「五」初陣(参)


 綿竹関から軍が出てくる…。
 先頭には二頭のよく似た黒い馬。
 その二頭は兄弟だけあって足の長さ、歩き方、鬣までそっくりであった。
 しかし、一方の馬の額には白い点があった。
 そしてその二頭に乗っている二人は従兄弟同士である。
 白い点のある方に乗っているのが張遵、ない方に乗っているのが劉甚であった。
 張遵が先陣の先頭で劉甚に話しかけた。
「なあ、英衡」
 横にいる劉甚は答えた。
「なんだよ。」
「お前の馬・黒龍も初陣だよな」
「ああ。」
 しばらく沈黙が辺りを包んだ。
「そ、そ、そう言えば英衡。お前、以前はその馬のこと『黒麒麟』と呼んでなかったか?」
 張遵は緊張でそわそわしている。
 ゆえに沈黙には耐えられず、話をして緊張をほぐそうとしているのだった。
「ああ、商(殷)の太師聞仲の霊獣な。」
「だから俺も時代あわせて白点虎って名前にしてたのに。」
 劉甚は適当にあしらっている。
「ああ、道士申公豹の霊獣をの名をもじった名な。」(申公豹の霊獣は黒点虎です。)
 張遵は話題を進める。
「なんで名前変えたんだよ。」
 劉甚は一瞬細めていた目を閉じ、
「さあな。」
 と言った。
 更に間があって張遵がまた話題を出した。
「ところで統の奴、またついてきてはおるまいな。」
 劉甚は相変わらず落ち着いて、
「ああ、お前の義従弟か。」
 統とは関興の子・関統のことである。
「うちの親父ぐらい安国(関興の字)様も子造りが早ければ、共に戦場に立てたのにな。」
 ここで少し笑ったあと、張遵は言った。
「それにしても皮肉なものだな。」
 劉甚が初めて張遵の話に興味を持った。
「何がだ?」
 張遵は俯いて
「だって今の統、まるで呉の呂蒙の少年時代じゃないか…。」
 呂蒙…関統の祖父・関羽の仇である。
「なるほど、たしかに呂蒙も少年時代、よく戦についていったらしいな。」
 そのあと、また沈黙があって張遵が
「統と共に戦場に立つ日を迎えるためにもこの戦は勝たねばならんな。」
 と呟いた。
 劉甚は溜息をついた。
 初陣の時の心境はたいてい張遵のように戦への期待に胸おどらせ、どこかで敵に恐怖するというものである。しかし劉甚の心境はそれとは違っていた。
「英衡、お前はどうしてそんなに落ち着いていられるんだ?」
 劉甚は空を見上げ、
「さあな。」
 と言った。
 涼やかな風が劉甚の前髪をなで上げる。
 −張遵はこの風に気付いておらんのか。そこまで緊張しているのか…。
 しかし劉甚はこの風を確実に感じていた。
 −そう、俺はなぜこんなに落ち着いていられるのだろう。
 そう考えたときだった。
 劉甚は地平線に土煙が上がっているのに気付いた。
「来たぞ。」
 劉甚は自分に言い聞かせるように、そして張遵に聞こえるように言った。
「そ、そうか。」
 張遵はますます慌てた。
「弟たちに別れは言ってきたか?」
 と言った。
 劉甚はそっけなく
「お前こそ関少年(関統)に別れは言ってきたのか?」
 と質問を質問で返した。
「別れるつもりはないが。」
と返す。
「俺もだ。」
 張遵がさらに
「まあ、俺達の修行の成果を発揮しようではないか。」
 と言った。
「うむ」
 −俺はこんな所で死ぬつもりはない。俺はここで立てた手柄を足掛かりに太子となり、最後には帝位につくのだから!
 物見の兵が帰ってきた。
「米賊の先鋒を率いる将は馬承であります。」
 劉甚は考え込んだ。
「ふむ…。名高き馬超の次男か…。」
 張遵は少し安心して、
「しかし聞こえてくるのは父の勇名だけ…。息子は大したことあるまい。」
 劉甚は
「いや、姜維が先陣に出してきておるのだ。それなりの勇将に違いない。しかし先陣は馬岱が来ると思っていたのだが…。」
 前進し、時間がたつにつれ地平線に涼軍の姿は大きくなってくる。
 −俺達の力を見せてやろう、黒龍。
 劉甚は黒龍の鬣を撫でるのをやめ、軽くたたいた。
「全軍、突撃ー」
 劉甚は軍の先頭に立って駆けた。
 劉甚の乗っている馬・黒龍は張苞の馬・黒槍、しいては張飛の馬、玉追という名馬の血筋を引いているため、かなりの駿馬であった。
 ゆえに同時に走り始めたとしても他の馬より前に出てしまう。
 劉甚は軍から少なからず突出していた。
「うらぁぁぁぁぁ−」
 劉甚が敵軍に突入すると同時に、彼の目はきっと開かれた。
 彼の目は研ぎすまされた刃物のごとく鋭く、涼兵たちを圧倒した。
 普段は扱いに困るその目も戦場では武器となり、劉甚は鬼神の如く白鳳矛で突き、薙ぎ、撃ち下ろして暴れ回った。
 彼の向かうところには血の嵐が巻き起こり、馬承を驚かせた。
 劉甚は矛を振り回しながら思った。
 −伯父上に習ったとおりだ。目の前の敵を一突きにすれば周りの連中はひるむ。
 張遵も負けじと得意の長剣を振り回し暴れ回る。
 そして劉甚はついに敵の先陣の大将、馬承と鉢合わせた。
「貴公、名はなんという。」
「劉英衡!」
 −なるほど…。蜀王の五子か…。
 馬承の長柄の槍が劉甚に襲いかかる。
 耳をつんざく音を立てて馬承の槍を劉甚の矛が受けとめた。
「ぬぅん」
 今度は劉甚が打ちかかる。
「はあ」
 馬承もそれを受け止める。
「くっ」
 馬承は劉甚の力に押され、受け止めた槍を反動で落としてしまった。
 −なんて馬鹿力だ。
「ちっ」
 馬承は尻尾を巻いて逃げ出した。
 そこで劉甚は弓を引き絞り、逃げる馬承の頸をめがけて矢を放った。
「うっ!」
 確かに劉甚の矢に手ごたえはあった。
 しかし矢は馬承の頸ではなく肩を射抜いていた。
 劉甚は弓を背に戻し呟いた。
「狩猟のようにうまくはいかんな…。」
 馬承は兵士に助けられ、命からがら逃げて行き、馬承軍は総崩れとなった。
「ようし、このまま本陣へ突入だ!」
 張遵は劉甚と先陣の兵士達の間にあった。
「駄目だ英衡、もっと軍との連携を…英衡!」
 しかし劉甚はわき目もふらず本陣へ突っ込んでいく。
「しょうがない、皆の者、殿下に遅れをとるな、道は殿下が作ってくれる。」
 劉甚の武勇に驚いていたのは馬承ら涼陣営だけではなかった。
 諸葛瞻は劉甚らが突破されると思い、敵の中央突破を防ぐため、厚い方陣(守備の陣形の一種)をしいていたのだ。
「おお…。」
 諸葛瞻は歓声を上げた。
 −まさか殿下がこれほど強いとは…。
 しばし諸葛瞻は劉甚の戦いぶりに見とれていた。
 その後はっとなり、考えた。
 −このままでは殿下との連携がとれず、殿下が孤立してしまう!
 諸葛瞻は振り向き、後ろの副将二人に言った。
「作戦変更だ。紡錘陣形をとれ、殿下の軍に遅れをとるな!」
 −これはこの戦…勝てるかもしれない。
 陣形の切り替えは早かった。
 諸葛瞻の軍には副将二人だけでなく、見習い六人もいるという大所帯だったので彼らによって陣はいつでもどんな陣形にも変型できるようにしていたのである。
 しかしその諸葛瞻の予想以上に、新兵は陣形の切り替えが遅かったのである。
 姜維はその隙を見抜いていた。
 −烏合の衆だな。
「宏、この戦況どう見る。」
 姜維は横にいる前大祭酒士元の子、[广龍]宏(巨師)(以後、巨師と書く)に尋ねた。
 巨師は冷静に答える
「こちらが中央突破しようとしたところを、逆に敵に中央突破されようとしております。」
 姜維が再び尋ねた。
「ではどうするがよいと思う。」
「中央突破する敵に対しては、陣の中央の部分を厚くし、突破されるのを防ぐのが定石です。」
「まあまあの策だな。しかし私のやり方は違う。見ておれ。」
 姜維はきっと前に向き直った。
 −あの武者によって多少攪乱されたがあの男さえ倒せば、あの軍の勢いは止まる。
「梁興、張横、程銀はおるか」
 すると三人の老将が姜維の前に現れた。
「ははっ、御前に」
「梁興は右翼の[广龍]渠帥(令明)、張横は左翼の馬渠帥(馬岱)に遣いし、敵陣を両側から挟み込むように伝えよ。そして程銀はあの猪武者と後続との連携を断ち切れ。」
「ははっ。」
 三人は同時に言うとそれぞれ三方向に馬を走らせた。
「維先生(姜維のこと)…」
 巨師が心配そうに言う。
「こんなに両翼に渠帥達を割いては本陣が手薄になるのでは…。」
「まあ見ておれ、私の実力を。」
 一方劉甚は姜維軍の本陣の中を姜維を探して龍巻が行くかのように駆け回っていた。
 そんな中、目の前に白銀の鎧に身を包んだ威風堂々とした白面の武者が現れた。
 紛れもなく涼軍の総大将姜維である。
 劉甚は叫んだ。
「我が名は劉英衡!噂に名高い姜伯約と見受ける。」
「いかにも!」
 姜維は答えると、得意の銀槍をしごいて劉甚に襲いかかる。
 劉甚はそれを受けとめ五十合ほど打ち合う…
 持ち前の怪力でがんがん押しまくる劉甚に対し、素早くそれをかわしそのまま振り終わった後の隙をつこうとする姜維…。
 そんな膠着状態が続く中姜維は思った。
 −若く荒削りだが勢いがある…。蜀にまだこれほどの者がおったとは…。
 そして劉甚も姜維の強さに驚いていた。
 しかし二人の力は互角でも周りの状況は違っている。
 姜維の策略により、もはや周りに味方はいなかったのである。
 つまり誰かが姜維に加勢してきたり、劉甚に矢でも射かけたりすれば劉甚は一貫の終わりなのだ。
 ずっと後ろでは張遵が追いつこうとがんばっていたが、大東方渠帥令明の右翼、大西方渠帥馬岱の左翼により両脇に回り込まれて半包囲を受ける形になり、苦戦していた。
 これは姜維の計が成功したことを意味していた。
 二人の戦いを見ていた馬承は劉甚に射抜かれなかった方の腕で弓を
 −よくもやってくれたな小僧。
 とばかりに引き絞ろうとしていた。
 劉甚は姜維との戦いの中、目の端でそれを捉えたがそちらに気をやる余裕があるはずもなかった。
 −少しでも隙を見せたら殺られる!
 そこで劉甚は姜維の向こう側に回り込み、馬承と劉甚の直線上に姜維を置くことによって馬承の狙いを防いだ。
 しかしそのとき劉甚に僅かな隙が生まれ、これまで後手に回っていた姜維の攻撃が先手を取るものに変わったのである。
「くっ」
 劉甚は姜維の攻撃にこらえきれずに落馬する。
 −殺すには惜しいが、こ奴を生かしておけば後々面倒なことになる。
 姜維は馬上で槍を構えた。
 それに対し劉甚は落馬したあとすぐさま起きあがり、腰に佩いていた剣を抜きはなった。
 その時である。
 姜維軍後方から鯨波の声があがったのだ。
「姜渠帥、趙雲軍です。」
 −なぜだ。仲達が敗れたにしても早すぎる!
 兵の報告を受けると姜維は退路を塞がれてはならぬとさっと劉甚から離れ、叫んだ。
「命拾いしたな小僧、この勝負預けたぞ!退けぇー。」
 姜維の判断は正しかった。
 その判断により、涼軍は退路が趙雲に完全に埋め尽くされる前に退却することができ、挟撃を逃れたのである。
 劉甚は張りつめた緊張が解け、座り込んでいた。
 −これが戦というものか。将の指示一つで戦況はいくらでも変化する。姜維はこちらが有利であった戦況を一気に裏返した。戦場ではこのような猛者達がうごめいているのだろうか。
 劉甚は辺りを一通り見回した。彼の正面では雄大な夕陽が地平線に沈んでいこうとしている。
 劉甚は寝ころび、真っ赤な空を見上げた。
 −こんなにも時間が経っていたのか。戦が始まったとき、陽は真上にあったというのに…。
 劉甚は頬にしめったものがくっつくのを感じ、振り返った。
 黒龍が申し訳なさそうな顔をして劉甚の頬をなめていたのた。
 劉甚は起きあがり、黒龍の鬣を撫でながら言った。
「俺が落馬したのをお前のせいだと思っているのか?お前のせいじゃないよ、黒麒麟…。」
 黒龍は困惑している。
 ややあって劉甚はなぜ黒龍がそんな顔をしているのかに気付き、
「ああ。今は黒龍だったな。ごめんごめん。名をかえた側が間違うなんて話にならないよなあ。」
 と謝った。
 劉甚は立ち上がって黒龍の鬣を撫でながら、先程の一騎打ちについて話し始めた。
「姜維は評判通り強かった。奴は矛を振り終わった隙を的確についてきた…。」
 そして黒龍の背中に顔を押しつけた。
「でも…でもあれがなければ勝っていたのは俺だったんだ。」
 そう言うと涙がこみ上げてきて声を殺して泣いた。
 そして涙も枯れ果てた頃、一人の武将が夕日を背にして劉甚に向かって馬をとばしてきた。
 劉甚は慌てて黒龍の背に跨り、涙を拭った。
 その大きな体はずっしりと重く、右手には点鋼矛ががっしりと握られている…。
 劉甚の伯父であり、昭烈帝の義兄弟張飛の嫡男張苞である。
「英衡!よくやった!よく国を守ってくれた!…」
 といった。
 しかし劉甚は喜んではいなかった。
「伯父上、私は…生まれて初めて負けてしまいました。」
 張苞は話を聞いた後、少し考え
「相手はあの姜維だったのだ。私でもあの男に絶対に勝てる自信はない。それに五分の条件ではなかったのだろう?」
 と言った。
「負けは負けです。伯父上、私は…私は…。」
 −悔しいです。
 劉甚は張苞の腕にすがった。
「お前はまだ若い。これからまた強くなれば良いではないか。稽古ならまたつけてやる。」
 彼は小さい頃から張苞に特訓を受けていたのである。
 そして今、彼らの方に向かって疾駆している張遵も。
「父上ー。」
「おお、遵か。お前も活躍したそうだな。」
「ええ、そんなことよりなぜこんなに早く戻ってこれたのですか?」
「忠武侯閣下が策を残してくれておったのだ。」
 張苞は先程の戦のことを簡潔に説明した。
「…なんと。」
 二人はしばらく絶句していた。
 孔明の先読みの鋭さに感服していたのだ。
 しかし孔明の先読みがこれだけでないことを彼らは知ることになる。
 今のところそれを知るのは亡き孔明と、その時劉甚達のもとへ悠然と近づいてきたこの男だけであろう。
身の丈八尺、眉太く目大きく顔広く顎は重なり人間は美しく老いることもできるのか…と思わせるその男は蜀漢の軍事中心人物趙雲であった。
 張苞、張遵親子は馬を降り軍礼をした。
 彼らにとって建国の功臣、五虎将軍は生ける伝説である。
 ただ劉甚だけは馬を降りなかった。
 しかし劉甚もさすがに緊張している。
 趙雲はそれに対し、馬を降り軍礼をした。
「殿下…。」
「な、なんだ趙雲。」
 劉甚は公子であるから趙雲より身分が上ということで、馬に跨ったまま話しているが、劉甚にとっては自分こそ馬から降りて跪いて話した方が分相応に思えた。
 趙雲は話し始めた。
「諸葛瞻から大体の話は聞きました…。結果として姜維を退けることができましたが、細部を見れば今回の戦は負け戦であったようですね。」
 劉甚に反論の余地はなかった。
「この戦で殿下がなさった一番の失敗は何だとお思いですか。」
 劉甚は震えた声で。
「後続との連携を軽んじたことだ。」
 と言った。
「違います!」
 劉甚は少し考え、
「ではお前の帰りを待たずに出陣したことか?」
 と言った。
「それも違います!」
 そう言われ、劉甚は考え込んでしまった。
 趙雲はしばらく間をおいていった。
「貴君自ら先陣に出たことです。」
 趙雲は語り始めた。
「身分の高い者…公子は中軍にあらなければならないのです。ましてや殿下は将来のある身であらせられるのに…。」
 劉甚は反論する。
「なぜだ!最も武力の高い者が先陣にいるのは当たり前ではないのか?」
 趙雲は言った。
「ではこの負け戦の責任を誰がとると思っておられるのです。」
 劉甚は再び黙り込んでしまった。
 しかししばらくして
「諸葛瞻を総大将に任命したのは私だ。だから私が責任をとる!」
 と言った。
「よろしい。では残兵の掃討が済み次第成都に帰りましょう。あなたは国を救った英雄なのですから。」
 夕陽を背にしていたので表情は分からなかったが、劉甚には趙雲が笑っているように思えた。


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