正史三国志のあらすじ


 ご存じのかたは読まれる必要はございません。
最初に中国を統一したのは秦王・政(始皇帝)でした。始皇帝が没した後、秦は滅び、高祖劉邦が楚の猛将項羽を滅ぼして「漢」をたてました。そして、前漢の武帝は衛青、霍去病らを遣わして匈奴征伐をしたことで有名です。
 しかし、後に「前漢」とよばれるこの王朝も二百年余り続いたのち、西暦八年、外戚の王莽の手により簒奪されます。
 続いて劉秀(光武帝)が王莽を滅ぼし、漢王朝の再興に成功しました。しかし後に「後漢」とよばれるその漢も宮廷では皇帝が若いうちに死に、外戚が権力を握るようになっていきました。
 そして董卓の幼帝擁立により、後漢の権威は失墜します。反董卓連合軍により董卓打倒が為された後は群雄は北の袁紹・南の袁術の派閥に分かれが対立しました。それに袁紹が勝利を収めると今度は同陣営にいた曹操と袁紹は対立しました。長江以北の中原と呼ばれる地域を二分し、黄河以北の四州を治める袁紹、黄河以南の四州を治め幼帝を奉戴する曹操。その二人が西暦二〇〇年、官渡にて雌雄を決しました。のちに『官渡の戦い』と呼ばれるこの一大決戦を曹操は制し、彼は次に長江以南に目を向けます。長江の南にて父・孫堅、兄・孫策のかためた地盤を受け継いだ孫権と曹操は二〇八年、赤壁にて激突。後世に言う『赤壁の戦い』に曹操は敗北、曹操の中華統一は阻止されます。そののち、伏龍・諸葛孔明を得た放浪将軍劉備は西に軍閥を起こし、曹操の魏・孫権の呉・劉備の蜀の三国が鼎立します。その後、『樊城の戦い』にて蜀は劉備の義弟関羽と荊州を失陥、劉備自ら反攻した『彝陵の戦い』にももう一人の義弟張飛らを失い敗北、劉備の死後、丞相諸葛孔明は魏の司馬仲達と幾度も知略戦を繰り広げますが、決着がつく前に諸葛孔明は『五丈原の戦い』にて陣没してしまいます。諸葛孔明が没したのち魏将登艾により蜀は滅ぼされ、その二年後魏も司馬仲達の孫・司馬炎の帝位簒奪により滅びます。そして呉も司馬炎の立てた王朝・晋により滅ぼされ三国志の時代は幕を閉じます。(漢史のコーナーでもっと詳しく語られています。)


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