[三]劉恂の決意


−はぁ…。これで殿下の夫人問題は解決かぁ。俺にもこんな時代があったなぁ。
 登艾は登忠を生んですぐ死んでしまった自分の妻の事を思い出していた。
部屋の中から「ではまた会いに来るからな。」と言う声がして劉甚の足音がこちらへ近づいてきた。
「殿下、太子殿下が出ていらっしゃいますよ。逃げなくて良いのですか。」
登艾が劉恂に言って彼を見ると彼の目の視点は定まっていなかった。
劉恂はそのままふらふらともと来た道を帰って行く。
−ああっ!私も早く逃げなければ。そういえば私はこの後は軍議だった。急がねば。
そう思い、登艾ももと来た道を駆けて行った。
崔玲は劉甚が出て行ったあと泪を必死で拭いていた。
 崔玲は出来事を一から考え直してみた。
 すると急におかしくなってきたのである。
 −二十歳より下の娘に求婚するときは笄(婚約・又は成人した時に女性が付ける簪)を送るならわしなのに短剣をくれるなんて英衡らしい…。
 そしてなにより天下の太子ともあろう者が自分のような女に必死で求婚したこと事態が彼女にはおかしくてならなかった。
「うふふふ…ふふふふふ、ははははは。」
そのときだった。
 突然荒々しく戸が開けられたのである。
「稚衡!びっくりするじゃない。」
劉恂だった。
彼は入ってくるなり足早に寝台に座っていた崔玲に近づいてきて彼女の横に置いてあった星皇之剣を持ち上げた。
「あっ、それは…」
「ふん!」
 劉恂はその短剣を放り投げた。
「稚衡、なんてこと・・」
崔玲が立ち上がろうとしたとき劉恂の手が伸びて彼女の頬に触れた。
「長兄に姐上は渡しません。姐上は私が貰う。」
そうっと劉恂は崔玲の頬を撫でた。
 崔玲はおびえた瞳で劉恂を見上げている。
「いずれ兄上は皇帝になるのですから、他国の王女や皇族の姫君を娶らねばならぬはず。しかし私なら…私なら姐上を正妃にすることができる。」
ただこう言って劉恂は部屋を出て行った。
崔玲は走って星皇之剣を拾い上げた。
 −稚衡…。


 一方その頃登艾は軍議をしていた。
 席には趙雲亡き後の軍事中心人物・緒燕をはじめ双璧・関興、張苞その他、魏延の代わりに前線に出ることになった馬忠(徳信)はいないものの、四猛将・王平(子均)、張翼(伯恭)、張嶷(伯岐)、廖化(元倹)らもいる。つまり祁山で仲達を力を合わせて倒した者達がほぼ全員そろっているのだ。
「ええ…米賊と魏は…ただいま同盟を…決裂して…おります…。その決裂は…先日の魏の…漢中襲撃に…より更に…深まりました…。それに魏では…ただ今内輪もめを…起こしております…。そして最近…入った情報ですが…米賊は春と夏は…一切の殺戮を…禁じている…そうです…。これこそ絶好の…好機、そこで私は…米賊への遠征を…提案したいと…存じます。」
 涼の春夏殺戮禁止…これこそ陳泰から得た重要情報であった。
張苞が立ち上がって言った。
「もっと具体的な作戦案をお聞かせ下さい丞相代理閣下。」
関興も立ち上がった。
「そうです。米賊の領内に攻め込み、一戦交えて勝利してよしとするのか、それとももっと深く米賊の領内に侵攻するのか。」
彼らにとっては新参者の若造がいきなり丞相代理で、自分らより上の人間になって面白くない事極まりないだろう。
「かしこまり…ました。…はっきり…申し上げま…しょう。…今回の侵攻目的地は…ここです…。」
そう言って登艾は棒で地図を指した。
武将達がざわめきだした。
登艾が指したのはなんと涼都武威だったのである。
緒燕が言った。
「閣下…貴君は今何をおっしゃたのか分かっておいでですか。そんな事が出来ると思っておられるのですか。」
 緒燕は北地王派に登艾がついたことにより借りがあると感じていたが、さすがに立ち上がったのである。
「出来る…出来ないの問題…ではございません…。やるのです…。それから今回の…遠征には太子殿下…と新興王殿下を…お連れしようと…思っております…。」
 登艾は劉甚から幼い頃から自分は武術を、恂は兵法を、遽は政を母に学ばされたというのを聞いていた。
 そこで劉恂がどの程度兵法に通じているか興味があったのである。
−お前は姜維を知らないからそんな事が言えるのだ。
場内の武官のほとんどがそう思った事だろう。


「幼衡、どうだ一杯やらんか。」
劉恂はその晩、劉遽を見かけたのでそう言った。
「大変結構ですね。」
こうして二人で飲み始めるなり劉恂が言った。
「今日、兄上が姐上に求婚した。」
「へぇ、長兄が。それで姐上は…。」
「お受けなされた。」
「良かったではないですか。」
「貴公は姐上の事をどう思う。」
「…愛しく思っております。」
「ではなぜ平気でおれる。」
 劉恂の語調が厳しくなった。
 劉遽は一杯飲み干してから言った。
「姐上がお受けになったという事は姐上も長兄を想われていたということではないですか。ですから私は姐上が幸福ならばそれを見守りたいと思いますが。」
劉遽は平気のように装ってはいるが、やはり飲み方が荒くなっていった。
「わ、儂はそうは思わぬ。姐上は、兄上が断ると気の毒だからお受けになったのだ。そうに違いない。少なくとも姐上を想う心は貴公らに引けを取らぬつもりじゃ。」
「そうですか。私は賛成できませぬが私にはそれを止める権利はございませぬ。ご自由になさって下さい。」
「決めたぞっ!私は次の戦で姐上を賭けて兄上と功を争う。」
こうしてその日、二人は酔いつぶれそのまま次の朝を迎えた。
おそらく涼遠征が彼ら兄弟の決着の場となるであろう。


戻る][前へ][次へ