[七]それぞれの想い


陳倉が落ちてすぐの事だった。
「これで天水・南安・安定の三郡もじき降りましょう。」
劉恂は登艾が自分より上だという事をすっかり認めている。
「そう…うまく行き…ますかな。」
登艾は姜維が令明を陳倉に置いたと聞いた時から姜維に恐怖を感じ始め、陳倉で劉恂への対抗心が消えた時から登艾の心は姜維への恐怖で埋め尽くされていた。


そしてそれから十日。
八日前、令明の兄で広魏郡姦令の[广龍]柔が弟で勝てぬ相手が私に勝てるはずがないと言って降伏の使者を遣わしてきたものの、現に肝心の三郡からは何も来ない。
その日、細作からある情報が彼らの滞在している広魏郡にもたらされた。
三郡のそれぞれの姦令が分かったのだ。
天水郡姦令の馬秋は馬超の長男である。
さらに南安郡姦令尹賞・安定郡姦令梁緒はいずれも馬遵に仕えていた頃からの姜維の親友である。
 要するに三人とも姜維を信頼している人間なのだ。
だから三郡共に降伏しなかったのである。
−やられた…。
登艾は思った。
−このまま一つ一つ郡を落としていては兵糧がもたない。
 いくら漢中で兵糧の補充ができたとはいえ、広魏郡滞在中も兵糧は着実に減っていたわけで、降伏した兵も養わなければならなかったから残りの兵糧の量はしれている。
このことを登艾は兵糧の事はうまく伏せて軍議で発表し、明日からまずは天水へ向けて出発する事をする事を明らかにした。
登艾はその晩、眠らずずっと天井を見ていた。
−米賊を滅ぼせず成都に戻れば敗戦の責任はすべて私に擦り付けられ、私は丞相代理の座を追われる事となる。何か早く三郡を落とす方法を考えなければ…。


その夜劉恂は…
劉恂は目の前にいる人物がここに存在していることに驚いた。
−何故ここに姐上が…。
しかし彼女は現に存在している。
彼女は寝巻の薄衣を着ており、劉恂を見て微笑んだ。
 その薄衣の襟は自然とはだけられ、眩しく白い胸元の肌が露わになっている。
 −ああっ!
 両肩からするりと白い薄衣が滑り落ち、その白い乳房が露わになる。
 彼女は両手を開く。
 そしてその小さな唇が微かに動きそっと一人の男の名を囁いた。
 「稚衡」
限界だった。
 そこで劉恂が今まで自らの欲を押さえていた堤防が決壊し、走って行って彼女を抱きしめようとした。
しかし劉恂が彼女を抱きしめる寸前に煙のように彼女は消えてしまった。
「玲!」
劉恂は目を覚まし、今のが夢であった事を知った。
−玲と呼んでしまった…。今頃姐上はどうしているだろうか…。
「ハッ」
まさか幼衡が姐上に手を出しておるまいな。


一方その崔玲は自分の部屋で蝋燭と睨みあっていた。
−皇帝は他国の姫と結婚しなければならない…かあ。
 彼女の心は蝋燭の炎の様に揺れている。
「姐上、姐上?」
 声は戸の外から聞こえる。
「幼衡?」
崔玲が戸を開けてやると劉遽が心配そうな顔をして立っていた。
「こんなに遅くにどうしたの、幼衡。」
「姐上が心配で見に参ったのです。明かりが消えておればそのまま戻るつもりでしたが…。」
 彼女は悩ましげな顔をして俯いた。
 ふと見ると彼女は寝巻の薄衣に着替えており、その襟は自然とはだけられ、眩しく白い胸元の肌が露わになっている。
 −普段表に出ている部分は日焼けしているが、こういう部分は白くて綺麗なんだな…。
そう考えて劉遽が生唾を飲み込んだとき彼の頭を悪魔がよぎった。
−今なら兄上達はいない…。
 当時、結婚していない女人が部屋に男を入れた以上、何もなくても何かあったと言われる御時世である。
劉遽はさりげなく後ろ手で戸を閉めた。
 −やめろー!
 心の中のもう一人の劉遽が言った。
「幼衡?」
崔玲も不審に感じ始めている。
 次の瞬間の沈黙を劉遽は見逃さなかった。  劉遽は素早く崔玲に近づきその手を取る。 「姐上!」
劉遽は掴んだ手をたぐり寄せ崔玲の両肩を持って寝台に押し倒した。
「幼衡?!」
「姐上、あなたは兄上達の想いをお聞きになったそうですね。私も、私も小さい頃から姐上の事を…。」
劉遽は両手で彼女の手首を持って動けなくした。
−なんて力…振りほどけない!
劉遽は彼女の風に吹かれて散る寸前の花びらのように震えた唇をもぎ取るかのように無理矢理奪った。
「んっ…やっ、やめて幼衡!…英衡!…英衡!」
その時、劉遽は自分以外の者の名を呼ばれたことで我に返った。
「これで分かったでしょう姐上。」
劉遽は手を放した。
「あなたの本当の気持ちが…。」
「幼衡?」
「姐上には自分の気持ちに素直に生きて…そして幸せになって頂きたいのです…。」
「私…」
「姐上。早くお休みになって下さいね。でなければお体に障ります。それでは私は屋敷に戻りますので。」
「あっ、幼衡!」
劉遽は足早に出て行ってしまった。
劉遽が出て行った後、崔玲の部屋は再び沈黙に閉ざされた。
−私の本当の気持ち…かぁ。あの時、とっさに英衡の名前が出てきた…。
崔玲は蝋燭に再び目をやった。
 蝋燭の炎の揺れは収まろうとしている。
−まさか本当は幼衡まで私の事を…。
彼女は星皇の剣を取り上げた。
彼女の瞳には星皇の剣が滲んで見えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…稚衡、幼衡…私、やっぱり…」
−英衡でなくてはだめ…
部屋を出た劉遽は考えながら自分の屋敷への道を歩いて行った。
−危なかった…あれ以上あの部屋にいれば私は野心を抑える事が出来なくなっていただろう。
劉遽の体は夜の冷たい空気のせいで芯まで冷えていた。
−しかしおかしなものだ。私は彼女に自分の気持ちに素直に生きろと言っておきながら私は素直に生きてはいない…。
「ふう…。」
−いや、あれが私の素直な気持ちだったのだろう…。現に私の心は彼女を自分の物にしなかった後悔よりも彼女の唇を奪った罪悪感の方が占めるところが多い…。
劉遽は立ち止まって月を見上げた。
−私はあの月を想ってしまったのだ…。月には今まで我々を導いてれてきた太陽がふさわしいというのに…。
劉遽は再び歩き始める。
こうして劉遽は漆黒の闇の中へと姿を消そうとしたときである。
 劉遽は一つの人影を闇の中に見た。
「御辺は?」
「玉蘭…・と申します。」
 −ほう…。長兄に近づいたという美しき張氏の娘か…。どれほどの美女なのであろう。
 劉遽は張玉蘭に近づき、その顔を見た。
 劉遽は息を飲んだ。
 −似ている!
 目が崔玲によく似ているのである。
彼女−張玉蘭の瞳も崔玲と同じくぱっちりと澄んだ大きな瞳だった。
 ただし、よく見ると彼女の瞳は深緑である。
 −だから長兄はこの娘を無理に退けられなかったのか。
 しかし崔玲よりも背が低く、顔は小さかった。
−それにしても玉のような肌とはこれを言うのだな…。
 彼女の雪の様に白い肌が月の光を反射して目映いばかりの光を放っている。
 また、彼女の髪は西方の国の血が混ざっているのか薄茶色で、結い上げられたその髪が、月光により透けて美しく生えていた。
 劉遽は彼女の頭の上から足の下までを繰り返し眺めた。
「こんな所で何をしているのだ。」
 劉遽は尋ねる。
「父上が上党王殿下をお慰めしろと言われたのでここで殿下を待っておりました。」
 彼女の父とは張紹のことである。
−読めたぞ…。張一族は兄上達がおらぬ間に政で名を上げている私を太子に立て、私に玉蘭を娶らせて外戚の地位を確保する腹づもりか…。そうはさせんぞ…。
 張玉蘭は震えている。
 頬は薄紅色に染まり、息も少し荒く、吐く息が白いのも痛々しい。
 おそらくこの寒い中ずっと劉遽を待っていたのだろう。
 −それにしても男に「護ってやりたい」という願望を起こさせる女だ。特にその華奢な体つきとなよなよとした足の運びの愛らしさがたまらない。
 劉遽はそれに対する誘惑を退けるため首を振った。
「いいかい?玉蘭殿。これからは女人といえども相手を自分で選ばなければいけない。いつも父や他の人の命令に従ってはいけないんだ。僕の知っているある女人は自分で自分の好きな男性のもとへと行ったよ。」
「わ、わたしは…。」
 と張玉蘭は何かを言いかけ、後ろを向いてしまった。
「どうしたんだい?」
劉遽は彼女の肩に手をかけ、振り返らせた。
 彼女の顔をのぞき込むと、彼女の崔玲と同じ大粒の瞳に涙をためて唇を震わせている。
 劉遽は少し考えたが、決意し、
「とりあえず外は寒いから中に入りなよ。」
 そう言って劉遽は張玉蘭を落ち着かせるため屋敷に迎え入れた。
 ところが、それを見ていた者がいたのである。
 これがもとで劉遽と張玉蘭が既成事実で婚約させられることになってしまうのである。


 −数日後
 劉遽が政務から戻ってくると張玉蘭が屋敷の前で待っていた。
「玉蘭殿…。」
 しばらくの沈黙の後、劉遽は言った。
「入るかい?」
「…いえ。すぐに終わります。」
「なんだい。」
 張玉蘭はすうっと息を吸い、
「あなたには本当に好きな人がいるはずです。だから婚約を破棄して下さって結構です。けれど私はあなたのことが好きです。あんなに本気で叱ってくれる人なんて周りにいませんでした。だから最初は戸惑うばかりだったのですが、この人にだけは誤解してほしくないと思うようになってきてそう思ったら何だか涙が溢れてきて…。」
 後半は張玉蘭はうつむき、涙声になっていた。
「それではお父様に婚約破棄の件は伝えておきます。」
 と一方的に言い、去っていった。劉遽は止めようと思い、手をあげようとしたがその手をおろした。


 一方その頃劉甚は…
「姜…維、貴様は俺が倒す!」
劉甚は目を覚ました。
劉甚はその時何の脈絡もなく崔玲の事を思い出した。
「玲…。」
劉甚は俯いて自らの額に手を宛てた。
泪が泉のように沸き上がってくる。
 −知らなかった…崔玲と離れる事がこんなに辛いなんて…。
「くぅ、こんなゆっくり攻めていたら姜維と勝負する事も、玲と早く会う事も出来ないではないか。」
−その為にも早く三郡を落とさねば…しかし三郡の姦令達は姜維を深く信頼している…。姜維…?
「これだっ!」
−それを逆用すれば良いのだ!ようし、この策が成功すればすべてがうまく行く。
こうしてそれぞれが様々な気持ちで次の朝を迎えた。
「三郡攻略の事で私に策があるのだが…。」
 劉甚が翌日軍議で切り出す。
「おっしゃって…下さい殿下。」
登艾が詰めよった。
彼の目は真っ赤になっている。
どうやら昨日は一睡もできなかったようだ。
−兵法を学んでおらなかった劉甚殿の策などたかが知れておろうが今はそんな贅沢な事を言っている場合ではない。
いわば藁をも掴む思いである。
「まず三郡の姦令達は姜維を信頼している者達なわけだ。」
劉甚は得意気である。
前も言ったが彼は自分が苦労して考えた事を人に自慢するのが大好きなのだ。
「だから我々には降らない。しかし姜維には降ろう。」
登艾、劉恂は何か分かった様だが他の将軍達は依然首をかしげている。
「つまり姜維の偽物を使うと言うのですか、太子殿下は。」
劉恂はあきれかえっている。
「その作戦は私も考えました。しかし彼らがそんな手に騙されるかどうか…。」
「登艾、御辺はこの作戦を考えても実行する事は出来ない。」
登艾は劉甚にこの様に振る舞われるなど思いもしなかった。
どう考えても普段と立場が逆転している。
「なぜなら御辺は姜維の顔を知らないからだ!」
劉甚は登艾を指さした。
こんな瞬間でも劉甚は目を見開こうとしない。
 しかし、姜維の顔を知らないのは劉恂も同じであり、この二人は痛いところを突かれたようだ。
「入れ。」
劉甚の合図で一人の兵が入ってきた。
陳到である。
記憶の良い読者なら憶えているだろう。
 陳到とは漢中で夏侯覇を退却に追いやった勇敢なる兵である。
 彼にはあらかじめ劉甚から
「この作戦に成功すればお前を俺の近衛隊長に据えてやる。」
 と言われていた。
「おお。」
将軍達が驚嘆の声を上げた。
登艾、劉恂はわけが分からない。
「私は陳到、字は叔至と申す者にございます。」
陳到の声に将軍達が反応した。
「確かに似ている。」
「姜維にそっくりだ。」
登艾、劉恂は姜維の顔を知らないのでこれには何とも言えない。
−彼らの力を読み違えていた…。彼らには戦略は無くとも経験があったのだ。
登艾は苦い表情を浮かべている。
 −陳泰がおれば…。
 登艾をこれまで経験面で助けてくれていたのは陳泰だった。
 しかしその陳泰は自分の屋敷で療養中である。
そんな将軍の中、張苞は自分が育てた男がこの様に成長してくれた事を喜び、微笑んでいた。
 緒燕が立ち上がった。
「確かに似ておりますが声が違いますぞ殿下。姜維の声はもっと高かった。」
関興も意見した。
「それに姜維の顔はもっと白かったと思われます。」
劉甚は依然落ち着きをはらっている。
「顔の色は化粧で何とでも変えられましょう。声は別に声が姜維に似ている兵を探し、この男には口を開閉させておき、違う兵にしゃべらせれば良いではないですか。」
劉甚はますます得意気だった。
彼は目を細めたまま冷笑している。
 我が策に死角は無しと言いたげである。
−極めた単純な作戦ではあるがやる価値は有るな。これが成功すれば儲けものだ。
登艾は腹を決めた。
「やりま…しょう。」
他の将軍達も同意した。
彼らがが同意したのはたとえこの作戦が失敗しても兵を損ずる事はないからであろう。
声をする者は陳到が紹介した彼の盟友の宗預、字を徳艶という男に決まった。
 この男は陳到と同じく勇猛で、女の様に声が高く、低く喋らなければ姜維に似た声にはならなかった。
 こうして作戦が決行された。
兵が天水郡冀城を包囲し、降伏使者には陳到・そして護衛の身なりをした宗預が向かった。
 それに対し、天水郡姦令馬秋が楼台に登って降伏した理由を尋ねる。
「どういう事だ、伯約。」
 陳到は口を開き、それを見計らって宗預が話だした。
「大祭酒閻圃は宗教に捕らわれ、お前達への援軍を差し向けようとはしなかった。我々は元々五斗米道の信者ではない。士元様がおられた時代はまだ良かった。しかしもう我慢ならん。何故あんな連中の下で動かねばならんのだ。あんな連中と共に降伏したり、死んだりするのは御免だ。だから降ったのだ。」
やはり陳到は口を開閉させ、宗預がしゃべっている。
「……。」
馬秋は考え込んでいる。
 −駄目か?
 馬秋は陳到の目を見据えた。
 陳到はそれをにらみ返した。
 −ここでおかしな表情をすれば気づかれてしまう。
「秋。共に蜀に降ろうではないか。大丈夫、彼らは私を歓迎してくれた。それとも貴公はこれ以上五斗米道に従って働く気か?」
 宗預が急に喋りだしたので陳到が合わせて口を動かすのが大変だった。
「分かった。貴君がそう思うなら儂も降ろう。」
こうして冀城の城門は開かれた。
 −ほうあの宗預という兵は…。
 登艾は顎髭をしごいた。
 姜維が降伏したという情報を聞き、南安郡姦令尹賞・安定郡姦令梁緒も数日後降伏の使者を送ってきた。
 天水郡からは馬玄、南安郡からは上官廱(子脩)、安定郡からは梁虔が抗戦派を率いて合流し上[圭β]城にたて篭もった。
これに隴西郡姦令・梁興、金城郡姦令・程銀、西平郡姦令・張横が呼応、それぞれが自ら援軍に駆けつけた。
そして馬秋の子で、馬超の孫である馬玄を盟主に立てた。


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