「 三 」初陣(壱)


成都の宮殿は大混乱だった。
「諸将は祁山で戦っておりますゆえ、もはやこの成都にまともに戦える者はおりませぬ。このうえはいったん成都を棄て、南中七郡へ逃れるべきかと存じます。かしこは天然の要害に守られているうえに、忠武侯閣下(孔明)が苦労して蛮王孟獲を心服させ、その兄孟節を太守に据えた時よりわが国に忠誠を誓う屈強の南蛮兵がおりますゆえ再び成都を取り戻すこともできまする。」
 というのが留守の軍事を預かる向存の子・向寵・向充兄弟の主張であった。
 しかし光禄大夫焦周(允南)は反論して、
「それはなりませぬ。孟節、孟獲すでになく、久しく恩恵も与えておりませぬ。それに近頃は忠武侯閣下が亡くなった途端、再び蛮族が暴れだしたとの噂も聞いておりますゆえ、そのようなところ逃げれば我々の身は保証されませぬ。」
 と言った。
「しからば古きより同盟国の呉に亡命すべきだと存じます。」
 と今度は向寵・向充兄弟の従弟である向朗の子・向条・向挙兄弟が主張する。
「それもなりませぬ。いにしえより『英雄並び立たず』と言いますゆえ呉に亡命したうえで天子を唱えることは出来ませぬし、呉に臣従する事になります。」
 と言った。
「ならば允南殿はどうなさるがよいと思われるのです。」
 と諸官が腹立たしく問い返すと
「このうえは米賊に降るに越した事はないかと存じます。さすれば、米賊が陛下に国土を分けて封じられる事は間違いなく、うまく行けば先帝の宗廟を守る事もかないまする。そして何よりも人民は無益に血を流さず済みまする。」
 と焦周は答え、諸官はそれに説得されてしまった。
 孔明に後事を託された蒋宛(公炎)・費韋(文緯)・董允(休昭)が黙っているため、いつになく喋っている焦周に一任しているものと考え、蜀漢帝劉禅もそれに従おうとしていた。
 そんな中−
「死に際を知らぬ腐れ儒者共が国家の大事に口出しするな!いにしえより降伏した天子がどこにあったか!こちらが不利な体勢にあろうとも文武百官、城を背にして戦って果ててこそあの世で先帝に会わす顔ができようものだ。」
 と敢然と交戦せよと刃のように鋭い目で主張する男がいた。
 見れば時の蜀漢帝劉禅の五子、北地王劉甚である。
 先程まで劉甚はを装い、ふだん通り細めた目を更に細め、膝の上で握りしめた拳をふるわせて、文官どもの消極的な策に耐えていた。
 しかしついに怒りが頂点に達したのだ。
 それに対し蜀漢帝劉禅は
「大局も知らぬ小僧が出しゃばるでない!」
 とはねつける。
 −何と臆病な。こんな男が父親だというだけで恥ずかしいわ。
「私はもう小僧ではありません!」
 劉禅はムキになって反論する。
「何を言うか!戦に出たこともないくせに。」
 劉甚も言い返す。
「そんなことは関係ありません。」
 劉甚は玉座に背を向け、謁見室の出口に向かって歩き始めた。
「私は都の残兵を率いて討って出る!恥を知る者はついてこい。」
「お供します、殿下。」
 見れば亡き孔明の嫡男諸葛瞻とその子の尚・京と張飛の孫、張遵であった。


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