇帝を許昌へ迎え遷都した。また、このとき受けた褒美の少なさに腹を立て、反乱を起こした揚奉を鎮圧した際に徐晃(公明)という勇将を手に入れた。この後、父の仇の徐州太守陶謙(恭祖)の討伐に出る。しかしそこでは平原の劉備の援軍と、彼の親友であり、陳留太守だった張[え貌]が、彼の弟の張超や、参謀の陳宮(公台)にそそのかされ、呂布を立てて反旗を翻したのを理由に退かねばならなかった。しかし、荀イク、程イクの活躍で顕城だけは奪われずに済み、みごと呂布から袞州を取り戻すのである。そして、破れた呂布は徐州に逃げ込んだ。このころ陶謙はすでに没しており、陶謙に頼まれて徐州太守となった劉備が徐州太守となっていた。その時劉備はもともと陶謙配下だった糜竺(子仲)、糜芳(子方)、孫乾(公祐)などの人材を得た。呂布は小沛でしばらくおとなしくしていたが、荀イクの駆虎呑狼の計で劉備が詔勅により、皇帝を僭称した袁術の討伐に向かっている内に徐州をとった。その後劉備は曹操のもとへ逃げ込む。袁術は曹操に破れた後袁紹のもとへ身を寄せようとするが、曹操に遣わされた劉備に攻撃され没する。劉備はその後再び徐州にて独立するも再び敗れ、今度は袁紹の許に逃げ込む。
 呂布はその後八健将軍(呂布配下の張遼(文遠)、臧覇(宣高)を始めとする八人の勇将)のうちの侯成、魏続、宋憲の裏切りで破れた。そのほかの八健将軍や、陳珪(漢瑜)、陳登(元龍)親子や張[え貌]も降伏する。また、張超はすでに戦死していた。次に曹操は南陽の張繍の討伐に行き、策士賈栩(文和)の策略で二度破れ、典韋を失うが結局張繍は曹操に降伏し、曹操は袁紹との決戦に備える。
一方、劉表の武将黄祖に主君孫堅を殺され、後を継いだ孫策(伯符)は推南の袁術から兵を借り孫堅の代からの仕える四天王武将、祖茂(大栄)、程普(徳謀)、黄蓋(公覆)、韓当(義公)や、朱治(君理)、敢沢(徳潤)らを連れ劉岱の弟である寿春の劉ヨウ(正礼)、会稽の自称呉の徳王・厳白虎や王朗(景興)などを破り、さらに王允が呂布を使って董卓を倒した要領で甘寧(興覇)を使って荊州劉表軍の盾・黄祖を倒し劉表を圧迫。江東に覇を唱える。人々は彼の事を小覇王と呼んでたたえた。また、その途中、陳武(子烈)、太史慈(子義)、周泰(幼平)、蒋欽(公奕)、董襲(元代)などの武将や、義弟の周瑜(公瑾) 、江東の二張として有名だった張昭(子布)、張紘(子綱)などの知将、建業に落ち着いてからは徐盛(文嚮)、朱桓(休穆)、朱拠(子範)、魯粛(子敬)、諸葛瑾(子瑜)、丁奉(承淵)、虞翻(仲翔)、顧雍(元歎)、張温(恵恕)などの逸材を手にいれた。ちなみに、主人だった袁術とは皇帝を僭称した時点で絶縁状を叩き付けています。その後孫策、周瑜義兄弟は善政を施し、孫策は孫郎、周瑜は周郎と言って親しまれた。また、孫策は西暦一九七年江東を制圧したとき、大司馬(軍事最高官)の位を曹操に要求するが断られ、曹操を恨むようになった。このことから孫策は袁紹との決戦に乗じて曹操の背後を突こうと考えるが狩猟の途中、殺した呉郡太守許貢の食客だった男に殺された。そして弟の孫権(仲謀)がその跡を継いだ。
 そして、曹操と袁紹の一大会戦「官渡の戦い」が始まる。劉備とはぐれたその義弟関羽の活躍により、白馬、延津と言った局地戦で勝利するも、大局は変わらず。しかし曹操自ら行った袁紹の一大兵糧備蓄基地烏巣の襲撃により戦局は大変、袁紹は敗れ憤死した。後継に選ばれた末子袁尚と長子袁譚の紛争につけ込んで曹操は河北を完全に平定。さらに烏丸の踏頓を撃ち、遼東の公孫康を降した。
 曹操が次に目を向けたのは荊州だった。荊州には袁紹との決戦に際して袁紹の命により背後で蠢動していた劉備が逃げ込んでいたのだ。曹操は荊州に降伏するよう使者を出そうと思い、孔子の子孫・孔融(文挙)の友人の禰衡(正平)を使者としてだし、劉表はその使者を黄祖の元に送り、黄祖は自分の悪口を言ったのを理由に殺してしまう。それを口実に曹操は南征を決行。荊州では河北の袁家と全く変わらぬお家騒動が勃発しており、劉表の死後跡を継いでいた末子劉綜は曹操に全面降伏。曹操は荊良の弟の荊越(異度)や文聘(仲業)を得ます。一方、劉備は状況を知らず孤立してしまい、江陵を目指しますが長坂で曹操の追撃に遭いますが張飛、趙雲の活躍で逃走に成功。やむなく目的地を変更、夏口にて劉表の長子劉埼と合流しました。この時、伊籍(機伯)・霍峻(仲[え貌])といった多くの劉表の遺臣達が劉備に付き従っています。劉備はこの後孫権との同盟を考え、劉備が三顧の礼をもって迎えた水鏡司馬徽(徳操)の門下生・伏龍諸葛亮(孔明)を説客として差し向け、諸葛亮は同盟を成功させた上に曹操との開戦を決意させるという大功を立てます。
 そして三国時代最大の会戦「赤壁の戦い」が行われます。鳳雛[广龍]統(士元)の連環の計、黄蓋の偽装投降を初め、蒋幹・蔡兄弟を利用した情報操作により、赤壁の天を焦がす火計が成功、この敗北により曹操の天下統一の野望は潰えました。このどさくさに紛れて劉備は荊州を奪取、劉埼を州牧に据えその死後は自らその位に着きました。そのあと、孫権からの荊州返還要請の使者魯粛を諸葛亮の智恵によりやりこめ、うまいこと言って荊州を返しません。その間劉備は地元で有名だった馬良(季常)、馬謖(幼常)を始めとする馬氏五常と言われる五兄弟・黄忠(漢升)・魏延(文長)・張裔(君嗣)と言った人材を集めました。また、[广龍]統も孫権陣営から馳せ参じています。
 一方、曹操はいずれ来る二度目の南征の時に背後を突かれないために、涼州の猛将馬騰(寿成)を呼び寄せてだまし討ちした後、関中に兵を向けた。涼州では今は亡き馬騰の長子で彼の後を継ぎ、神威将軍と恐れられた猛将馬超(孟起)は仇討ちとばかりに父の友人だった韓遂(文約)や自分の勢力を初めとする関中の十部と呼ばれる豪族集団と共に兵をあげ、長安をとっていた。しかし策士賈栩の巧みな策略で韓遂は曹操に寝返り、馬超は破れて残った者は漢中の張魯のもとに身を寄せる。この時曹操は「隴を得て蜀を望む」と光武帝の名言を言って蜀に攻め入らず、引き返します。この言葉が後漢時代の始めと終わりを彩ることとなりました。官渡の戦いの後の文書焼却の件と共に鑑みるに曹操は光武帝に習おうとしていたのでしょうか。もしくは荊州を取って揚州を攻めて失敗したように、雍州を取って益州を攻めたら失敗すると思ったのでしょうか。なんにせよこの判断は曹操による統一をさらに遠のけることになります。
 張角以来の古代道教・五斗米道の教祖・張魯(公祺)は益州にで布教していたが、益州もすでに新しく牧として入って来た劉焉(君郎)により天師道は弾圧され、天師道の本拠は漢中に移っていた。劉焉は張魯に対する策として張脩にも地位を与え、五斗米道に二つの頂点を作って分裂させようとするが張魯は張脩を殺し、単独頂点に立ったのである。また、劉焉が死に、その嫡男劉璋(季玉)が地位を継いだ後、張魯の母が成都の宮殿を出入りするようになった。劉備の入蜀前に再会はせずに死にましたが、劉焉は劉備が義勇兵を率いて馳せ参じたときに幽州の牧だった男です。
 漢中で張魯のした病人即ち罪人の治療法は罪人に三官天書と呼ばれる三通の祈祷書・誓約書を書かせ、それを一通は三官の一人の天の神に捧げるため、山の上に置き、もう一通は三官の次の一人、水の神に捧げるため水に沈め、最後の一通はさらにもう一人の官の地の神に捧げるため地に埋めた。これにより精神的治療がされた。五斗米道の本拠漢中では治と呼ばれる廟観に似た二四の建物や義舎という無料宿泊施設が建てられており、義舎には旅行者や流亡民が必要なだけ取るよう義損の米や肉がぶら下げてあったが、余分に取ると妖術で病気をもたらされると言われていたので宿泊していた人もそう多くは取れなかっただろう。義舎に入った人々も信者と同じく扱われ、規則に違反した者は三度まで許され、その後刑罰を受けた。軽い罪ならば百歩間の道を自分で修理するというような慈善行為で許されたので、漢中の道という道は綺麗に整備されていたという。また、春夏には狩猟、死刑などの殺戮は一切禁じ、酒を禁じた。そして、この様な取締は、姦令長を中心とする姦令の手により行われた。それからこの張魯が作った制度では入信に五斗の米が必要だったため、ちまたではこの宗教を五斗米道と呼ぶようになった。
 西暦二〇三年、益州を攻めていた劉備は[广龍]統の活躍で当時劉璋の治めていた益州も、漢中の張魯の援軍を率いていた馬超の李恢(徳昂)の説得による降伏が決め手となり、最終的には簡雍(憲和)が使者として赴く事により手にはいりました。しかし[广龍]統は流れ矢に当たって死んでしまうのです。しかし劉備は益州攻略のおかげで法正(孝直)・孟達(子慶、正史では子度)・黄権(公衡)・劉巴(子初)・李厳(正方)・厳顔などの人材を得、そして何より統一への足がかりをつかんだのです。
 一方、曹操は張魯を破り漢中を手に入れ、魏王に即位します。劉備軍はは漢中を攻め、張[合β]は張飛に敗れ、夏侯淵は黄忠に斬られます。曹操は怒り狂い、大軍を以て出撃し徐晃を繰り出しますが趙雲の活躍や王平の裏切りで結局敗退。劉備はこの勝利を機に漢中王に即位、劉備はこの時に関羽を筆頭として、張飛・黄忠・趙雲・馬超を五虎将軍に任命した。また、実は魏にも同じく五名将と言われるものがあり、張遼を筆頭として徐晃・楽進・張[合β]・于禁がそれである。この時が劉備軍−のちの蜀の最盛期である。人材・領土共に最も豊かであったことには反論の余地がない。
 そして「樊城の戦い」が始まる。関羽はこの勝利に乗じて北上、樊城の曹仁を攻撃しようと考えた。ところが糜芳・傅士仁の二将が不始末で兵糧を焼いてしまう。関羽は孫権軍陣地から兵糧を拝借して補充、二人には留守番を命じた。これにより関羽の命運が尽きていたと言っていい。これに先だって関羽は孫権と子供同士の縁談話を一蹴しており、これにより孫権は堪忍袋の緒が切れていた。関羽は巧みな戦術で樊城の曹仁を追いつめ、援軍に来た于禁・[广龍]悳(令明)も捕らえた。[广龍]悳は馬超を劉備とすると馬岱が張飛、[广龍]悳が関羽と言っていい名将で、訳あって張魯陣営に残っていたのが曹操に捕らえられた者である。そう考えるとこの状況は「官渡の戦い」と酷似している。しかし結果は違い[广龍]悳は忠節を守って処刑され、逆に曹操軍譜代の将軍であり、五名将にも数えられる于禁は無様に投降した。曹操はさらにこれまた五名将の徐晃を援軍に派遣、関羽は徐晃との戦いで腕に毒矢を受け負傷。一方、孫権軍の陣営で荊州に睨みを利かせていた名将呂蒙(子明)が結核のため引退、代わって若手の陸遜(伯言)が就任し関羽に手紙で腰の低い挨拶を述べた。関羽はこれに油断し、荊州の守備兵を最低限のものにし、樊城攻略に全力を注いだ。そして退任した呂蒙が病をおして荊州に侵攻。関羽に留守番−事実上の謹慎を命じられた糜芳・傅士仁は投降。関羽は帰る場所を無くし、寥化(元倹)をして上庸に援軍要請するが、守将の劉封・孟達はそれを黙殺。関羽は麦城から脱出したところを関平・趙累共々潘璋の部下馬忠に捕らえられて首を刎ねられ、麦城に残っていた王甫・周倉もその報を聞いてその後を追った。呂蒙は孫権軍の悲願である荊州奪還を果たした後、結核を拗らせて没する。これを後世では関羽の祟りだとするが、武将としてこれ以上立派な生涯はないと小生は考える。ただの猪武者から猛勉強で軍を背負って立つ智将に成長し、軍の悲願を達し後継者も指名してから死ぬ。相手が人気があったと言うコトはそれだけ手強い相手だったと言うコトであり、難敵を倒して謗られるので有れば弱い者虐めをする者を誉めればよいのかと言うコトになる。呂蒙はもっと評価されてしかるべきである。
 後世に貶められて逆に人気を博したのが張飛で、張飛は演義では益州侵攻の際厳顔を破った辺りから急に智将になり、五名将の張[合β]を破るなどの活躍をするが、正史では何のこたぁない。最初から結構な戦術家だったのだ。つまり演義では劉備を聖人君主に仕立て上げるために劉備の粗暴な面は全て張飛に押しつけられているのである。その最たるものが駆け出し時代の「督郵メッタ打ち事件」である。アレは実は劉備自らやったものなのだ。そこから張飛のイメージが後世において「無邪気で憎めない暴れん坊」になり、当初三国志は張飛が主役だったのである。私が思うに劉備はゴロツキを従えた典型的な遊侠の親分だったのではないだろうか。あと、二人の義弟が活躍しすぎ、小説の聖人君主イメージがあるためにややひ弱なイメージがあるが、二人を凌駕するほどの腕力を持っていたのではないかとさえ思う。私にはゴロツキが徳なんて目に見えないもので死力を尽くしてその人のために闘うとは思えないのだ。侠という精神も困ったときお互い助け合う武闘派仁義であるが、それができる腕力が必要であろう。そうでなければ劉備は漢王朝の血筋を引くと言うだけの理由だけで立てられたお飾りだったと言うコトになってしまう。
 さて、義弟を殺されて劉備が黙っているはずがない。後世の言うところの関羽が祟りで曹操も連れていったあと、長子の曹丕(子桓)が献帝から禅譲を受けて魏を起こしたのに対し、劉備は皇帝に即位し漢を再興、そして最初の権力使用は関羽の弔い合戦だった。劉備は趙雲・秦必(子勅)らの諫めを振り切って呉討伐の軍を起こします。こうして「彝陵の戦い」が始まります。戦に前に張飛が部下の范彊・張達に寝首をかかれ、更に怒り、まず関羽の子・関興(安国)と張飛の子・張苞が孫桓を蹴散らします。しかしここで黄忠を失うも、オウ亭にて「呉の張遼」こと甘寧を討ち取り、関興は潘璋をたおして父の青龍刀を取り戻し、その部下で赤兎馬の方を下賜された関羽拿捕の主犯・馬忠の首を糜芳・傅士仁が取って劉備に走ってきた。そのカモネギならぬ仇が仇を背負ってやってくる状況に劉備は迷わず首を持ってきた二人の首を刎ね、三つの首を関羽の墓前に添え、張飛の仇の范彊・張達も孫権から護送されてきて、義弟二人の仇の首は全て揃った。しかし劉備の怒りは収まらず、孫権も講和を諦め呂蒙の後継者陸遜を繰り出す。陸遜は機を待って孫権軍伝統の戦法である火攻で劉備に完勝。劉備は白帝城にて孔明に後事を託して没する。
 孔明は劉備の死に乗ずる曹丕の五路同時攻撃を退けた後、南蛮征伐を行い、いわゆる「七檎七縦」をする。演義では毒気のある川や、毒味水の湧く泉、獣を使う王や、籐甲を使う軍など、大変バリエーションに富んだ面白い戦いが繰り広げられるが、全て羅貫中の創作である上に、実際に南征を行ったのは張嶷(伯岐)だったりする。
 そして後顧の憂いを断った上で、さらに強敵になるであろう司馬懿を重用していた曹丕の死後、曹叡(元仲)の代で情報操作で失脚させた上で、「出師の表」を奉り第一次北伐を開始。三郡を降し姜維を得て、曹真らを破って好調に連勝するがココで曹叡が司馬懿を起用。司馬懿は孔明に内応していた孟達を速攻で殺し、街亭で馬謖を破って蜀軍を退却に追い込む。この退却の時に孔明が使ったのが「空城の計」。孔明を過大評価した司馬懿はまんまと引っかかって軍を退くのだが実は次男の司馬昭はコレを見破っていた。ちなみに演義に於いても「空城の計」は曹操軍との漢中争奪戦で趙雲が使った作戦の二番煎じなのに、正史に至っては本当に「空城の計」を使ったのは荊州の文聘だったりする。
 孫権が周魴(子魚)の偽装投降で魏の曹休(文烈)を破り、皇帝に即位して呉を建国したのに触発されて、孔明は「後出師の表」を奉じて第二次北伐を開始。しかし、出撃の寸前に趙雲が死ぬという幸先の悪さ通りに、名将[赤β]昭の守る陳倉が落とせず、救援に来た王双(子全)を殺し、曹真をあしらって退却。しかし[赤β]昭重病の報を聞き、再度出撃。武都・陰平を落とすなど好調に勝ち進むが張苞の死を聞き、病を得て退却。
 曹仁の南下に対し、孔明は出撃。コレが第三次北伐である。曹真を憤死させ、司馬懿との直接対決も八卦の陣を使って有利に進めるも、最初に相手に使った情報操作を向こうに裏切った自分の部下を使ってやられ、やむなく退却。
 第四次北伐では神兵を使って有利に立ち回るも李厳の自分の兵糧輸送のミスを誤魔化すためのデマのせいでまたもやむなく退却し、追撃してきた張[合β]を殺す。(部下に足を引っ張られているように見えるが、その部下の任免権は全て孔明が握っている。人材が他にいないと言えば理由は立つかも知れないが)
 孔明は国力を蓄え、万全の体制で最後の第五次北伐へ出る。しかし、その直前関興が死ぬ。一方司馬懿も自ら推挙した夏侯淵の四人の子を引き連れ、こちらも万全の体制。上方谷で司馬懿を魏延もろとも焼き殺し、後の憂いをまとめて立つ作戦は雨天のため失敗し、決戦は五丈原にもつれ込む。孔明の延命術も失敗し、孔明は没する。退却中の魏延の反乱も孔明の遺言通りに馬岱が解決。
 孔明の死後、司馬懿は電撃奇襲で遼東の公孫淵を葬った後、クーデターで曹真の子の曹爽(昭伯)を倒し、その影響で夏侯覇(仲権)が蜀の亡命してくる。彼は孔明最後の北伐を司馬懿と共に迎え撃った夏侯淵の四人の子の一番上である。姜維は彼と共に、魏の皇帝殺害や内乱、呉の皇帝や実力者の手紙などを理由にざっと見て孔明の倍の回数の北伐を行う。当初は司馬懿の二子が相手だったが、次第に登艾(士載)が出てくるようになり、姜維・夏侯覇組と登艾・司馬望(子初、司馬懿の甥)組の戦いになり、勝ったり負けたりの激戦となる。姜維に歯止めを掛けていた蒋宛(公炎)・費緯(文偉)・董允(休昭)も没し、建国の功臣の生き残りの寥化・張翼(伯恭)らの反対も無視して無謀な北伐を繰り返す姜維に民衆の不満は募っていく…。宮廷では実力者陳祇亡き後、茶坊主的宦官黄皓が権力を握り、蒋宛ら亡き後政治を見ていた諸葛瞻(思遠)・董厥(恭襲)・樊建(長元)の中で黄皓と裏でで繋がっていなかったのは樊建のみであったという記述がある。董厥は姜維と共に北伐で戦った人物だし、諸葛瞻は後述の通り成都を守って戦死している。その孔明の子らが黄皓と繋がって孔明の弟子とも言うべき姜維を失脚させたことになるのだから蜀ファンとしては耳を塞ぎたくなるような話である。その隙に魏は鍾会(士季)・艾をして蜀を攻めさせる。その軍中には皮肉にも孔明と同族の諸葛緒のような将軍もいた。鍾会が姜維を引きつけているうちに登艾は山を越えて四川盆地に侵入、孔明の子の諸葛瞻を破り劉禅を降した。諸葛瞻と一緒に李恢の子・黄権の子と一緒に張飛の孫で張苞の子の張遵が戦死しているが、その叔父・張紹や蒋宛の子・登芝の子が降伏の使者に立っている。二代目達の時代だったことがよくわかる。やむなく姜維も鍾会に降るが、鍾会を利用して登艾を陥れ、蜀を再興しようとするも失敗し蜀の最期の戦いを彩った三人の智将は全て死に、蜀最後の老将寥化・張翼らもどさくさで死に、全ての功績は司馬昭に帰し、その功で晋王に登る。その直後司馬昭は急死し 、その長子司馬炎(安世)が帝位を簒奪、晋を建国した。帝位を簒奪された曹奐(景明)の前の皇帝曹髦(彦士)は司馬昭に殺されており、その前の曹芳(蘭卿)は司馬懿に目の前でクーデターを起こされたあげく、司馬師の廃されている。その前が漸く曹叡なのだ。
 ちなみに五国志関連のことで言っておくと五国志の主人公格の三兄弟はどうなったかというと、劉甚は蜀が滅ぶとき自刃し、劉恂は劉禅の跡を継ぎ、劉遽には『東西両晋五胡十六国時代』でも話しますが、匈奴の大単于劉淵になったという伝説があります。
 一方、三国最後の一国・呉ではすでに孫権は没していました。孫権が長生きしすぎたせいか長男で太子の孫登が父より早く死に、次男の孫和が太子に立てられていたのだが、孫権がその下の魯王孫覇を可愛がったため、国内が太子派と魯王派の真っ二つに別れて争い、陸遜もその中で伺いを立てられて「長子を立てるべし」と正論を述べて怒りを買い獄に下されて憤死。結局両成敗となり孫和は廃され孫覇は死を賜り末子の孫亮(子明)が立てられ結局孫亮が二代目皇帝となりました。孫権は漢武帝でも気取りたかったのでしょうか。そうなると霍光は確実に諸葛瑾の子の諸葛格(元遜)と言うコトになる。孫権の死後の司馬兄弟の侵攻を丁奉が甘寧を彷彿とさせる奇襲で防いだ後、二代目皇帝孫亮を無視し、実力者諸葛格が強引に北伐を展開し敗北。孫峻(子遠)に誅殺される。その跡を継いだ孫[糸林](子通)は諸葛誕(公休)の反乱に乗じて魏に攻め込むも敗北。やってるこたー諸葛格と何ら変わらない。孫[糸林]は孫亮を廃すが次に立てた三代目の孫休に誅殺される。ちなみに諸葛・孫間の政争は孫権の後継問題の因縁を引き継いだものである。諸葛格はかつて太子派で孫峻はかつて魯王派だったのだ。それから職が滅んだのは孫休の代。孫休はちったーましだったよーだが長生きせず、呉最後の皇帝孫皓(元宗)が即位する。孫皓は典型的な暴君で、「呉の黄皓」こと岑昏を側に置き、諫める者は片っ端から殺した。黄皓は劉禅に遊戯による快楽を提供し、岑昏は孫皓に殺戮による快楽を提供したと言える。よーするに魏も呉もまともだったのは三代目(曹叡・孫権)までだったのだ。更に致命的なことに呉の最後の名将とも言える呉軍の支柱である陸遜の子陸抗(幼節)が晋軍の司令官羊古(叔子)と敵として尊敬し合っているのを内通と疑い、兵権を剥ぐ。羊古は機が来たことを司馬炎に上奏するが、聞かれず羊古は後継に「左伝癖」の杜預(元凱)を推して呉の攻め入ることなく病没。杜預や王濬の連日の上奏、張華(茂先)の勧めにより遂に司馬炎も南征を決意。呉に攻め入る。杜預は「破竹の戦い」と言われる戦いぶりを見せ、王濬が建業一番乗りを果たし、こうして呉は滅びて三国は遂に統一され、三国時代は幕を閉じます。


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