『前三国時代』と『後三国時代』の比較

 さて、タイトルを『前三国時代』『後三国時代』としたように、この時代は有名な『三国志』の時代に酷似しています。まず、中華の北半分とはいえ、永らく統一を保った北魏が漢王朝とすると胡太后が何太后、爾朱栄が董卓そのままです。だって、中央政府で自分の子を立てて専横を奮う皇太后と、中央の要請でその太后を誅しに首都に乗り込んできた豪傑。まんまですよ。そして、南朝の梁武帝は孫権で元帝が孫休と。長生きしすぎて自分で立てた王朝を自分で弱らせてから死んだ皇帝とそれを少しだけ持ち直させて死んだその息子ですね。まあ、元帝は孫策や項羽とよく比されますが。まあその二人だってよく比されますがね。そして、北朝に話を戻して北周の方は方角的に蜀であるだけでなく、宇文泰その人の容姿が劉備そのままなんですよ。じゃあ方角や国力的に魏に当たる北斉の高歓・高澄・高洋の三代が三曹(曹操・曹丕・曹叡)だとすると侯景と王偉は呂布と陳宮かと思いますが、梁を呉として位置関係を考慮すると、高三代を三司馬(司馬懿・司馬師・司馬昭)として、侯景を諸葛誕になぞらえた方が勢力図的にはしっくりきそうです。人となりは呂布だから大違いですが。さて、宇文泰の容姿が劉備そのままだと申し上げましたが、後世において正確には「功業においては曹操に匹敵し、容姿は劉備に肖る」と言われております。と申しますのはやはり、劉備と違って子供達が尽く優秀だったから…ではなく、彼の立てた王朝が彼の子孫によって北斉を滅ぼして四年後に隋に簒奪されてしまったからだと考えます。魏も蜀を滅ぼして二年後に晋に簒奪されましたからね。そして魏と蜀の正統性が議論されたように東魏と西魏の正統性も議論されました。勢力図的には前者だが、後者の正当性を認めても…という結論も同じですね。
 あと、もちろん楊堅は司馬炎に当たります。奴らは中国でも屈指の楽をして統一者の名声を得た連中ですね。ただし前にも言いましたが司馬炎と楊堅の圧倒的な違いは後宮事情です。司馬炎の後宮は中国史上でも類を見ない大きさで美女の数は一万人を越えていました。ところが、楊堅の嫁さんは独孤皇后一人。彼女が一夫一婦主義者で、傍迷惑なことに皇帝たる自分の夫だけでなく、臣下にもその一夫一婦主義を強要しました。楊堅は皇帝に即位した直後に滅ぼした前王朝の貴族・尉遅迥の娘を密かに寵愛していましたが、結局独孤皇后に見つかって殺されてしまいました。尉遅迥は宇文泰の甥に当たり、梁から益州を切り取った名将です。ところが、楊堅が陳を滅ぼしたとき得た陳の後主の末妹の宣華夫人という美女を今度は寵愛したのですが、独孤皇后は今度は黙認します。亡国の皇族の姫君に同情したのでしょうか。でもそれを言うなら尉遅氏だって亡国の貴族の姫君でした。父親は宇文泰の甥に当たりますから立派に皇族の血だって引いています。結局は前の殺しの後味が悪かったんでしょうかねえ。それにしても子孫を絶やすことが大逆な中国において、最も子孫を残す義務の大きい皇帝の家庭事情はそれで良かったのかと思ってしまいます。まあ、独孤氏の生んだ五人の男児はみんな建康に成長したようですから結果的には問題なかったようですけどね。結局煬帝に皆殺されましたが。そう言えば楊堅が寵愛した宣華夫人には楊堅の機嫌を取りつつ亡んだ故国の人々の助命を嘆願したことから、故国の人々から菩薩のようにあがめられたという逸話があります。ですから前に言った司馬炎のように選り取りみどりやりたい放題というのもいいが、下半身に散々おあずけを食わせたあと聖女(天女でも可)のような美女を無茶苦茶に犯すというのもよいというのはそう言う意味だったんですね(何を解説してんだか)。
 あと、楊堅と司馬炎のもう一つの大きな違いは、楊堅は司馬炎みたいに統一した途端落ちぶれず、しっかり政治を行って国を栄えさせたところでしょう。その最たるものが科挙だと思います。曹操に比した宇文泰にしたって曹操が軍屯を始めたように宇文泰は府兵制を施行しましたから、歴史的には『後三国時代』の面々の方が偉大だと思いますよ。でも、よく考えたら科挙の前の官吏登用制度でる九品官人法も曹操の代に定まったものです。やはり曹操が一代の傑物だったことが再認識されますね。三国時代と比してきましたが、南北朝時代というのはただでさえ三国時代の直後ですから、例えば南朝・宋の檀道済が張飛の再来と言われたり、同じく南朝・陳の簫摩何が関羽の再来だと言われたりとすぐ記憶に新しい前代の英雄に比されるのは当然なんですがね。お爺ちゃんが曾爺ちゃんぐらいまで遡れば直接本人の伝説に接しているわけですから。


戻る