[一〇]登艾の心労


「殿下…どのような…人物でしたか…紫虚上人は。」
 翌日登艾にこう訪ねられたとき、劉甚は
「ああ、争いの無い世について話し合った。彼は実に素晴らしい人物で、私のそれに対する考えの多くの矛盾点を指摘されたよ。」
「それで…結論は…どう出たの…です?」
「ええと…政務に力を入れ、他国が統一されたとき、その国に降ればこの国は戦火を免れると言う結論に達したよ。」
 −これはまずい。
登艾は思った。
 −この方針で行けば漢王朝再興という忠武侯閣下の意思が果たせなくなるし、さらには戦が無くなると、味方だった武官が離れ劉甚殿の皇帝の地位が危うくなり、劉甚を皇帝にという順平侯閣下の意思さえも果たせなくなる。
 しかし登艾はそれ以上の理由が自分の心の中にあることに気づき始めていた。
「では…もし他国に…攻め入られた…ならどうします。」
 登艾は落ち着いて言った。
「だから同盟を結ぶ事に努めるのだ。」
「必ずしも…同盟を結べる…とは限りませんぞ。…それにもし…同盟が結べ…たとしても…他国も領土を…広げたならば…領土差でわが国は…追いつけなくなり…同盟など…向こうから破棄…してきましょう。…つまり同盟…は他国に増長の…機会を与えるだけ…なのです…。」
「うーむ…。」
「今が…戦の世…である以上…戦火を…逃れる事は…不可能なの…です。」
「しかしやはり民衆に被害がおよぶことになるぞ。」
「ならば…兵は一切強制…せず募兵に…すればよい…のです。」
「うむ!そうだな。」
 劉甚は手を打った。
「それならば一切無理矢理民衆を戦火に巻き込む事は無いな。」
 そう言って劉甚は謁見室に向かった。
 −どうやら戦で負けたときの事は考えなかったようだ。それにしても劉甚殿をここまで説得する紫虚上人という男…。あなどれん…。また劉甚殿が奴の元に行くやもしれぬ。そうすれば奴は戦で負けたときのことを殿下に話すだろう。そうなってはまたやっかいな事になる。後日趙淑を刺客として差し向けよう…。それにしても殿下に紫虚上人を紹介したのは失敗だった…。
しかし後日趙淑が踏み込んだとき、もはやその小屋に紫虚上人はいなかった。
 どうやら紫虚上人は刺客が来ることをも読んでいたようである。
 しかし登艾はこんな事にかまけている場合ではない。
 政は勿論の事、戦略も立てなければならないのである。
 −地形上、そして西涼兵を得るためにもまずは米賊を攻めなければならぬ。それに涼と魏は今、同盟が決裂しており、魏では内輪もめをしておる。これほどの好機は二度とない。しかし西涼兵、そして姜伯約の実力は計り知れない…。それに涼に送り込まれた細作は一人も帰ってこぬとの話…。米賊がどのような者達だか全く分からぬ。
 そして紫虚上人の一ヶ月後の事だった。
「丞相代理閣下の知り合いだと申す者が参っております。お会いになられますか。」
「うむ…。」
 −誰であろう。
 屋敷の玄関まで出たところには昔懐かしい顔があった。
「玄伯…!」
 陳泰である。
 彼はあれから髭を剃っていないらしく伸ばし放題で、肩から後ろへ回されていた。
「ええ。今まで漢中で療養しておりまして…そこで士載様がこちらにいらっしゃると噂を聞きつけましたもので…。」
 陳泰は杖を付いている。
「足を…どうか…したのか。」
「乱戦の中で不覚にも深手を負ってしまいました。」
「従弟達や息子達はどうした。」
「四人とも…討ち死にいたしました…。」
「……そうか…。中で…詳しい話を…聞かせろ。」
 漢中は涼の領土である。
 だから登艾も話に興味があった。
 そして登艾は陳泰から涼に関する重要な情報を得るのである。


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