南北朝時代(北魏・劉宋〜南斉)
さて、南に目を移すと、その頃、東晋の孝武帝が崩御して長男の安帝が即位していた。しかし相変わらず傀儡で、司馬道子・司馬元顕の親子が専横をしていた(司馬道子は孝武帝の弟)。そこで揚州(北府)の王恭という貴族が二人を討つために建康に迫ったが、実際に軍を率いていた劉牢之が朝廷側に裏切り、殺された。この劉牢之はなかなかの名将で『[シ肥]水の戦い』でも実際に闘ったのは劉牢之らで、謝玄は名目上の裏切られた王恭と同じく名目上の指揮官だったと思われる。これを機会として五斗米道の教主・孫恩が反乱を起こした。五斗米道はつまり後漢末に張魯が立てた宗派である。彼の父・孫泰は東晋に殺されていました。四年後、劉牢之がこれを鎮圧するが孫恩の妹婿の盧循が南に逃れて再決起しました。この鎮圧戦の第一線の部隊長に後の宋の武帝劉裕がいました。その間に荊州(西府)の桓玄は救援軍と称して東へ向かっていました。桓玄は禅譲革命を起こそうとして準備の整う直前に死んでしまった桓温の末子で、桓温が没したあと跡を継いだのですが、当時は幼く叔父の桓沖が後見に付いていたのだ。しかし彼も既に三十を越えており、やはり蛙の子は蛙で彼も帝位を望んでいたのである。それに対して司馬元顕は劉牢之を桓玄にぶつけようとしたのですが、王恭の時と同じく劉牢之は裏切り、桓玄側に付いた。しかし、桓玄の方が一枚上手だったらしく、劉牢之は軍と引き離され、自殺した。何だか劉牢之は三国時代の呂布の様な印象がある。そして桓玄は安帝を幽閉し、禅譲という形で帝位に着いたのである。国号は楚とし、元号は永始とした。劉裕は孫恩の残党狩りからとって返し、京口の桓脩・広陵の桓弘と言った桓玄の縁者を討って決起し、しかるのち桓玄を討ちました。そして安帝を復位させましたが、傀儡に過ぎません。そして劉裕は声望を得るために桓温と同じく北伐を行いました。まず、後燕の残党政権である慕容徳の立てた南燕を滅ぼしました。慕容徳は前燕時代、慕容垂と共に東晋の桓温と闘った人物です。後燕は一代の傑物・慕容垂が建てた王朝でしたが、彼の死後がたがたになり、国名を魏と改めた代国に潰滅寸前まで追いつめられていたのです。結局領地は南北に分断され独立した南燕は前述の通り劉裕に滅ぼされ、細々続いていた正統な後燕も漢人馮跋の北燕に取って代わられました。この諸燕を滅亡に追いやった魏こそ後に北朝の北魏と呼ばれ、永らく北中国を支配する王朝だったのです。劉裕の方は盧循の決起により続けざまに目的地である洛陽・長安をおさえる羌族姚氏の後秦の攻めることはできませんでした。
引き返して盧循を討ったのち、劉毅・諸葛長民と言った旗揚げ時代からの同士や、虞亮・司馬休之と言った豪族を粛清し、土断と呼ばれる戸籍調査を行って兵力を充実した上で最大最後の事業、後秦攻略に繰り出しました。当時、後秦は姚興−姚萇の子−の全盛期を過ぎたところで、王鎮悪の活躍で攻略はなったのですが、その直後本拠を守っていた参謀劉穆之の死を聞きや、次男劉義真を関中において慌てて江南に引き返しました。ところが劉義真は補佐役と仲間割れを起こし、王鎮悪を沈林子が殺し、沈林子を王脩が殺し、王脩を劉義真が殺してまともな将がいなくなったところで、匈奴の[赤赤]連勃勃の夏に攻め込まれ、僧導と言う僧に守られ命辛々逃げ帰ります。余談ですがこの例に僧導を優遇したことから南朝で仏教が盛んになり、捨身を繰り返した皇帝菩薩梁武帝(簫衍)が登場するまでになったと言います。さて、関中の失陥に慌てた劉裕は安帝を暗殺し、新しく立てた恭帝(安帝の弟)に禅譲させて帝位に着き、宋を建国します。この王朝はのちの趙匡胤の宋と区別するため、南朝宋だとか劉宋だとか呼ばれます。そして、劉裕は恭帝を毒殺し、在位わずか三年で没します。しかし、十分すぎるほど準備をした上での即位だったので劉裕自身が死んだからといってそう簡単には揺るぎません。武帝劉裕の死後、皇太子の劉義符が跡を継ぎますが(少帝)、即位三年で補佐役である四重臣(檀道済・徐羨之・傳亮・謝晦)に廃され、三男の劉義隆が即位しています。これが名君文帝です。文帝はまず、檀道済を使って徐羨之・傳亮・謝晦を殺し、親政を行えるように形を整えました。彼の親政は「元嘉の治」として後世にも讃えられることになりますが、ただ一つ失敗があるとしたら檀道済を殺してしまったことでしょう。劉義隆は父とは違い文人肌の皇帝だったので劉裕時代からの百戦錬磨である檀道済がいなければ北方の覇者・北魏の太武帝の南征軍に抗しようがなかったのです。劉裕を武帝、劉義隆を文帝とはよく言ったものである。その太武帝の軍を撃退したのが文帝の三男・劉駿であった。しかし、何を血迷ったか文帝はその勝利によって北伐を思い立ち、太武帝に返り討ちにあって長江以北を蹂躙され、散々荒廃させられたあげく太武帝は退却した。維持する力がなかったからだ。その責任問題で朝廷がもめ、文帝劉義隆が皇太子劉劭に殺されたとき、先程の劉駿が沈慶之の力を借りてそれを誅して皇帝に即位した。孝武帝である。彼は兄弟や親族の有力者を次々と殺し、最後は酒浸りになって死んだ。皇太子の劉子業が跡を継いだが、沈慶之ら老将を殺し尽くしたのですぐに殺された(前廃帝)。次には前廃帝を殺した孝武帝の弟劉ケが即位した(明帝)。それに対して前廃帝の弟劉子が江州で反乱を起こしたので沈攸之(沈慶之の甥)の力を借りてこれを殺した。これで孝武帝の子は全滅しました。しかしこれがまた暴君で、やはり親族を殺し尽くし、明帝の次に即位した後廃帝劉cはも同様で、殺し尽くしましたが、唯一残った叔父で後見人の劉休範を江州に遠ざけたところ、劉休範が決起して都に進撃しました。これを倒したのが後の南斉の高帝・簫道成でした。簫道成はそのあと、後廃帝を殺し、傀儡で劉宋最後の皇帝劉準を立てました(順帝)。そして、順帝も最後に「今度生まれてくるときは皇族になど生まれたくない」と言い残して簫道成に殺されました(似たような話で明の崇禎帝も国が滅びたときに娘に向かって「お前はなんで皇族になんか生まれたんだ」と言って斬りつけました)。簫道成は沈攸之ら反対勢力を鎮圧した後皇帝となり、国号を斉としました。後に北朝にも斉と言う王朝が生まれますので、史上においてこちら−南朝の斉−を南斉、北朝の方の斉を北斉と言います。まんまですね。前趙と後趙みたいに解りにくくなくて助かりますが(クドイ)。劉宋と南斉の血縁が全くないのかと言えばそうではないんです。劉宋の初代皇帝劉裕の知られた逸話で劉裕の母は彼を生んで死んでしまったので、父親一人で育てることがままならず、殺そうと思いました。そこへ母親の妹も調度その頃子を産んだので、共に育ててくれたというものがあります。実は父親がそのあと娶った後妻−劉裕の継母−が簫氏と言って南斉の血縁だったらしいのです。
南斉の初代高帝簫道成は倹約に務め在位四年で没しました。その子で二代目武帝簫[臣責]も同じく倹約に務めましたが、在位十年余りで没しました。そして武帝の皇太孫として簫昭業が即位したが、先代と先先代が倹約してできた蓄財を湯水のようにばらまき、一年も経たぬ間に府庫を空にしてしまいました。一方、そんな中尊敬を集めたのが皇帝の叔父の簫子良と大叔父の簫鸞(高帝簫道成の甥に当たる)でした。しかし、文人肌で繊細な神経の簫子良が心労で没すると、軍人肌で肝の太い簫鸞に期待が集まりました。そこで簫鸞らは簫昭業を廃し、その弟の簫昭文を立て、一族の中で禅譲が行われました。これが明帝です。この明帝簫鸞、傍系に当たるが故に本家の復活を恐れるあまり、高帝簫道成の直系−本家−の人間を片っ端から殺し尽くしました。仏教信者の明帝は棺桶を数十個用意し、毒薬を調合させた上で焼香して涙を流したそうです。そして夜が更ける頃にはその棺桶が塞がっていたそうです。こんなことになるんなら武帝の皇太子が死んだとき、皇太孫でなく皇太子の弟に当たる簫子良を立てればよかったのに−と思うのは私だけでしょうか。さらにその子簫宝巻も次々に殺しました。十人目に一族の簫懿を殺したところ、襄陽にいたその弟・簫衍が兵を挙げ、簫宝巻の弟・簫宝融を奉じて主とし、簫宝巻を討ちました。これにより簫宝融が帝位に着きましたが、簫衍の傀儡に過ぎません。そして五〇二年、簫衍は禅譲を受けて帝位に着き、国号を梁としました。南朝一の名君、梁の武帝の誕生です。梁の武帝は先述の簫子良の幕下で学んでいたこともある教養人です。そう言う意味でも先程、簫子良が帝位に着いていれば違ったのに−と言ったわけです。
一方北では北魏が統一を果たしていました。この王朝は後に東西に分裂し、それぞれが『東魏』『西魏』と呼ばれるために同じく方角で一般的に『北魏』と呼称されますが、直前の曹操の魏−いわゆる曹魏−と区別を付けるために『後魏』『拓跋魏』『元魏』と言った呼ばれ方をすることもあるようです(ということは『曹魏』を前魏と呼ぶこともあるのでしょうか?)。北中国を北魏が統一したときの北魏の皇帝は太武帝で、太武帝は開祖道武帝拓跋珪の孫で、明元帝拓跋嗣の子で、三代目でした。太武帝の在位期間は劉宋の文帝劉義隆の在位期間とほぼ一致します。実際この二人は何度か矛を交えていますし、宿敵だったと言ってよいでしょう。太武帝はまず、宋が回復した洛陽・長安を奪った[赤赤]連勃勃の夏−当時の王はその子の[赤赤]連昌−を敗死させました。[赤赤]連昌の弟の[赤赤]連定率いる残党は鮮卑乞伏部の西秦を滅ぼして土地を奪いましたが、吐谷渾と言う遊牧民族に滅ぼされました。さらに漢人馮跋の北燕−当時の王はその弟の馮弘−を滅ぼし、匈奴沮渠蒙遜の西涼−当時の王はその子の沮渠牧建−も滅ぼし吐谷渾をも討って北中国を統一していました。政治面では、道武帝の頃から漢人官僚の崔宏・崔浩親子らにより漢化が進んでおり、崔浩の中華思想により仏教が弾圧された。仏教で言うところの「三武一宗の法難」の初めである。「三武一宗」の残りは北周武帝・唐武宗・後周世宗である。しかしその崔浩も国書事件で処刑されている。太武帝が南征を開始したのはその後である。なぜなら崔浩は生前、中華思想から南征に強く反対していたからである。太武帝はその後謀殺され、文成帝・献文帝・孝文帝と幼帝時代が続いた。太武帝の在位期間が劉宋の文帝とほぼ一致するように、文成帝が劉宋の孝武帝・献文帝が劉宋の明帝と在位期間がだいたい一致するようだ。さて、幼帝が続く中、北魏の実権を握っていたのは馮太后である。彼女は文成帝の皇后だった女性で、北燕の馮弘の孫でした。彼女は宰相の乙渾を殺し、権力を手中に収めると「三長制」「均田制」と言った改革を断行。これにより北魏は飛躍的に発展します。また、太武帝の代で弾圧された仏教は彼女によって手厚く保護されました。馮太后の没後は孝文帝がその漢化政策を引き継ぎました。南朝最高の名君が簫衍ならば、北朝最高の名君は孝文帝でしょう。彼は馮太后の漢化政策を更に進め、平城から洛陽へ遷都し、胡服胡語弁髪を禁じ、姓を拓跋から元へと代えました。解りやすく言うと趙の武霊王の逆をしたんです。まあ、正確にはちょっと違いますけど。また、王朝が永く続くにつれて皇族が増えすぎるという事態に対し、臣籍降下という制度を取り、一定以上皇帝から遠縁になった人物は姓を元から源へと改めるのです。鎌倉幕府の源と言う姓はどうやらこのことと関係があるようです。しかしその馮太后に可愛がられた秘蔵っ子の孝文帝の真の宿敵は他ならぬ馮太后だったのです。孝武帝はその父母・母方の祖父母一家・父の生母を全て馮太后に殺されていたのです。しかし、これは馮太后が特別なのではなく、外戚の台頭を防ぐための鮮卑の風習だったのです。だから孝文帝は馮太后よりもこの制度を憎んだといいます。しかし北魏最高の名君・孝文帝も三十三才の若さで没しました。南斉が滅びたのも丁度この頃です。つまりこのあと南朝では簫衍が登場したのです。つまり北朝最高の名君と南朝最高の名君は入れ替わりに登場したわけですね。
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