東西両晋五胡十六国時代

 この章のタイトルは「東西両晋五胡十六国時代」と大変長ったらしい欲張った名になっていますが、これには訳があります。似たような例である「魏晋南北六朝時代」についてもついでに弁解しておきますが、一言で言うと「漢民族びいきも北方民族びいきも僕は北朝びいきも南朝びいきもしないよ」と言うコトなんです。「東西両晋時代」と言うのは漢人王朝をひいきした言い方ですし、「五胡十六国時代」というのは北方民族にしか言及していない上に、「五胡」と言う蔑称で北方民族を呼んでいます。最近では蔑称を消し、さらに南朝にも言及するように「東晋十六国時代」と言うように運動が進んでいます(似たような話で、「倭寇」を「和冦」とすべきと言うのもあります)。だったら「東西両晋十六国時代」で良いじゃないかと思ったのですが、「五胡」と言うのは蔑称ではあるのですが、民族の区分け手段として大変解りやすく、消すのが惜しいため残しました。「魏晋南北六朝時代」と言うのも同じで、「魏晋南北朝時代」と言うのは「魏晋時代」と「南北朝時代」を合わせたわけですが、「魏晋時代」と言うのは、魏が正統で蜀や呉は無視しています。逆に「六朝時代」と言うのは孫呉・東晋・劉宋・南斉・梁・陳の六つの王朝な訳ですが漢民族びいきのあまり、北朝を無視しています。そこで「魏晋南北六朝時代」となりました。蜀が無視されているような気がしますが、まああれは漢帝国時代の漢の残党の流寓政権なんでまあ大目に見てやって下さい。
 さて、本題です。統一を果たした司馬懿の孫の西晋の武帝司馬炎(安世)であるが、彼は統一するまでは名君の名に違わない皇帝だったのです。贅沢品を焼いて倹約の模範を示してみたり、三国の君主の天寿を全うさせてやった意味でも寛容でした。しかし、統一がなってしまうと滅ぼした国の後宮の美女を自分の後宮にそのまま収めて、後宮美女が一万人を越えたり(後宮美女三千人×三国≒一万人)と享楽に耽り、天下太平モードに入ってしまいます。ちなみに一万人の美女の名なんて到底覚えきれないので、司馬炎は羊の引く車に乗り、羊が止まった部屋の女をその日抱くと言うコトをしました。羊を呼び寄せるために女達が部屋の前に塩を盛ったことから現在の水商売の風習が始まったそうです。魏の陳羣が考案した能力次第の登用制度である九品官人法の審査員・中正官もその出身貴族の上下でお墨付きである郷品が割り振られるようになってしまいます。その例として父の名だけで太守の座に着いたという三予(衛臻の子・衛烈、劉放の子・劉煕、孫資の子・孫密)が挙げられる。ところで、実はこの司馬炎が小生が中国で一番なってみたい皇帝だったりする。魏晋南北朝時代唯一の中華の統一者で後宮美女一万人だし。しかも、とても楽に統一したようです。楽に統一したという点では隋の文帝楊堅もそうですが、彼は恐妻家で妻以外の女性を抱くことができませんでしたから。しかしまあ、恐い嫁さんのせいで下半身に欲求不満が散々溜まった後、滅ぼした南朝の弥勒菩薩のような皇族のお姫様(宣華夫人)を無茶苦茶に犯してやるというのも男としてやってみたい気がしますな(ジュルルルルルゥ…)。
 そして貴族の贅沢の競いあいが始まります。王済が母乳で食用の豚を育てたとか、羊秀が奴隷に代わる代わる酒瓶を抱かせて酒を人肌で醸させたりと小生の『五国志』や『陸羊記』にも登場する呉討伐に功のあった人々の縁者の奢侈が描かれています(王済は王渾の子で羊秀は羊古の従弟。王済はいいけど、羊秀は『陸羊記』の主人公なのにぃ〜!)。これに対して何が本当に貴族的だとか芸術的だとか贅沢だとか、聞くのも馬鹿馬鹿しい議論が起こっています。竹林の七賢(岱康・阮籍・山濤・向秀・阮咸・王戎・劉伶)の清談もその類。阮籍は建安七子(孔融・王粲・陳琳・阮[王禹]・劉驕E徐幹・応[王易])の一人・阮[王禹]の子で、阮咸はその甥。岱康には自分を推挙した山濤に絶縁状を叩きつけたり、親友呂安の無実を晴らす為に証人台に立って殺されたりとエピソードがある。ただ、この処刑は学問上のライバルであった鍾会が裏で司馬昭と共に仕組んだようだ。ところが、よくわからんことに、岱康は処刑が決まったときに息子の岱紹を山濤に託している。絶縁状はどうなったんだろう。この話を知ったとき、徐庶が孔明を劉備に推挙した話を思い出した。ちなみに岱紹はのちに司馬炎の息子の恵帝司馬衷を庇って死にます。そのとき司馬衷の服に返り血が着くのですが、司馬衷はこの服は忠臣の血が付いた服だから着替えないと言ったといいます。ここから司馬衷は実は名君だったのではという説があるようです(蜀の劉禅でも似たような話を聞いた気がしますが)。あと、王戎は父の王渾と共に呉討伐に活躍した人物で、ケチで有名(追記:どうも王済の父の王渾と王戎の父の王渾は同姓同名の別人らしい。つまり、王戎の父の王渾は正確には一緒に闘った王渾とは別人で、一緒に闘った別の王渾の息子が王済であり、王戎の父の王渾は王雄の子で、王済の父の王渾は三征の一人王昶の息子であるらしい。三征の残りの二人は胡遵・毋丘倹)。さらに、王戎の従弟の王衍は永嘉の乱関係で後に登場し、最高貴族である彼ら瑯邪王氏の末裔達も東晋時代に大いに活躍します。
 次の皇帝には暗愚で有名な恵帝司馬衷が即位した。司馬衷についての有名な故事がある。飢饉で凶作の年、民が穀物が獲れなくて飢えていると聞いて、「米がないならなぜ肉を食わんのだ」と言ったと正史に記されています。彼のような史上に残る暗君が帝位につけたのは司馬衷の息子の司馬逸が優れていたからだと言います。つまり次ではなく、次の次の代に望みを託したわけですね。清の康煕帝と乾隆帝みたいに。また、衛灌は酔ったフリをして玉座を叩いて「玉座が勿体のうござる」と言ったそうです。まあ、衛灌は自分の娘が皇太子妃になれなかったから負け惜しみを言ったともとれますが。さて、皇太子妃の第一候補だった色白美人で才女の多産系な衛灌の娘の代わりに皇太子妃になったのはその正反対、色黒醜女で嫉妬深くて少子系な賈充の娘でした。賈充は司馬昭の時代から司馬一族の頭脳として働いてきた男で、人々が南征策を唱えたのは南征で功を立てて賈充の一族に対抗するためだったという人も居ます。でも結局南征軍の総大将は賈充でした。賈皇后は楊皇后−恵帝司馬衷の実母で武帝司馬炎の妻−に賄賂を送って皇太子妃の座を得たと言います。
 恵帝の後見人には楊太后の父・楊駿がなったのですが、実は叔父で皇族の長老である汝南王・司馬亮(八王@)と二人で後見人になるはずだったようです。しかし司馬亮を召す証書を楊駿が隠してしまったため、司馬亮は来れなかったのです。さて、司馬衷が帝位に着くと、その妻である賈皇后は夫の暗愚さから、権力を握った外戚の楊一族がいつ夫を廃し、自分も今の地位を追われるか恐くなり、司馬亮に楊一族を誅させようとします。しかし断られ、恵帝の弟である楚王司馬[王韋](八王A)に誅させました。そのとき後見人になったのは先程の司馬亮と衛灌ですが、賈皇后はこの二人がまた煙たくなり、司馬[王韋]に二人を殺させ、その罪をかぶせて司馬[王韋]をも殺してしまいました。
 そして賈皇后は今度は自分の子を皇太子にしたいと考え、美少年を次々とさらって宮中に連れてきては励んだが子が産まれず、お腹に藁を詰めて妊娠したと見せかけ、甥を貰い子にした。そして、司馬炎が期待していたという司馬逸を廃し、その貰い子を皇太子につけたのである。司馬逸はその後毒殺されました。ただし、司馬逸は司馬懿の再来もてはやされ、司馬炎に期待されていた頃に比べ、ずいぶん堕落していたと言います。とはいえ、やはり皇太子を廃したのは大事だったので各地の諸王が決起しました。司馬[王韋]の時もそうだったのですが、西晋王朝は郡県制ではなく封建制を取っているため、各地に強大な軍隊を持った皇族がごろごろしています。ここで決起したのは腹心の孫秀にそそのかされた趙王司馬倫(八王B)と斉王司馬冏(八王C)でした。司馬倫は司馬亮の弟で、司馬亮亡き後の皇族の長老とも言える存在です。司馬冏は武帝司馬炎の弟の司馬攸の息子です。話す機会を逸しましていましたが、司馬冏の父の司馬攸は優秀な人物で、魏の曹丕と曹植のように後継者争いもあったし、恵帝司馬衷の代わりに皇太弟として二代目皇帝になる話もあったような男です。少々話が逸れましたが、司馬倫と司馬冏は洛陽に入り、司馬倫は賈皇后を廃した上で殺し相国の位に着いた後、なんと司馬衷を太上皇に棚上げして自ら帝位に着いてしまいます。
 これに怒ったのが共に決起した司馬冏で、今度は長沙王司馬乂(八王D)・成都王司馬穎(八王E)・河間王司馬[禺頁](八王F)と共に司馬倫を誅し、今度は司馬冏が大司馬として恵帝司馬衷を補佐することになります。しかし、彼も驕慢になって無理な土木工事を行うという専横をするようになります。さらに彼が立てた傀儡のための皇太子に、より血の近い恵帝司馬衷の弟に当たる司馬乂・司馬穎が不満で司馬[禺頁]と共に司馬冏を攻め殺してしまいます。その後は皇帝を補佐する司馬乂と腹心の張方にそそのかされた司馬[禺頁]・司馬穎連合軍の争いとなり、東海王司馬越(八王G)の参戦により司馬乂が敗れて殺され、司馬穎が皇太弟となりました。つまりこの戦いは司馬乂と司馬穎どちらの皇弟が皇太弟になるかの争いだったようです。成都王司馬穎はさらに羊皇后を廃したり、文豪の陸機・陸雲兄弟を殺したりと専横をします。
 どうやら司馬家の血筋は武帝司馬炎の代から一旦天下を取ってしまうと驕慢になってしまうようです。しかし、司馬穎は洛陽ではなく、軍事拠点である[業β]にいました。恐らくは次に他の王が決起したとき、攻められやすい洛陽の地では守りにくいと思ったのでしょう。予想通り東海王司馬越は予章王司馬熾と共に恵帝司馬衷を奉じ羊氏を皇后に返り咲かせて決起しますが敗れ、恵帝は司馬穎の軍中に迎えられることになります。しかし司馬越は匈奴・烏丸・鮮卑と言った異民族の軍を率いて再び[業β]を攻め、司馬穎は[業β]を放棄して洛陽に入った。洛陽を支配していたのは河間王司馬[禺頁]の腹心・張方で、彼は長安へ遷都したあと司馬穎を皇太弟から廃し、代わりに予章王司馬熾を皇太弟とし、羊皇后を廃した。羊皇后が廃されたのは二度目である。東海王司馬越は再び決起し長安をを攻め落とし、一ヶ月おきに成都王司馬穎・恵帝司馬衷・河間王司馬[禺頁]が殺された。恵帝の次には皇太弟である予章王司馬熾が即位した。これが懐帝である。彼が王の一人に数えられないのは皇帝に即位したからなのである。彼が即位せず、どさくさで死んでいたならこの一連の乱は『八王の乱』ならぬ『九王の乱』と呼ばれていたであろう。これで『八王の乱』はひとまず終局を見ました。さて、一通り書いてみたが私自身もよく解っていないかも知れないので下の表のように整理してみた。

@汝南王司馬亮(Aに殺される)
A楚王司馬[王韋](楊一族・@・衛灌を殺し賈皇后に殺される)
B趙王司馬倫(Cと決起し、賈皇后を殺し、Cに殺される)
C斉王司馬冏(Bと別れた後、DEFと決起し、Bを殺しDEFに殺される)
D長沙王司馬乂(Cと別れた後、EFと決起しCを殺し、Gに殺される)
E成都王司馬穎(Cと別れた後、Fと決起してCを殺し、Fと決起しDと闘い、Gに殺される)
F河間王司馬[禺頁](Cと別れた後、Eと決起してCを殺し、Eと決起しDと闘い、Gに殺される)
G東海王司馬越(EFに加勢してDを殺しさらにE・恵帝・Fを殺す)
H予章王(懐帝)司馬熾(Gを憤死させる)

何だかまだわかりにくいのでこう言うのはどうだろう

楊一族 衛灌 @汝南王司馬亮
↑    ↑   ↑
├───┴──┘
A楚王司馬[王韋]

├───────┐
B趙王司馬倫←─C斉王司馬冏
↑          ↑
├───────┼───────┐
D長沙王司馬乂 E成都王司馬穎 F河間王司馬[禺頁] 恵帝司馬衷
↑          ↑          ↑               ↑
├───────┴───────┴──────────┘
G東海王司馬越

H予章王(懐帝)司馬熾

 ↑がのびている先が↑の根本のヤツが殺したという図です。コレで解りにくかったらもう小生には打つ手がないやも知れません。ちなみに私は作っているうちに何となく掴めたような気がします。では、『八王の乱』が一段落着いたので次は『永嘉の乱』に行こうと思います。
 『永嘉の乱』の口火を切ったのは匈奴の劉淵と言う人物です。彼は成都王司馬穎が[業β]に立て籠もっていたときに将帥の一人として兵を率いていましたが出奔し、諸部族から大単于に擁立され、さらに漢人を支配するため、三〇四年(永興元年)に左国城を都とし漢王と号し元号を元煕としました。このころ彼らだけではなく、各地で異民族は独立していました。三〇四年には李特の子。李雄が成都で成都王を称し、翌年には帝位に着いた。史上に言うところの成漢である。また、こちらは異民族ではないが三一三年、涼州刺史の張軌が姑臧城を根拠地として独立、国号を涼とした。史上に言う前涼である。長城の東端に近い遼西地方では鮮卑の慕容部の慕容[广鬼]が晋の法を採用し、民に農耕を教え、三〇七年に大単于を号した。同じく鮮卑の一つ拓跋部は、猗盧の指導下に漢文化を採用し、三一五年に晋王朝から代王に封ぜられて、北辺の秩序維持を担わされた。これは漢民族の「夷を以て夷を制する」異民族統治に策に従ったものである。鮮卑はグループは魏晋の段階で

慕容部  宇文部  乞伏部  拓跋部  段部

の五つでしたが他にも禿髪部・索頭部と言ったものが見られ、他にも存在していると思われる。東では匈奴の別部である羯族の石勒や、漢人ではあるが匪賊「飛豹」こと王彌が暴れ回っていた。劉淵はこの石勒・王彌らを支配下に入れ、南匈奴族を統合して、三〇八年(永嘉二年)平陽に遷都して皇帝と号して永鳳と改元し、洛陽を攻撃した。しかし、三一〇(永嘉四年)年悲願の洛陽攻略を果たさずして没する(光文帝)。劉和と劉聡の後継者争いがあったが、最小限の犠牲で劉聡が即位し、翌年洛陽攻撃は再開された。その年、懐帝司馬熾の後見人である東海王司馬越が没した。しかし、没した場所は洛陽ではなく項城であった。懐帝は自分の後見人を煙たがっており、後見人は自ら洛陽を去り、没したのである。憤死と言っていいだろう。その棺を守って瑯邪王氏の太尉王衍(前に登場した王戎の従弟)が十万という大軍を率いて東海へ戻ろうとしました。この十万は石勒に残らず補足され、王衍の「政治家になんてなりたくなかったんだー」と言う悲痛な叫びの中、土壁の下敷きにされて皆殺しになりました。さらに同年、洛陽も陥落し、懐帝は洛水を渡ろうとしたが船が残らず焼き払われておりならず、懐帝と恵帝の皇后羊氏は平陽に送られ懐帝は殺され、羊氏は劉聡の従弟の劉曜に下賜された。この頃、王彌は劉曜に殺されています。懐帝が殺されると長安にてその甥の司馬[業β]が皇帝として推戴され、愍帝と呼ばれていました。しかし、これも三一六年(建興四年)に劉聡に殺されました。
 さらに二年後の劉聡は没し、皇太子の劉粲が即位した。しかし、酒に溺れたところを家臣の[革斤]準に殺され、それに対して劉曜は長安を国都として即位し、国号を趙としました。石勒も襄国にて即位、こちらの国号も趙となっています。一般に劉曜の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼びますが、西趙・東趙と言った方が解りやすい気がします。また、劉曜が即位したとき、皇后には流浪の皇后羊氏が立てられたのですが、劉曜は彼女に司馬衷と自分とどちらがよいか訊ねたと言います。それに対する返事が

−陛下は開基の聖主、彼は亡国の暗夫なり。何ぞ並べて言う可けんや。

と言うものでした。石勒が「君子営」を設け、門臣祭酒と門生祭酒の二重体制を作り上げるなどと名君だったのと対照的に、劉曜は酒浸りになりました。司馬一族と同じく劉淵の一族も驕慢になり、酒に溺れる傾向があったようです。そして三二八年、劉淵に「千里の駒」と持てはやされた劉曜は酒を飲みながら戦い、後趙の虜となって殺されました。さらに石勒の従子の石虎は劉曜の太子劉煕を捕らえて殺し、このとき劉曜の部族−匈奴屠各部五千余人を洛陽で穴埋めにしてしまいます。石勒が三三三年に死ぬと、石虎は太子石弘を殺して帝位につき、[業β]に遷都しました。石虎は亀慈の名僧・仏都澄を尊敬しているのを疑いたくなるほどの殺戮を繰り広げます。さらに成果もないのに東の前燕や西の前涼と戦い続け、[業β]の土木工事など、散々国費を使って没しました。石虎の死後、石虎の従子の冉瞻の子の冉閔が石虎の家族はおろか、羯族そのものを殺し尽くしました。ただし、羯族ではないのに大半が鼻が高かったり髭が多かっただけで殺されたそうです。冉閔は魏という漢人王朝を立てますが、鮮卑慕容部に三年で滅ぼされ、冉閔も殺されました。
 一方南では西晋の亡命王朝が誕生していました。晋という三国を統一した王朝は三国志の三国全ての特色を持っていると言えるのではないでしょうか。魏と同じ手順で先代が準備したとおりに息子が簒奪、蜀のように流寓政権を立て、呉と同じく今の南京に都し、南に割拠する(その証拠に呉に続く六朝二番目に数えられています)。さて、亡命王朝を立てたのは瑯邪王司馬睿と言う人物で、彼は呉討伐で活躍した司馬[イ由]の孫に当たる。彼が即位したのは劉聡が没した年で、国都の建業は愍帝の名を避けて建康と改称した。これが東晋の元帝である。劉聡の死後、北中国は東西別れて混乱するので時勢に乗ったと言えよう。彼が南に亡命したのは東海王司馬越の参謀・王導の進言によるものだったのですが、亡命王朝においても彼ら瑯邪王氏の天下となりました。王導が政治、その従兄弟の王敦が軍事を掌握していました。彼らは西晋の名臣・王祥の弟・王覧の孫に当たります。王敦は朝廷から遠ざけられたと感じ、武昌から国都健康へ進撃しました。しかし、結局建康を落とした後、根拠地武昌で造反が起きたのを止めるためにすぐに戻りました。そして、元帝司馬睿が憤死し、皇太子司馬昭が即位しました。東晋の明帝です。彼は黄色い髭が特徴的な名君だったんですが、即位三年で死んでしまいました。ただし、問題児王敦も彼の在位中に没しています。そのあと幼い成帝(明帝の子)が即位すると、明帝の皇后の一族の[广臾]亮によって運営されることになります。このころ、蘇峻・祖約の乱が起きますが陶侃によって鎮圧されました(祖約は「先鞭」の祖逖の弟)。そのあとは王導が再び政治を行いました。しかし王導が没すると[广臾]亮の弟の[广臾]冰が政治を見るようになり、再び外戚[广臾]氏の時代になります。このように成帝(明帝の子)の末年から康帝(成帝の弟)・穆帝(康帝の子)の初期の約十年間外戚[广臾]氏の時代でした。そして、[广臾]亮のあとに荊州(西府)に桓温という大実力者が登場します。彼は何度か北伐を敢行し、まず、李氏の成漢を滅ぼしてで関中まで兵を進めました。揚州(北府)の軍権を握る殷浩という人物が対抗すべく北伐を行いますが、羌族の姚襄の裏切りにあって失敗。桓温にその軍権を取られてしまいました。桓温は次の北伐で洛陽を回復、ますます声望を集めました。このあとに穆帝(康帝の子)が没し、哀帝(成帝の子)が即位しています。三度目に鮮卑慕容部の前燕を攻めましたが、氏族の前秦の援軍に敗れました。そして、哀帝の次に立った廃帝(哀帝の弟)を廃立し禅譲革命を起こそうとしますが、立てた皇帝−簡文帝(明帝の弟)が崩御し、桓温も没してしまいます。その後の東晋は、孝武帝(簡文帝の子)が立ち、謝安と言う人物に統治されることになります。
 北に目を戻すと、冉閔の魏の滅亡後、北中国は再び東西二分されようとしていた。東は鮮卑慕容部の前燕、西は氏族符氏の前秦である。ところで、最近は五胡十六国の五胡に蔑称の響きがあると言われることから、東晋十六国と呼ぶように叫ばれているが(倭寇を和冦と呼べと言うのも同じ理屈であろう)、かつて五胡十六国と言っていた。五胡とは匈奴・羯・鮮卑・羌・氏・であり、十六国は二趙、三秦、四燕、五涼、そして成と夏と覚えたりするが、まず、二趙は劉曜の前趙と石勒の後趙。前趙の前身である劉淵の漢や後趙の後身である冉閔の魏は数には入れないようだ。三秦の一番最初は先程上がった氏族の前秦で、他の二秦とは血縁の関係はない。逆に四燕はうち三つが鮮卑慕容部の王朝で、もう一つ慕容部の西燕という王朝があったが短命なので数に加えない。五涼は張軌の前涼を初めとして陜西から甘粛にかけて興亡した五王朝で、夏は匈奴の[赤赤]連勃勃の匈奴の王朝である。また、のちに北魏となる代ももちろん加えない。
 さて、鮮卑慕容部はかつて後趙末期の頃、北と南にそれぞれ同じ鮮卑の宇文部と段部がいて、さらに彼らは東の高句麗と結んで慕容部包囲網を作ろうとしていた。慕容部は石虎に援軍を求め、石虎はそれに応じ、段部を蹴散らした。しかし、石虎はさらに北に進んで慕容部に言いがかりを付けて慕容部を攻めた。当時の慕容部の酋長慕容[皇光]は石虎を撃退し、段部が持っていた土地を手に入れ、さらに高句麗や宇文部も圧迫した。そして次の代−慕容儁(慕容[皇光]の長男)は皇帝に即位した。これが前燕の始まりである。やがて、前涼に石虎が敗れ、没したあとこれに取って代わった冉閔の魏を滅ぼした。東晋の桓温が北伐を行ったのがさらにその息子の慕容暉の代で、これを撃退するのに前秦の援軍と共に闘ったのは慕容垂・慕容徳といった叔父達でした。しかし、この戦いで最も活躍した慕容垂ですが、声望を集めすぎて皇帝慕容暉から煙たがられていました。かつて後見人で垂の兄の慕容格が潤滑油となっていましたが既に没しており、慕容垂は暗殺れそうになり、前秦に亡命しました。
 前秦はかつて東晋の桓温と前燕の戦いに援軍を送ったとき慕容垂の強さを見ていたので、前燕は攻めたいが慕容垂がいるうちはどうにもならないと考えていたので、その強敵が味方になったので大喜びでした。当時の前秦の皇帝は符堅と言う人物です。前秦は前述の通り氏族の王朝で、かつて蒲洪と言う人物が石虎に降り、そのもとで雌伏していたのですが、石虎の死後、西方に移動し大単于・三秦王と称し、姓を符と改めた。その子の符健の代で長安に拠って秦天王と称し、皇帝の位に着いた。これが前秦の始まりである。このあとの符生が暴君で、かつて祖父の符洪が父の符健に殺せと命じたことがあるほどであった。その時は符健の弟の符雄の取りなしで助かった。符生と反比例して声望が高まったのがその符雄の子の符堅で、彼は羌族の姚襄(東晋の殷浩の北伐で裏切った人物)を討ち取ってその弟の姚萇を降したりとますます声望を高めたのである。従兄符生が自分を憎んでいるのを知って符堅は先んじてこれを殺し、秦天王と称した。そして漢人の王猛と言う人物を宰相とし、国政を委任しています。ちなみに王猛はその前に桓温からの仕官の誘いを断っているという経歴の持ち主です。符堅は東晋十六国時代最高の名君であり、王猛は東晋十六国時代最高の政治家と見て間違いないでしょう。
 話を戻すと、慕容垂が降ってきたあと、援軍の報酬である虎牢関以西の割譲を行わなかったことを理由に王猛をして前燕を攻め滅ぼし、慕容暉を殺してしまいます。割譲して貰えなくて怒るのも解りますが、割譲したくない気持ちも分かります。なぜなら桓温を撃退したのはほとんど慕容垂で前秦の援軍はほとんど役に立ちませんでしたから。さらに符堅は張軌がかつて立てた前涼−当時の王は張天錫−を滅ぼし、張天錫を赦免して長安に住まわせました。さらにその三年後、襄陽を攻略しました。このとき、襄陽を守っていた朱序と言う将軍は符堅に要職に付けられています。いずれにしても符堅は寛容すぎます。他の民族を都に住まわして、自分の民族を別の場所に住まわすなど、民族間の交流を狙ったのでしょうが、理想主義が過ぎました。ところで、襄陽攻略はよく「十万の師をもって一人半を得る」という仏教の美談通り、道安とその弟子の習鑿歯を得るためというのも襄陽攻略の理由の一つでしょうが、本当の理由は南征の準備と思われます。余談ですが道安は石虎が崇拝した仏都澄の弟子です。また、符堅が仏教が好きな理由のエピソードとしてもう一つ上がるのは鳩摩羅什を得るために将軍呂光を亀慈を派遣したと言うものもあります。このこともと後々絡んでくるのですがまあひとまず置いておきましょう。南征に反対してた王猛の没後も弟の符融や道安が南征に反対しました。しかし王猛の死の八年後(三八三年)、符堅は百万と号する軍で南下を開始しました。南征推進派の慕容垂や姚萇の口車に乗せられたのです。一方、南の東晋は謝安の時代で、迎撃には自分の弟の謝石や甥の謝玄が出陣しました。東晋軍の総数はだいたい六万ほどだったと言います。百万対六万では勝負にならないと思いますが勝ったのは東晋軍でした。淮河の支流の[シ肥]水で符堅は相手の渡河を誘うために河の手前で後退して見せました。そこに「退却だ!」と言うデマが広まりました。そのデマを広めたのはかつて襄陽を守っていた朱序だったと言います。いずれにしても異民族同士の混成部隊だったのでまとまりもなかったのでしょう。
 敗れた符堅は命からがら慕容垂の陣営に逃げ込みました。慕容垂は憐れみから符堅を殺すことなく本拠地の長安へ返したましたが、自立する意志があったため同行はしませんでした。後に彼が立てた王朝は後燕と呼ばれます。せめてもの恩を返したという見方もありますが仮初めとはいえ君主だった人間を殺すという汚名を避けたという見方もあります。しかし符堅は国都長安で結局前燕の王族の反乱にあい、都を追われたところを羌族の姚萇に殺されたのです。他民族を都に住まわせていたのが裏目に出たのです。姚萇はこの後自分達は前秦の後継者であるとして国号を秦としました。史上に言う後秦である。前燕の生き残り達は符堅を追い出した後、燕国を再興するがこれは史上で西燕と呼ばれますが、すぐの慕容垂の後燕に滅ぼされてしまい、短命のため十六国に加えられません。西では姚萇の後秦以外に、山西にて後に北魏となる鮮卑拓跋部の代国が復活したほか、同じく鮮卑乞伏部の西秦、さらに同じく鮮卑禿髪部の南涼、匈奴の沮渠蒙遜の北涼、、唐を立てる李氏の祖先である李高の西涼、鳩摩羅什を得るために亀慈に派遣されていた将軍呂光が自立した後涼とあり、後ろの四つに前秦に滅ぼされた張軌の前涼を加えていわゆる五涼王国です。


戻る][次へ][前へ