[五]趙雲死す


成都では、綿竹の戦いから武官たちが北地王劉甚を次期皇帝にと動き始めた。
 これをきっかけに太子派の文官と北地王派の武官の対立が始まったのである。
 長子劉濬はまだ大した働きを見せていなかったので民衆からの支持が唯一の頼みの綱であった。
 しかしやはり五子というのは立場が悪くそれに武官達は口下手なので文官に言い負かされっぱなしだった。
 太子劉濬自身も北地王劉甚を煙たく思っていた。
 そこへ趙雲が登艾達を連れて戻って来たのである。
「士載殿。」
 趙雲が登艾を案内している途中話しかけた
「なんで…しょうか。」
「我が国の太子には長子の文衡(劉濬の字)様が立てられている。私は文衡様など皇帝の御子息方は皆暗愚だと思っていたので私も文衡様を立てるのに賛成した。しかし五子の英衡様だけは違っていた。私は綿竹の戦いで見せつけられた…あの方は米賊の姜維に勝るとも劣らぬ武勇と、あくまでもこの国を守り通すというとても固い意思を持っておられる。それに較べ文衡様など美しいだけの飾り人形にすぎぬ。」
「はあ…。」
「まあ口で言っても何も伝わりませんからな。一度北地王殿下に会ってみてくだされ。それからぜひ北地王派について頂きたい。」
「…はい。」
 登艾も劉甚の武勇については馬承から聞いていたので一度会ってみたいと思っていた。 その晩登艾は寝台で明日劉甚に会って話をしてみようと思いつつ眠りについた。
 翌朝、登艾は改めて劉禅に拝謁した。
 劉禅は今日は機嫌がいいらしく少し笑いを含むような表情で玉座に座り、横にはお気に入りの宦官・黄皓が怪訝な様子でこちらを見下している。
 黄皓という男は孔明が死ぬなり頭角をあらわし始めた男で、常に髭の無いてかてかした顎を突き出し、劉禅以外の者を見下していた。
 今日は登艾と趙淑が何らかの位をもらえるはずである。
「おはよう…ござい…ます陛下、今日は…お日柄も…良く御機嫌…うるわしゅう…」
 と登艾が挨拶を始めた。ところがその席にまだ趙淑が現れていなかった。
「昨日はどうもおかしな夢を見たのじゃ、なんだかよく分からないが錦屏山が崩れて…」
 と登艾のあいさつが終わるなり劉禅がきりだした。
「…まさか!」
 登艾はそう言うと振り向いて走りだした。
「どこへ行く登艾!」
 と劉禅が言ったのも彼の耳には届いていなかった。
 錦屏山は趙雲が自ら死後の埋葬場所として指定していた場所である。
 −まさか…まさか…。
「うわっ」
 登艾は宮城の出口で誰かとぶつかって倒れた。
「いたたたた。」
 相手の顔を見ると趙淑ではないか。
 彼の顔は別人かと思うほど青くなっていた。
「鴦…まさか…」
「義父上が、義父上が血を吐いて倒れられた!」
 これはもう任命どころではなかった。
 趙雲の寝台に劉禅、登艾などを始め、様々な人物が集まった。
「そろそろ私も死期が近づいたようです。」
 趙雲がむせながら言った。
「何を言うか趙雲!」
 劉禅が趙雲の手を握って言った。
「私は忠武侯閣下に従って戦い、忠武侯閣下の死後もあの方の残された遺言と錦嚢に従って動いていただけだけです。私自身は大した者ではありません。」
「そんなことはないぞ子龍!お前は知勇兼備の猛将で俺が小さい頃から何をしてもかなわず、常に俺の目標になっていた男じゃないか!だから忠武侯閣下もお前に後事を託されたのだ。」
 そんな必死の緒燕の言葉ももはや趙雲には届いていなかった。
「士載殿、私は忠武侯閣下から三つの錦嚢を預かっていました。一つ目には仲達を倒す方法、二つ目は先日貴公に渡した物、そしてもう一つが私の死に際貴公に渡すように言われていた物…これです。」
 趙雲が再び懐から錦嚢を出した。
「お受け取り下さい。」
 そう言って錦嚢を登艾に渡すと劉禅にの方を向いた。
「陛下、次の丞相はぜひこの士載殿になさって下さい。」
「うむ、心得た。」
 そう言いながら蜀漢帝劉禅は目に泪をため幾度もうなずいた。
 すると趙雲は目を閉じて
「ふう、これでやっと忠武侯閣下の遺言を果たせた。これで安心して眠れる…それにしてもあの方はすべてを見透かしておられた…丞相、今…貴君の…も…と…へ…」
 そう言って趙雲はだらんと首を垂れた。
 彼が二度と目を覚ますことはなかった。


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