序詞


 袁紹と曹操の天下分け目の『官渡の戦い』から三四年…。
 勝者袁紹は共同作戦を行った孫策の軍閥に袁術の旧領・淮南を謝礼として与え、その袁術を皇帝として受け入れ、自らは太師と名乗り[業β]を都とする「成」を建国した。
 その後、袁紹の跡を袁尚、袁術の跡を袁耀がついだ。敗者曹操の勢力は曹操の死後、跡を継いだ子の曹丕が奉戴していた皇帝から禅譲を受け、「魏」を建国した。
 しかし曹丕は早世し、その子曹叡が跡を継ぎ、洛陽に遷都した。
 南では孫策が都・建業にて皇帝に即位し、「呉」を建国した。
 共同作戦を行ったもう一つの勢力・関中の馬超は曹丕に敗北し、漢中の張魯に身を寄せていた。
 馬超は劉備軍閥からきた[广龍]統の協力で魏から関中を奪還、張魯は馬超に守られ武威に遷都した。
 ところがこの張魯・馬超軍閥(以後「涼」と呼ぶ)は魏の建国後魏に臣従し、虎視眈々と魏と共に劉備が益州にて建国した「蜀」を滅ぼす機をうかがっていた。
 蜀の諸葛孔明は蜀北方軍事司令官徐庶の敗死後、その後任の法正も死ぬと荊州から益州に入った。
 [广龍]統はその隙をつき、涼、魏、呉の壮大な共同作戦により魏と呉により荊州を分割、二国に貸しを作った。
 その[广龍]統、そして馬超が死ぬとその軍権は分散され、姜維が軍団の盟主として旧馬超軍閥を率いて蜀の侵攻に備えた。
 その蜀は荊州失陥時の劉備やその義弟関羽、張飛亡き後に呉と同盟し、諸葛孔明が何度か涼の勢力に侵攻している。
 魏には司馬仲達という名将が現れ虎視眈々と涼の姜維と共に蜀への侵略を狙っていた。


 二四八年の春のある日の事だった。
 この日、蜀漢で一人の少年が禁断の女の園、後宮に侵入した。
 一人の宦官がその少年を注意しようとしたがその少年の顔を見て慌てて踏みとどまった。
 その少年の姓名は劉甚、字は英衡。
 蜀漢帝劉禅の五男にあたる。
 五男とは言っても後宮の主である張皇后の嫡男である。
 皇帝になる確率は十分にある。
 もし彼が皇帝になって、注意したことを根に持たれたれたりしてはたまらない。
 宦官は魏の曹洪の故事を思いだしていた。
 魏の文帝曹丕は若い頃、父・曹操の従兄弟である曹洪に借金を申し入れたが曹洪はこれを断った。
 その後権力を持った曹丕は彼を死刑にしようとした。
 曹洪の場合は皇族であるということも手伝って助かったが、たいして功のない宦官の首など簡単に飛ぶのだ。
 劉甚は後宮の奥へ奥へと進んでいった。
 彼が歩いていくとあらゆる美女達が彼を不思議そうな目でみて通り過ぎていく。
 −長兄が最近よくここに入っているのを見かける。ここに来て何をしているのだろう。
 ちょうどそのときある部屋から兄の声が聞こえた。
 −この部屋の中からだ…。何をしているのだろう。
 その少年は部屋の中を覗き見た。
 部屋の中では寝台の上で太子劉濬(文衡)が一人の女を侍らせていた。
「俺様が皇帝となった暁にはお前を皇后としてやる。だから今は俺のものとなれ。」
 劉濬はその女に向かって手を伸ばしたが女はその手を遮った。
「お戯れを…。わたしののような卑しい身分の者が、皇后になれるはずないではありませんか。」
「そんなことはない。かつての何太后も卑しい身分の者だった。」
「そんな絶世の美女とわたくしめを比べてどうなさるおつもりです。」
「お前もそれに劣らぬほどに美しいと言っておるのだ。」
「この後宮には絶世の美女が何人いるのやら…。ほほほほほ…。」
 そう言いつつもその女は劉濬に身を任せたのだった。
 −長兄がこんな事をしていたなんて…。
 劉甚は長兄・劉濬を常に尊敬の眼差しで見ていた。
 まだ侍女に甘えることしかできない劉甚にとってすでに政務に就いている兄は憧れの的だったのだ。
 それが…。
 少年には尊敬する兄のこの姿から受けた衝撃はかなりのものだった。
 少年の心の中には初めて猜疑心という怪物がむくむくと成長を始めた。
 そしてその怪物は母にまで及んでしまったのだった。
 −母上は後宮の主だというのに何故長兄を野放しにされているのだ!
 その疑問を抱えて後宮を出ようとしたときだった。
「あなたのような小さい子が何故ここにいるの?」
 と高く透き通った声がした。
「俺を知らないのか?」
 声の主は即答した。
「知らない。」
 その声はまだ幼く可愛らしかった。
 やや肩を落とした劉甚がそれに気付き、腹立たしげに問うた。
「お前はどうなんだ。」
 声の主は誇らしげにいった。
「私は張皇后に預かられている子だもの。」
 劉甚は声のする自分よりやや上の方へ向かって言い放った。
「俺はその張皇后の嫡男だ!!」
 しかしその少女?は劉甚が皇族とわかっても態度を改めることなく
「ふうん…。」
 と顔を近づけて劉甚を観察した。
「ところであなたは何故そんなに目を細めているの?」
 劉甚はものを見るのに不自由するほど目は細めてはいなかったが、後宮の薄暗さも手伝って彼女の顔はまだよく見えなかった。
「目を開けると母上が恐がるのだ。この目を誉めてくれるのは矛の扱いを教えてくれる伯父上だけなのだ。」
 劉甚自身も何故初めて会った少女にそこまで話したのか分かららなかった。
 少女はくすっと小さく笑って言った。
「そんな事ないわよ。ほら、開いてごらんなさい。」
 細く柔らかい指が劉甚の瞼に触れた。
 劉甚はそっと目を開く…。
 そしてその瞳に映し出されたのはぱっちりとした大きな透き通った瞳を持つ可憐な少女だったのである。
「こ、怖くないのか?」
 少女はきょとんとして答えた。
「全然?」
 劉甚はほっと息をついた。
「わたしは崔玲。あなたは?」
「劉甚。」
「あなたは…皇帝になる気はないの?」
「俺が?皇帝?」
 劉甚は考えたこともなかった。
 しかし、それは決して考えられないことではなかった。
 現太子劉濬を含む、四人の兄はすでに母・敬哀皇后を失い、後ろ盾をなくしていた。
「だって太子殿下があれじゃ…。」
 崔玲もすでに太子劉濬の悪行を知っていたのだ。
 劉甚はしばらく考えて決意した。
「ようし。兄上などに天下を任せておれぬ。いずれは俺が皇帝となって世の中を変えるのだ!」
 このとき劉甚は八歳、崔玲は十歳だった。

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