[二]劉甚の嫁とり


ここ一ヶ月、劉甚は姿をくらましていた。
 登艾はだいたいの理由は知っていた。
 話は一ヶ月前に逆登る…。


それは趙雲の葬儀から間もないある日の事だった。
「殿下…。」
「なんだ登艾。」
「将来の皇后…妻はまだ…取られないの…ですか?」
「うーむ…そろそろ準備を始めても良い頃か…。」
「……」
「登艾、俺はしばらく消える。」
「と…申されますと?」
「妻を娶る準備が必要なのだ。」
「はぁ…」
 劉甚は今や蜀漢帝国の太子である。
 そう名乗っただけでも女はいくらでも寄ってきただろうし、娘を嫁に欲しいと彼に言われて断る親もまずいないだろう。
 にも関わらず準備とは何事か。
 美人など探さなくとも彼には美人の誉れ高い張苞の姪、張玉蘭が近づいてきていた。
 再び外戚として権力を手中にしようという、張一族の企みだということは誰にでも分かっているのだが。
 そして劉甚は特に彼女を遠ざけることをしていなかったので、登艾はてっきり劉甚が彼女を娶るものと思っていた


−おそらく庶民に変装して街で張玉蘭よりも美しい美女でも探しておるのだろう。皇帝になれば美女など益州中から集められるのだから皇帝になってからすればいいのに…。
 そしてそれからさらに数日後、劉甚は帰ってきた…一本の短剣を佩いて。
「妻は…お決まり…ですか。」
「何を言っておる登艾。私の妻はずっと前から決まっておる。」
「はぁ?」
登艾はわけがが分からず立ち止まり、劉甚の後ろ姿を見て頭をひねって考えていた。
「あっ、兄上!どこへ行ってらしたのですか?」
兄弟の末子上党王劉遽である。
最近彼は政で大いに功績をあげていた。
「これを作っておった。」
そう言って劉甚は劉遽に短剣を見せた。
その剣の鞘には宝石が埋め込まれておりきらびやかだったが、形が何となく弯曲していた。
「もっとよい鍛冶に作ってもらえば良うございましたのに。」
「下手で悪かったな。」
「えっ、兄上が作られたのですか?」
「ああ。」
「なぜそのような物を作ったのか存じませんが、姐上がずっと心配されておりましたよ。」
「そうか…」
劉遽が言った姐上とは崔玲の事である。
 劉甚は二つしか崔玲と歳の差はないが、劉甚以下の劉遽を含んだ二人の弟は結構歳が離れていたから姐上と呼んでいたのである。
「では、私はこれで…。」
こう言って劉遽は去っていった。
彼は最近、政で手腕を発揮し民衆から人気も出てきている。
「さてと…。」
 劉甚は歩きだした。
彼の足はどうやら後宮へ向かっている。
−なるほど。後宮に目をつけた者がすでにおったか。
 さっきから気になって登艾は尾行していた。
 その途中、劉甚は一人の女性に声をかけられた。
「太子殿下、どちらへ参られるのですか?」
 登艾は思った。
 −やはり玉蘭殿か…。
「玉蘭…。何故こんな所に…。」
 ここは後宮である。
 そして張玉蘭は後宮の者ではなく張氏の娘なのだ。
 劉甚・張玉蘭・登艾と簡単に後宮に入れるのだから宦官の管理も雑である…というより宦官も侵入を許す相手を選んでいるのだ。
「それはお互い様でしょう。それよりお返事はどうなのです。」
 張玉蘭を娶るようにと言うのは彼女の父、即ち張苞の弟張紹からもあったし本人からも絶えず求婚されている。
 −おそらく彼女は父親に言われてこのように私に求婚しておるのだろう。
 彼女を見た限りまだ一四の純情可憐な乙女にしか見えないのである。
 はっきり言うと劉甚には心に決めた人がいた。
 しかし張玉蘭の瞳に見つめられるとはっきり断れないのである。
「うむ…それは…。」
 玉蘭の後ろ側の遥か向こうの廊下の一つの人影があった。
 −玲!
 彼女は劉甚に気付かれた事を悟ったらしく逃げだした。
「待ってくれ玲!」
 劉甚は張玉蘭を押し退けて走っていってしまった。
 そのすぐ後にもう一人の男が劉甚を追いかけていった。
 張玉蘭は状況が全く把握出来なかった。
 −あの男…。確か新参者なのに急に丞相代理になったと評判の士載様だわ。北地王殿下は以前からよくここに来ていたから分かるけど、丞相代理閣下が何故…しかも北地王殿下を追いかけてここへ?
 劉甚はずっと不安だった。
 崔玲は自分が預かられている家…諸葛家の諸葛尚との婚約を薦められていたのだ。
 女子は十五で婚約するのが一般である。
 彼女は十五になった時、諸葛尚との婚約を保留にしてもらっていた。
 劉甚も張玉蘭との話は相当前からあったもので、玉蘭が生まれたときから許嫁にする相談があったぐらいである。
 周りからみればこの二組の結婚は当たり前であった。
 しかし劉甚の想いは違っていた。
劉甚は崔玲の部屋の前で彼女の柔らかい腕を捕まえた。
 崔玲は肩で息をしている。
「太子殿下…私になにか御用でも?」
劉甚も息を弾ませている。
「ああ、玲。話があるんだ。」
「私にでございますか?外は寒うございますから、どうぞ中へお入り下さい。」
 こうして劉甚は崔玲に導かれ、彼女の部屋へ入って行った。
尾行していた登艾は部屋の前まで来て、戸に耳をあてようとした。
すると登艾が来た反対方向からもう一つの人影がやってきて戸に耳をあてた。
「新興王…殿下…。」
登艾は小声でつぶやいた。
 新興王とは蜀漢帝が六子劉恂、つまり劉甚の一つ下の弟で彼もまた崔玲を姐上と呼ぶ者だった。
「殿下は…何か玲殿に…ようがあって…こちらへ?」
登艾も崔玲の名ぐらいは劉甚から聞いていた。
 しかし彼には聞こえていないようだ。
「殿下…?殿下…」
「うるさい、静かにしろ。」
劉恂は息を殺して言った。
さて、そのころ中では劉甚が胸に秘めたる想いを崔玲に打ち明けようとしていた。
「ところで玲。」
「はい。」
「さっき俺の事を太子殿下と呼んだな。」
「はい。それが何か…。」
「いつもどうり英衡でいい。」
「…」
 崔玲は困惑している。
 いつも劉甚と同等の口をきいていた彼女らしからぬ態度である。
 彼女が静かなので会話が何となくよそよそしくなっている。
「…そんなことよりな崔玲、受け取って欲しい物がある。」
そう言って劉甚は例の短剣を取り出した。
「これは…?」
「護身用にと思ってな…。鞘の裏をを見てくれ。」
 崔玲は剣を裏返してみた。
 鞘の裏には「星皇」と文字が彫ってある。
「見ての通りその剣の名は『星皇之剣』。この示す意味が分かるか。」
 はっきり言ってこの様な刀にいちいち名を着けるのは愚かである。
 しかしこの短刀には劉甚の特別な想いが篭もっていた。
「…さぁ。わかりませぬ。」
崔玲は本当に考えたのかと思うほどすぐ答えた。
「『星』の文字はちりばめられた宝石を星に例えておる。そして『皇』の文字は白鳳矛との「鳳」対で、鳳皇(凰)の皇を示しておる。そして鳳皇とは鳳は雄、皇は雌を意味し、身を焦がしながら炎の中で結ばれては何度も生まれ変わる…永遠に離れる事のない宿命の愛の象徴なんだ…。つまりこの剣の指し示す意味は…」
劉甚は昔からこうなのだ。
彼は何か物に名を付けるときは散々考え、意味深な名を付けておいて人に自慢するのである。
 黒龍や白鳳矛の命名をしたときも大変な騒ぎだった。
 しかしこれは目立たない彼の自己主張で崔玲もそれを理解している。
そんなしゃべりたがりの劉甚もここで初めて自分の言っている事に気づき、口に出すのを躊躇した。
「その…つまり…」
 次の瞬間劉甚は「俺と一緒になってくれ」と叫ぼうと息を吸い込んだ。
「受け取れませぬ。」
崔玲はしらっと答えた。
劉恂は密かに戸の外で笑みをこぼした。
崔玲の心の中で
−このまま何も言わずに出て行って。
と言った
しかし心のどこかで
−行かないで。
とも言っている。
「俺はそういう対象ではないと言う事か?」
 −しつこい。
 劉恂は戸の外でそう思った。
「私も太子殿下をお慕いしております。しかし…」
 −何だとぉぉぉ。
 劉恂の心が叫ぶ。
「ではなぜ受け取れない。それから俺を太子殿下と呼ぶのと丁寧な言葉遣いで接するのは止めろ。」
 劉甚の語調が早くなった。
彼女の心が言った。
−なぜあんな余計な事を言ったの。
しかし心の底から
−この想いを伝えずにはいられなかったの。
と言う反響が返ってきた。
「しかし貴君のようなかたに私は不似合いだと言っておるのでございます。皇后なら皇帝になってから益州中の美女を集め、その中から選べばよろしいではございませんか。」
そう言いながら崔玲は劉甚に背を向けた。
これである。
これこそが、劉甚が皇帝になれる位置まで来たのが彼女が劉甚に近寄り難くなった理由だった。
つまり悲しき事に身分という壁が劉甚と崔玲を引き離してしまったのである。
「玲、俺はな、太子になってから何かと仕事が多くなった。このままでは俺は汚い世間にどっぷりつかった冷たい者なってしまう。しかし玲、お前がいれば、お前がその笑顔で俺に安らぎを与え続けてくれれば子供の頃の無邪気な俺に戻れるんだ。だから俺にはお前が必要なんだ玲。」
そう言いつつ劉甚は背後から崔玲の華奢な肩を抱きすくめた。
崔玲の体は劉甚の腕の中にすっぽり収まってしまい、劉甚が大きくなった事を崔玲に感じさせた。
劉甚の吐息が彼女の耳に掛かる。
彼女はそれにともない、自分の体が熱くなって、胸の鼓動が早まり、顔が赤くなっていくのを感じた。
そして彼女は自分の赤くなった顔を劉甚に見られるのが恥ずかしくて振り返れなくなってしまった。
「だってあなたは私の手の届かないところへ行ってしまうんだもの…。このまま時が止まってしまえばいいのに。」
こう言って崔玲は天井を見上げた。
すると彼女の目から勝手に泪が湧き出、彼女の頬をつたって彼女を抱いている劉甚の手の上に落ちた。
「俺はいくら時が過ぎてもお前のそばにいてお前を守る。」
 劉甚がさらに強く崔玲を抱きしめた。
「でも俺がこのまま皇帝になったらそれが叶えられないかも知れない。だから」
劉甚は両手で崔玲の肩を持って彼女の体をこちらに向かせた。
「受け取ってくれるな?」
そう言って劉甚は星皇之剣を差しだした。
 彼女は俯いたまま小さくうなずいてその短剣を受け取った。
崔玲は劉甚に自分の情けない泪声を聞かれるのが嫌でしゃべれなかった。
 彼女が俯いた弾みで一滴の泪が短剣のの鞘の宝石の上に落ち、宝石が一層輝きを増したかに見えた。
「ではまた会いに来るからな。」
劉甚がと言って自分の手に落ちた崔玲の泪を嘗めながら劉甚は部屋から出て行った。
崔玲が振り向いて分かった事だったが劉甚の顔も崔玲と同じく真っ赤になっていた。
そして彼女は自分が心のどこかでこうなる事を望んでいたのをを感じた。
こうして蜀漢の皇后問題は解決したのだった。


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