[四]姜維無念


劉甚、劉恂は後で涼遠征の事を知らされた。
そして二人は戦への意欲を燃やしたのであった。
劉甚にとって遠征は初めてであり、劉恂にとっては戦自体が始めてである。
また、軍議の様子から見ても分かる通り、この遠征計画は丞相代理登艾が強引に押し進めたものであった。
しかし登艾にとって緒燕から多少の信頼は得たものの、多くの武官は登艾を成り上がり者として見くびっていたので実力を見せて信頼を得る必要があったし、現在最も蜀漢として恐れる事は、魏と涼が再び同盟を結び鍾会と姜維が共同して攻め込んで来る事であった。
共同はしなくとも、司馬懿の指示のもとこれまで沈黙を守っていた魏は鍾会が実権を握ったからには間違いなく動き出すだろう。
だから同盟が復活する前に片方を潰す必要があったのだ。
 遠征では太子劉甚が総大将という形がとられた。
 しかし、登艾の計画ではこれは皇帝親征になるはずだったのである。
 実は士気高揚のため皇帝劉禅の出陣を要請する上書は宦官黄皓の手により握りつぶされていたのだ。
劉兄弟が遠征に出るとき、崔玲はこう言った。
「二人とも…気をつけて…。」
崔玲はしばらく劉甚に会えなくなる事と、昔と変わってしまった劉恂にどう接していいのかで不安だった。
「我々がおらぬうちは姐上はお前が守るのだぞ幼衡。」
 劉恂が言うと
「はい。」
と劉遽が返事したのを見て、崔玲は劉恂が普段通り振る舞っているのを知った。
こうして遠征が始まった。
まず攻めるのは漢中である。
 漢中は涼の国境の最重要要所であったし、魏・涼・蜀漢の中心でもあった。
 漢中に向かう途中、馬上で劉恂が劉甚に話しかけた。
「兄上。」
「なんだ、稚衡。」
「兄上は太子の座の他に姐上まで欲せられるのですか。」
「なぜそんな事を知っている。」
劉甚が少し目を開いた。
「少し欲張りではありませんか。」
「……。」
「姐上を幼少の頃から慕っていたのは兄上だけではございません。私も、そして遽もです。」
「しかし玲も俺を慕っていると言っていたぞ。」
 劉甚は再び目を細めた。
「私はそうは思いませぬ。我々と姐上の出会いは同じ、そしてずっと一緒でした。姐上は我ら三人の中で姐上を慕っていたのが兄上だけだと思ったのではないでしょうか。」
「何が言いたい。」
 劉甚の語調は多少厳しくなった。
 しかしあくまでも平静を装っている。
「この遠征で私と功を争って欲しいのです。」
「なに?」
「そして負けた方は姐上との婚姻をあきらめるのです。」
「つまり俺が勝てば玲の事はあきらめると言うのだな。」
「はい、もちろんです。」
「よし、やってやろう。」
一方登艾は…
−今回の戦いは劉恂殿の手腕を調べるためでもある。それにしても来て早々こんな大きな賭けをする羽目になるとは…。しかしなぜだ…私はこんな賭けを…失敗すれば処刑になってもおかしくないような賭けをしていると言うのに…なんだこの沸き上がってくる好奇心は…。そうか!
「鴦よ…。どうやら私も…太子殿下の…不思議な力に…引き寄せ…られた者の…一人だった…ようだ。」
 趙淑は微笑んで頷いた。
「いや…どちらにしても…同じ事か…。は…はは…はは…は…は…。」
 登忠には何の事だかさっぱりだった。
漢中の夏侯覇はもとは魏にいたので登艾の恐ろしさを知っていた。
そこで涼都武威に援軍要請の手紙を出したのである。
ところが−
「なぜ援軍を出してならないのです!」
姜維は軍議を開く事を要請し、天師君張魯に直接言った。
 しかしそれに対し大祭酒閻圃が口をはさんだ。
「姜渠帥、貴公はまだこの教國の規則が理解できていないようですねぇ。この國は春夏は一切の殺戮を禁ずと言うのをお忘れですか。」
 張魯の側近であり弟の張衛も姜維を叱咤した。
 祭酒の一人、士元の弟の山民が立ち上がった。
「それではこの國が崩壊しても良いのですか。」
 閻圃が更に答える。
「この国は教えを信じる者が集まるためにあるのです。教えを破るのならばこの國の存在すること事態の意味がなくなります。山民殿はあれを読み返した方が良いのでは?」
 閻圃が指した先にはおかしな飾り人形の付いた車に積み込まれた太平清領書百七十巻だった。
 山民は大祭酒候補だった男である。
 大祭酒になるには祭酒の条件に加えてあの百七十巻に目を通して置かねばならなかった。
 もともと士元が死んだとき司州で布教していた山民が戻ってきたのは大祭酒になるためだった。
 しかし大祭酒の席にはすでに閻圃が座っていたのである。
「そんな分かりきった事を尋ねるために軍議を開いたのですか。天師君はお疲れなのですぞ。」
 疲れると言っても軍議は祈祷場で行われ、張魯は祈祷を続けながら話を聞くので、実は何の変わりもない。
 しかし側近の張衛曰く他の事に気をやる事により精神的な疲れが溜まるらしい。
「全くこのような用事で軍議を開かれては体が幾つ有っても足りませんな。」
 祭酒の一人楊松も愚痴をこぼし始めた。
 楊松の弟で同じく祭酒の一人楊柏(正史では白)もため息をついた後呆れた顔で姜維の顔を見ている。
 実の所、軍議の席にいるのはこの七人と姦令長張富だけで、姜維と張富以外は全員爺だった。
 軍議は本来祭酒と方、そして天師君が集まって軍事的面・政治的面・宗教的面からこれからの国の方針を決めて行こうというもので、軍議参加可能者なら誰でも開く事を要請できたが士元が死んだ後、何年も開かれていなかった。
 遊撃する将軍の筈の渠帥がなぜ都には姜維しかいないかと言うと、姜維が南征に失敗した後、敵の追撃を防ぐため長安の馬岱、馬承(二人ともすでに戦死した)を始めあらゆる場所に置いてきたからである。
 また、祭酒がなぜ四人しかいないかと言うと他の祭酒は布教のため他国を廻っているからである。
 −かつて士元様が健在だった頃のように春夏の戦を許さないからこんなことになるんだ。だいたいなぜ次の治頭に山民殿を選ばなかったのだ。このままでは閻圃の殉教的な政策でこの国は滅んでしまう。
 かつて現大祭酒閻圃と違い、前大祭酒士元は政だけでなく戦に関しても陣頭で指揮をとり、春夏も特別に軍を動かした。
 そして士元は姜維ら渠帥を率いて北伐してきた孔明とよく矛を交えていたのである。
 −それにしても本当に聞いているのかこの爺。
 と思い、姜維は張魯にちらりと目をやった。
 張魯は手まで隠れるぶかぶかの黒の衣装に身を包み、頭も黒の頭巾の様な物を被い、片手に九節杖を持って、太陽に向かって両手を翳したまま相変わらず沈黙を護っている。
 だから頭巾の影で張魯の顔の上半分は見えず、張魯の体で唯一露出している顔も口と鼻とが出ているだけで、後は目を凝らすと暗闇の中に二つの目が怪しく浮かんでいるだけだった。
つまり張魯が立ったまま寝てもいびきをかかない限りは周りにはばれないのである。
張魯が何時食事をするのか、いつ排便をするかなどは後継者張富も知らず、知っているのは側近の張衛ぐらいであろう。
「では他に議題はございませんか。」
閻圃が周りを見ながら言う。
 誰も何も言わなかった。
 閻圃の弱点は国事態の事を全く考えなかった事であろう。
 そして彼は楊兄弟の様に自分の利益の事も考えない…ただただ五斗米道の熱心な信者だったのだ。
「ではこれにて軍議を閉めます。」
今まで軍議から少しでも多くの知識を吸収しようと意識を集中していた張富が息をついた。
これで祈祷場の張り詰めた空気が溶けた。
 山民はやっておれるかといった具合に真っ先に退室して行き、その後は閻圃・楊松・楊柏・そして張富と退室して行った。
「姜渠帥。早く出てゆけ、ここは神聖な祈祷場だぞ。」
張衛が言った。
−現にこの國が危機に瀕しているいると言うのにこの馬鹿共は何を考えているのだ…。


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