[三]鍾会の復讐


 登艾は気が付くと無限の荒野を歩いていた。
 周りには何も…月もない。
 暗闇の中にただ風で草が揺れているだけ。
 その風は登艾に突き刺さるように冷たく、草も登艾の足に絡まってくる。
 登艾は歩くうちに段々足が踏み込む度に地に深く食い込むのに気付いた。
 足元を見ると水が少し湧き出ている。
 それも一箇所から湧き出ているのではない。
 見える限りの大地全体から湧き出ているのだ。
 その勢いが少しずつ強まっているのが見て取れる。
 もはや水は履き物を通り越して足に直接当たっている。
 冷たい…体、背中あたりがぞくりとする。
 水が突如勢いを増した。
 登艾の体を貫くかと思われるような勢いだ!
「うわぁぁぁ」
 悲鳴と共に登艾は跳ね起きた。
「夢…か。何かの…まえぶれ…だろうか…何事も…なければ…よいが。」


「それは誠か?」
 魏帝曹叡が鍾会にたずねた。
「はい。私の部下による情報ですから確かなものと思われます。」
「しかし信じられん。登艾が裏切り独立を謀るとは…。」
「私も部下から聞いたときは耳を疑いました。」
 無論、これは登艾を陥れるための鍾会の偽りの情報であった。
 しかし曹叡には司馬懿親子が死に、信頼できるのはその弟子二人だけであり、登艾が討って出ている今、鍾会の言葉を信じるしかなかった。
「よし。御辺に兵五万を授ける故、登艾討伐に向かうがよい。」
「はっ。」
 と言って頭を下げた時、鍾会の顔は笑いに満ちていた。
長安は再び包囲された。
 しかも前より多くの軍勢にである。
 こんなに短期間に一つの城が三度も包囲されるなど前代未聞であった。
「裏切り者!」
 と言う罵声に城内の兵の士気は下がるばかりであった。
 そんなある日の夜、城内で登艾と文淑が二人きりで会っていた。
 城外では篝火がぱちぱちと音をたてて燃えていた。
 明かりを見ながら文淑が昔語りを始める…。
「かつて私はこのような立場に立たされたことがあります。」


 仲達が権力を握り出し専横を始め、自分に叛意を持つ者をあぶりだすために病気でもはや惚けていると言う偽報を流したとき、文淑兄弟の父文欽は毋丘倹(仲恭)と結んで司馬懿に対して反乱を起こしのである。
 もちろん文兄弟もそれに従った。
 仲達が南陽城に本営を置いたのに対し、文欽、文淑は守りを固めようと新野城に向かった。
 ところが新野城はすでに仲達により落とされていたのである…。
「父上はまだ現れぬのか!」
 文淑は新野城外で奮戦しながらそう叫んだ。
 父とは太陽が沈む頃自分は北から、父は南から城を攻めて合流し、城に攻め込む約束である。
 ところがもう日が沈んだにもかかわらず父は現れない。
 父が現れないかぎりは、兵数が少ないので城に攻め込むこともできない。
 −こうなれば無茶であろうと何だろうと俺一騎で攻め込んでくれる!
 そう思ったときである。
 北側…即ち文淑軍の後方に鯨波の声が上がったのだ。
「わあぁぁぁぁ」
 −おかしい!
 文淑は思った。
「父上には南から攻め込んで頂くはず!なぜ北から…。」
 しかしさらなる衝撃が文淑を襲った。
 靄の中から現れた軍は父文欽ではなく魏にその人ありと言われた兌州刺史登艾の加勢軍だったのである。
 登艾は現れるなり
「くたばれ…逆賊っ」
 と呼ばわり叉をふりあげ文淑に突進して行った。
 がぁんと大音がした。
 文淑は素早く槍を両手で持ち、登艾の縦にふり下ろした攻撃を受けとめていた。
 その瞬間槍と叉が十字に交差し、二人の武器は激しいぶつかり合いのせいで火花を上げて跳ね返った。
「こしゃくなっ」
 次の瞬間、登艾が再び叉に力を込める隙を与えず、文淑は左手を軸にして扇を描くかのように槍をはらったのである。
 しかしこの登艾も一筋縄で倒せる男ではない。
 登艾も左手を軸に叉を地と垂直にしてこの攻撃を受けとめた。
 ところが文淑はの戦術眼はこの動きをも見抜いていたのである。
 なんと文淑はひゅっと槍を引いたかと思うと登艾の眉間めがけて槍を突きだしたのだ。
 登艾はそれを首を傾けてなんとか紙一重の差でよけることができた。
 しかしその時、登艾の率いてきた軍が殺到してきて二人の戦いは引き分けとなった。
 その軍により文淑軍は散々にうち負かされ、文淑自身の身も危うくなった。
 そこで文淑は場首をめぐらせ城のわきにある石橋へ向かった。
 橋はそう広くないので、いくら多くの軍でも文淑と戦うには一騎打ちしかない。
 そこで文淑は
「一騎打ちでこの文淑の首が取れる者はかかってこい!」
 と呼ばわった。
 これに対しかかっていく者は一人もいなかった。
 この勇姿から文淑は趙雲に例えられるようになったのだった。
 登艾はそのことの一部始終を見ていた。
 登艾が自分の頬に手をあててみると血がついていた。
 文淑の攻撃を紙一重の差でよけたつもりがよけきれていなかったのである。
 登艾はその血のついた拳を握りしめた。
 −もう少し戦っておれば私が殺られるところであった。それにしてもあの男、欲しい!
 このあと文淑は悠々と新野城を去り、道に迷って新野城攻略に参加できなかった父、文欽と共に樊城に退却したのである。
 ところがこの樊城も追撃してきた登艾と鎮南将軍諸葛誕の共同作戦により、陥落する。
 そしてとうとう文欽、毋丘倹以下反乱軍は最後の砦、襄陽に追い詰められたのである。
 そこで追い詰められて気が狂ったのか毋丘倹は降伏を薦めた文欽を敵と通じていると言って斬り殺してしまう。
 文淑はそれに激怒し弟の文虎と共に城門を開けて降伏し、反乱の首謀者毋丘倹は血祭りにあげられた。
 登艾は特に司馬懿に文淑を自分の麾下に置くよう要求し、文淑という人材を手にいれたのだった。
 それからずっと文淑と登艾は戦場を共に戦い抜いてきた。
 彼らはお互いをただの主君と人材としか見ていなかったが、常に必勝の策を出す神算鬼謀の登艾と、その策を予想以上に成功させる万夫不当の文淑の信頼関係は次第に深まって行った。


「そういえば…そんなことも…あったな…。」
 そこへ矢文が届けられた。
 文淑はそれを部下から受け取り開いてみると、なんとそれは自分にあてた手紙であった。差しだし人は弟の文虎で、内容は降伏を薦めるものだった。
 しかし文淑はそれをすぐに、文虎の文字に似せた偽手紙だと見破った。
−文字が違うのもあるが虎がこんな手紙を出すはずがない。それに鍾会は偽手紙が得意と聞く。
「おそらく…鍾会は…文虎自身に…この手紙を…書かせようと…したに…違いない。…だが、…文淑は…書かなかっ…た。」
 文淑に渡された手紙を見ながら登艾が言った。
「文虎は…鍾会から…拷問を…受けた…に違いない。だから…おそらく…文虎は…もう…」
 死んでいる…。
 登艾が次に言おうとした言葉はこれであった。
 しかしこの言葉は言うにあまりにも辛すぎた。
 なにしろ文淑には弟の文虎は唯一残された血縁のある者だったからである。
「鍾会め!」
 そう言って文淑が地を殴ったとき、一人の兵士が慌てて部屋にかけ込んできた。
「東門から鍾会軍がなだれこんできました。どうやら内応者がいたもようです。」
 陳泰が立ち上がった。
「士載殿、西門から退却する準備は整っております。私に殿をお命じ下さい。」
「玄伯…御辺…。」
「早くお行き下さい!さあ、みな行くぞ。」
 陳泰は陳矯の子で従弟の陳本・陳騫と自分の息子の恂、温にそう下知して出て行った。
「西門から…脱出する!…皆の者…続けぇー。」
 すぐさま登艾は馬に乗り、西門へ向かって走り始めた。
 文淑もそれに続いた。
「この文淑、命に代えましても士載様をお守りいたします。」
「行くぞ…龍宝。」
「はい!」
 登忠は文淑に特訓を受けていたので武術ではすでに登艾を上回っている。
 西門が開かれた。
「おらおらおらー!」
 文淑や登忠は敵を槍で突きまくり獅子奮迅の働きを見せ、その働きにより登艾は無事包囲網を脱出し、西に向かってひたすら駆けた。
 途中、幾度も敵の追撃に合い、ついには登親子と文淑だけになりどうにか敵の追撃から逃れた。
 殿を任せた陳泰とはとうとう合流することができなかった。


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