後三国時代(東魏(北斉)・西魏(北周)・梁(陳))
孝文帝が死ぬと、宣武帝が即位しました。彼は二度目の皇太子で最初の皇太子は漢化政策に反対して廃されています。宣武帝の母の高氏は鮮卑の旧習に従って殺されていましたが、その兄の高肇が実権を握りました。彼は皇太子を立てたとき、旧習に従わず、その母である胡氏に死を賜りませんでした。その胡氏の子の孝明帝が即位すると、太后となった胡氏が実権を握り、まず、先代の時実権を持っていた高肇とその姪で先代の宣武帝の皇后・高氏を殺しました。宣武帝の母も高肇の妹で高氏でした。つまり先代の皇帝と皇后はいとこだったのです。おそらく皇后が高氏だったのは高肇が権力を掌握する一環だったんだと思われます。こうして、胡太后は先代の時の権力者を一掃すると、妹の夫である元叉を用い、勢力を奮ったのです。
そんな折り、「六鎮の乱」の前哨戦とも言える事件「羽林の変」が起こりました。北魏は現状で中国古来の貴族と漢化政策によりできた新貴族が政府の官職を独占し、軍人達の出世の門が狭かった。それに対して張仲[王禹]と言う人物が孝明帝に軍人が文官になることをさらに制限するよう上奏した。それに対して天子の親衛隊である羽林営の軍人達千人あまりがデモを行い、張仲[王禹]の家に放火した。これに対し、胡太后は首謀者を殺し、将校を年功者から順に文官に転用することで機嫌を取った。しかし羽林営よりもっと酷い扱いを受けている軍人達が居た。それが六鎮である。六鎮とは北方に盤踞する柔然に対する押さえとして、首都平城を北から取り巻くように配された六つの基地である。西から順に懐朔鎮・武川鎮・撫冥鎮・懐荒鎮・柔玄鎮・禦夷鎮と言った。彼らは創業時代は武功次第で幾らでも出世できる名誉ある地位として羨望の眼差しを送られる者達であった。ところが洛陽遷都後は、田舎に取り残された駐屯部隊に成り下がり、交代兵がやってこないので、将卒とも土着してその地位を継がなければならなくなっていた。しかも中央政府から赴任してくる新貴族の高級士官は上官風を吹かせ、士卒を蔑み、酷使し、軍事費を着服する。そんな状況の中、破六韓跋陵と言う人物が北辺で反乱を起こしたのである。初め六鎮はこれに同調しなかったが、やがて撫冥鎮の葛栄を旗頭として同調して政府に背いた。これを鎮圧したのが、爾朱栄という奚族の豪傑であった。首領である破六韓跋陵は捕虜となって洛陽で首を刎ねられ、同調者の葛栄は潰走した。このとき、多くの六鎮の勇者が爾朱栄の傘下に加わったのである。
その頃、宮廷内では胡太后と元叉が不和となり、初めは胡太后が幽閉されたが、元叉は胡太后に欺かれて殺された。そして今度は胡太后は実子の孝明帝と不和になったのである。そして孝明帝が考えたのが外部の力を借りて、この馮太后の再来とも呼べる女傑にして、自分の母親に対抗することだった。そして孝明帝の声が掛かった人物が再び登場する爾朱栄−その人だったのである。爾朱栄は田中芳樹の小説、『奔流』の主人公、陳慶之が『鍾離の戦い』の後、洛陽を占領したのを撃退した人物です(このときの皇帝は孝荘帝)。爾朱栄という奚族の豪傑は異民族の封建制度が残存した領民酋長と言うやつで、世襲的にその地位が受け継がれていくものであった。爾朱栄はその中でも最も強大で、山西の北部に広大な領土を持ち、牛馬の牧畜は谷で数えるほど多かったという。彼は孝明帝の声が掛かるなり洛陽に向かって進撃した。その先鋒を務めたのは高歓という人物である。のちに大活躍するので今のうちに紹介すると、彼は宣武帝の頃に権力を握った高一族の一支派だと自称するが、当てにならず、実際は懐朔鎮に土着した鮮卑族の出である。爾朱栄の南下に慌てた胡太后は孝明帝を毒殺し、孝文帝の孫で、三歳の幼児を帝位につけ、爾朱栄に引き返すよう言った。しかし爾朱栄が止まるはずもなく、黄河で洛陽から脱出してきた孝文帝の甥を帝位につけ(孝荘帝)、南下を続行した。胡太后が防衛に出した軍は戦わずして爾朱栄に降ってしまい、胡太后は髪を剃って尼となって謝罪したが、爾朱栄は許さず、胡太后と三歳の幼帝を黄河に沈め、それでも収まらなかったのか、孝明帝の毒殺を傍観した丞相以下二千余人を皆殺しにしたのである。これにより朝廷の全権が爾朱栄の一手に集まったのである。そのあと、破六韓跋陵軍に同調した葛栄が河北で勢力を盛り返して[業β]を包囲していたのを侯景−これまたあとで大活躍する人物−を先鋒として打ち破り、葛栄を処刑した。それまで不敗を誇っていた葛栄軍を負かせたので、これにより爾朱栄の強さは北魏全土に轟いた。しかしその爾朱栄も油断したらしく、実権を持っていかれて面白くない孝荘帝にあっけなく暗殺されてしまったのである。しかし孝荘帝は孝荘帝で先が続かず、山西の本拠より軍を率いてやって来た爾朱兆・爾朱世隆と言った爾朱栄の一族に殺され、孝荘帝の従弟が節閔帝として即位した。高歓は爾朱栄が死ぬとその一族に見切りを付け、冀州を根拠地として爾朱一族打倒の兵を挙げ、[業β]を攻略した。高歓は爾朱栄が洛陽を攻めたときに先鋒を務めた人物である。爾朱一族は[業β]奪回の兵を挙げたが大敗し、高歓は洛陽に入って節閔帝を廃し孝文帝の孫を立てた。これが北魏最後の皇帝・孝武帝である。立てられた孝武帝は帝位に着くときは嫌々だったくせに、帝位に着くとその座を人に譲りたくなくなり、節閔帝を初め多くの皇族を殺し尽くした。さらに高歓をも倒そうとして関中の勢力である懐朔鎮出身の宇文泰と結ぼうとした。それを晋陽で察した高歓は都を洛陽から関中より遠い[業β]へ移そうと動き始めた。危険を感じた孝武帝は宇文泰に救援を求めたが、救援が来る暇もなく高歓軍が晋陽から殺到、長安の宇文泰のもとに逃げ込んだ。 高歓は洛陽に入ると北魏の皇族の中から孝文帝の曾孫を捜し出して帝位につけた。これが孝静帝である。そして、準備通りに都を[業β]に移したのだった。一方、長安に逃れた孝武帝は同族の従姉妹を何人か後宮に入れたので、宇文泰はその一人を殺して諫言を試みた(中国では同姓婚は不倫)。そこで二人は不和になってしまい、孝武帝は半年も経たぬうちに毒殺された。かわってその従兄が擁立された。これが文帝である。ここに魏と言う一つの王朝に二人の皇帝が存在したことになる。孝静帝は東魏、文帝は西魏と称せられる。まんまです。くどいようですが、領土は似たようなもんなのに、二つの趙王朝は二つに別れた魏王朝のようになぜ東西ではなく前後で呼ばれるのでしょう。全くややこしい。学ぶ側の気持ちになって欲しいものです(本当にクドイ)。正史に数えられる『魏書』では勢力関係から東魏を正統としますが、孝武帝の正当性を認めて西魏を正統とする書もあるようです。無論、東魏の真の主は高歓であり、西魏のそれは宇文泰であったのですが。東魏の高歓・侯景・慕容紹宗らは懐朔鎮(六鎮最西端)出身の武人であり、西魏の宇文泰(西から二番目)は武川鎮出身の武人である(葛栄の出身である撫冥鎮は西から三番目でした)。二人は何度もお互い矛を交えたが、決定的な勝利を得ることができずいました。しかし、経済力も軍事力も東魏の方が上なので、宇文泰は騎馬部隊と正面から闘わず、ゲリラ戦を展開した。そして宇文泰が兵力確保のためにとった政策こそ府兵制だったのである。そのうち高歓が病没すると、高澄が後を継いだが、それで黙っていないのが侯景である。侯景は爾朱栄が[業β]を攻めたときに先鋒を務めた人物である。彼は懐朔鎮時代からの高歓の同僚だったので、本当は高歓の風下に立つのも嫌だったが、高歓の方が年上だと言うことで我慢していた。しかし、高澄が高歓に代わって大丞相に立つと、あんな青二才の下にいられるかと、兵を起こし、王偉という参謀の言に従ってまずは高澄の弟の高洋を調略しようとしました。しかしならず、侯景の叛意を知った高澄は智将慕容紹宗をして侯景を討たせました。侯景は慕容紹宗をなぜか苦手としていたようです。もし、『南史』侯景伝の冒頭にある侯景に兵法の師である慕容超宗と慕容紹宗が同一人物ならば、侯景が慕容紹宗に手玉に取られた一つの理由になるのですが。その『南史』では侯景を弓術や馬術がダメな智将として描き、逆に『梁書』では弓術や馬術に通じる猛将として描かれています。『資治通鑑』では左足に較べて右足が短いという身体的特徴から『南史』の記述を採用していますが、侯景が智将だとすると王偉の存在意義がなくなるような気がします。侯景が猛将で王偉がそれを利用する縦横家的知恵袋として考えると、『三国志』の董卓と李儒や呂布と陳宮のように考えて小説的妄想が膨らみますが、どちらかというと『史記』の韓信と荊通のように考えるべきなのかも知れません。不利を悟った侯景は自領である河南十三州を与えることを条件に梁武帝簫衍に救援を求めました。しかし、武帝の治政下で安穏を貪っていた梁軍は戦いとは呼べないほどに敗れ、救援軍を率いていた梁武帝の甥で簫懿−斉の皇帝簫宝巻に殺された梁武帝の兄−の子の簫淵明は捕らえられ、[業β]に送られました。梁武帝は敗れた侯景の亡命を受け入れましたが、侯景は淮水南岸の寿春城を占領してしまいました。高澄は侯景が梁の助力で巻き返すの恐れ、徐陵を使者として、簫淵明と侯景の捕虜交換を申し出ました。これに対し危機感を感じた侯景は、これまた王偉の献策で武帝の甥である臨賀王簫正徳を調略し、臨賀王の船団で天然の要害で南の長城とも言える長江を渡り、簫正徳を天子に奉じて梁都建康を攻めた。史書には都城の門番を務めていた人物で、徐陵と並び称される文人・[广臾]信が手にしていた蜂蜜の壺を射落とされた話がリアルに記されている。梁武帝と皇太子簫綱は親衛隊で防御を固める一方、四方に救援を求めた。しかし、救援に来た諸王は牽制しかしない。なぜなら彼らは皇太子と仲が悪かったからである。今死力を尽くして建康を救っても得をするの皇帝が崩御した後即位する皇太子だし、下手に手柄を立てるとその分皇太子に猜疑を受ける恐れすらあるのだ。首都防衛軍を率いる羊侃とその足を引っ張る朱已のやりとりは田中芳樹の『長江落日賦』で読めます(朱已の名は『平家物語』の冒頭にも見えます)。そんなこんなで城を包囲する側もされる側も兵糧が尽きて
@武帝及び皇太子の地位を安堵し、侯景を大丞相に任じ、朝政を掌握させる。
A簫正徳の帝号を取り消し、適当に礼遇する。
B武帝が詔を出して地方の救援軍を撤退させる。
この三点で和解が成立したのである。しかし、侯景は自分が武帝の孫娘の婿となるのと引き替えに簫正徳を殺したのである。そして、武帝は幽閉され、満足な食事も与えられず、老衰で哀れな最期を遂げる。享年八十六才。現代で言えば百才を優に超える年齢である。もっと早く死んでいれば名君のまま死ねたのに、変に長生きして側近に政治を任せ、側近や権力者が悪事を働いても処罰せず、処罰してもすぐ許し、もとの地位を返してやると言うことが続いたのである。侯景に内応した臨賀王簫正徳も、鍾離の戦いの前哨戦で兵を置き去りにして敵前逃亡そた父親の臨川王簫宏とと親子共々本当ならとっくに庶民に落とされてもおかしくないような人物だったのだ。そして皇太子簫綱が即位し、簡文帝となったが無論傀儡でしかない。一方、地方に引き揚げた諸王達は互いに戦争を始めた。戦争はまず、河東王簫誉・岳陽王簫祭兄弟の連合軍とその叔父、湘東王簫繹との間で始まった。そして簫誉は殺され、簫祭は西魏に亡命した。次に簫繹は兄の簫綸と戦い簫綸は東魏へ亡命した。こうして勢力を拡大した簫繹と侯景の対決は不可避となった。そして、侯景が簡文帝を殺したのを機に、簫繹は王僧弁・陳覇先を先鋒に侯景討伐を開始した。侯景は敗れ、「天が我を滅ぼすのだ」と項羽気取りで都を逃れ、船に乗って海を伝って北に逃げようとしたところを追いつかれ、子供共々殺され、首は湘東王、腕は北斉の高澄に送られ、残りの部位は彼を憎む庶民に喰らい尽くされた。その中には彼の妻であった武帝の孫娘の姿もあったという。侯景の知恵袋の王偉は簫繹に送った詩から詩才を惜しまれ、助けられそうになったが、かつて侯景が簫繹を討つときに作った檄文の「昔項羽には目が二つあったが、湘東王(簫繹)には一つしかない」と言う一節が簫繹の逆鱗に触れ、王偉の舌を抜いて釘で柱に打ち付け、体を膾切りにして殺された。侯景を倒した簫繹は自然に帝位につけられ、自分の根拠地江陵を都とした。これが元帝である(曹操も袁紹の幕僚の陳琳に祖先まで遡って貶められましたが、袁紹を滅ぼした後、曹操は陳琳を取り立てました。器の違いですね。陳琳は建安七子の一人に数えられます)。
元帝は誰もが認める梁の新たな天子であったが、もう一人天子を自称する男がいた。元帝の一つ下の弟で、蜀を支配する武陵王簫紀である。元帝は西魏の宇文泰に蜀を与えることを約束し、簫紀を挟撃した。西魏の軍を率いたのは宇文泰の甥に当たる尉遅迥である。この戦いにより簫紀は敗れ、元帝簫繹に殺された。西魏の尉遅迥はそのまま蜀に鎮し于謹が元帝のいる江陵に攻めかかり、自ら収集した何万巻とも言われる書物が焼ける中で捕らわれ、殺された。元帝がまだ湘東王であった頃に政争に敗れて西魏に亡命していた簫祭が西魏により梁の皇帝に立てられた。傀儡王朝といわれる後梁の誕生である。宇文泰はこの年の没している。宇文泰にとっては肥沃な「天府の地」を得てこれからと言うところであったろう。なにせ、このところいいところがなかったのだから。侯景の乱で南朝がゴタゴタしていた頃、東魏の高澄は勢力拡大に余念がなかった。厄介払いした侯景が思わぬ幸運を呼び込んでくれたのである。早速淮水以南を占領した。その捕虜の中に蘭京という料理人がいて、自分の縁者の奴隷を解放して欲しいと高澄に懇願したが、断られ、料理に毒を盛って高澄を殺してしまう。それを継いだのが高澄の弟高洋で、翌年には東魏の孝静帝を廃して自ら帝位に着き、国号を斉とした。史上に言う北斉の文宣帝である。これを好機と宇文泰は征東軍を起こしたが、高洋率いる北斉軍の陣容の見事さを見て破れぬと悟り、引き返した。一方、モンゴル高原ではこれまで猛威を奮っていた柔然族の頭兵河汗が突厥族の土門という王に殺され、土門は伊利河汗と号した。高洋がこの侵入を再三撃退したのに対し、宇文泰は領内に逃げ込んできた柔然族を突厥族の脅迫に応じて引き渡すという弱腰な態度を取らざる得なかったのである。西魏の文帝が死に、皇太子が立てられ(廃帝)、皇太弟が立てられて(恭帝)三年目に宇文泰は死んだ。その子の宇文覚が跡目を相続し、恭帝の禅譲を受けて即位した(孝閔帝)。北周王朝の誕生である。ここにおいて、完全に北朝の魏王朝は消滅した。しかし、この筋書きを作ったのは孝閔帝の従兄の宇文護で、北周はこの後数年間彼の天下となる。
一方、梁の元帝が殺されたとき、建康において北斉の侵攻に備えていた王僧弁・陳覇先の両将は元帝の死を聞くにあたり、その子である簫方智を即位させた(敬帝)。これに対し、北斉の文宣帝高洋は侯景が梁へ逃げたときに捕虜にした武帝簫衍の甥である簫淵明を梁の皇帝とすべく、梁の迎撃軍を蹴散らして健康に送り届けた。これに対して王僧弁は「簫淵明を皇帝とするかわり、簫方智を皇太子とするように」と妥協を示した上で受け入れた。もう一方の将である陳覇先はこれに承伏しておらず、隙を見て王僧弁を斬り殺し、簫方智を再び帝位につけた。もちろん、北斉の主高洋は怒って攻め込んできたが、陳覇先はそれを跳ね返して見せたのである。これにより、押しも押されぬ実力者になった陳覇先は敬帝より禅譲を受け、皇帝に即位した。これが陳の武帝である。
さて、この頃になると栄華を誇った軍事大国北斉にも漸くボロが見え始めていた。威を奮っていた軍事力も内部の土木工事を優先するあまりおざなりになり、しかも高一族が遺伝で伝えるもので軍事に於ける天才的な才能と言う長所以外に致命的な短所があった。それが酒乱である。これ以外に荒淫を挙げる者がいるが、この時代においては珍しいことでも何でもなく、レヴィレート婚は別として蛮族の特性でも何でもない。南朝で似たようなものだ。隋の文帝楊堅の様な皇帝のくせに夫人が一人きりなどと言うのは例外を通り越して異常であると言えよう。さて、北斉を軍事大国にしたてあげた狂人にして天才、文宣帝高洋が崩御したが、後事を頼んだ弟の高演に「廃立を行うのはいいが、息子は殺さないでくれ」と言って崩御した。弟の高演は兄の言いつけを守り、兄の子の高殷を殺してから即位した(ヲイ)。これが孝昭帝である。この孝昭帝は在位一年で崩御したが、崩御するときに廃立されること見越して最初から自分の子ではなく、弟の高湛に位を譲った。「お前に位を譲ったのは、息子を死なせたくないからだ。息子は殺さないでくれ」と言って崩御した。弟の高湛は兄の言いつけを守り、即位するなり兄の子の高百年を殺した(コラ)(武成帝)。そして、この殺された孝昭帝の子の高百年の妃は名将斛律光の娘でした。彼女は死ぬ前の夫から渡された佩玉を握ったまま新皇帝の呼び出しにも応じず(応じたらレヴィレート婚のお約束で犯されるのは目に見えていましたし)、絶食したまま死んでしまいます。玉を握ったまま死後硬直した彼女の手に父の斛律光が触れると手が開いて玉を放したという泣かせるエピソードが残っています。武成帝もやはり高氏の軍才を引き継いでおり、北周の宇文護が大軍を率いて洛陽を攻めたときも、先程の斛律光と蘭陵王高長恭を率いて北周軍を潰走させました。ことに蘭陵王の奮戦は舞楽となって伝えられているそうです。その武成帝は年が若いうちに子の高緯(後主)に位を譲って太上皇となりました。兄の子達が殺されたのを見て、自分の子は自分が生きているうちに即位させ、その位を全うさせようとしたようだ。その後すぐに太上皇は死んでしまいます。それを見計らって攻め込んできた北周の韋孝寛を斛律光は破りますが、北斉の後主は讒言を信じて功臣斛律光の一族を皆殺しにしてしまいます。これは先程彼に敗れた韋孝寛の謀略だったようです。さらに翌年には蘭陵王も猜疑を受けて殺されています。
これを機に北周は一気に北斉を攻め滅ぼしました。北斉の首都[業β]に入城した北周軍は「斛律光がいたらとてもこうは行かなかったろう」といったそうです。当時の北周の皇帝は武帝宇文邑。実力者宇文護により立てられた孝閔帝は宇文護を除こうとして殺され、次に立てられた明帝宇文毓も警戒されて殺され、次に立てられたのが武帝宇文邑その人でした。これが北斉の文宣帝崩御の翌年ですね。彼の即位後、宇文護は安心して国政を行いました。しかし皇帝への警戒も忘れません。そして、即位して十二年、気が緩んで油断した実力者の従兄を武帝は誅し、親政を行いました。暗愚を装っていたのです。どうやら彼は兄たちよりさらに英明だったようです。なんだか前漢の宣帝や孫呉の景帝を思い出しますね。彼は父・宇文泰が府兵制を敷いたようにのように僧尼を還俗させてまで富国強兵を敷きました。当時は南北朝問わず仏教の興隆期で、異民族の融和のために見捨てられた儒教に代わり外来の仏教が用いられていました。太武帝の頃には崔浩により土着の道教が用いられ、廃仏が行われたこともありました。ちなみに仏教と道教は仲が悪い。道教によると老子は西に行って釈迦になったそうです。乱世において徴税も徴兵も免れ、寺院の中でお経を唱えてれば食いっぱぐれないというのは魅力で、僧侶の数が増え北周・北斉共に三百万人ほど僧侶を抱えていたようです。武帝は仏教・道教ともに廃して僧侶を還俗させて軍隊に編入しました。これが北斉を滅ぼす大きな力になったであろうことは言うまでもありません。三百万のうち何割が実際に兵になったのかは解りませんが、余りにも大きな数でした。この北周武帝による廃仏が北魏の太武帝に続く『三武一宗の法難』の二つ目です。ところが北斉を滅ぼした一年後、武帝は崩御してしまいます。そう言えば彼の父で北周の事実上の祖である宇文泰も梁を滅ぼした途端逝ってしまいました。この戦乱を乗り切るのは高一族のように神経がイカレていない人間には辛すぎるのでしょうか。武帝の後は皇太子が即死して宣帝となったのですが、彼は宇文一族で初めて現れた暗愚な人物だったようです。今まで宇文泰を始め甥の宇文護や宇文護に立てられた宇文泰の子達は武帝を始め皆英明な素質の持ち主でした。ところが宣帝は即死して間もなく息子に譲位し(静帝)、皇帝の責任を放棄して道楽に走りました。朝政は宣帝の皇后の父である楊堅が掌握しました。そして、上皇(宣帝)の死後、幼主静帝は外祖父楊堅に帝位を奪われ、北周は滅亡しました。結局、北斉も北周もそれぞれの国祖である高歓・宇文泰の没後、その子供達で兄弟相続してるうちはうまく行ってましたが、孫の代になると一気に崩れたわけですね。
楊堅は隋の文帝です。文帝は宇文氏及び宇文氏と婚姻を結んだ貴族勢力を殺し尽くしました。そして、貴族が高官に登ることを防ぐために、貴族権力擁護制度に成り下がっていた九品官人法を廃し、科挙制度を実施しました。つまり、九品官人法のように中正が独断で人の価値を診断するのではなく、中央政府で実際に試験をして直に実力を試すのです。そして、文帝は更に傀儡政権だった後梁を廃して直轄領とし、そこを前線基地として陳をも滅ぼしてしまいました。陳の後主・陳叔宝は武帝陳覇先の孫に当たりますが、傾国の美女張麗華にうつつを抜かし、道楽に耽っていました。どうあがいたって隋の滅ぼされる未来は変わらないからと皇帝でいられるうちに遊び尽くそうと思っていたのかも知れません。そして、この遠征軍の総司令官を務めたのがのちの煬帝・楊広でした。こうして、中国は西晋以来約三百年ぶりに統一されました。西晋の僅かな統一を省くと漢王朝以来約四百年ぶりですか。しかし、この隋の統一も西晋のように僅かな統一でしかなかったのです。[『前三国時代』と『後三国時代』の比較]
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