[八]董亭の決着!劉甚対姜維


「降伏した天水郡・南安郡・安定郡から槍術に長けた西涼兵を、一千騎ずつ引き連れて追いついて来い。これは私の名を書いた書状だ。」
劉甚は天水郡を出るとき陳到にこう言った。
「そんな事が…出来るのですか?私に…。」
陳到は一兵卒から出世したばかりなので人に命令するような事、ましてや兵を率いる事など生涯する事もないと思っていた。
「御辺はまだ俺の凄さが分かっておらぬと見える。俺は北伐軍の総大将であり、しかも太子なのだぞ。勅命(皇帝の命令)の次に優先するべき指令だ。」
劉甚は陳到の言った事を勘違いしている。
陳到が言ったのは自分の能力についてである。
「この書状に逆らう者は叛意有りと言って斬りつけても罪にはならん。」
「はい…。」
こうして陳到は今、天水郡の冀城から各郡へと数人の護衛と共に馬をとばしている。
一方武威である。
姜維は憤っていた。
再び軍議を開こうと考えたが、姜維は無駄だと分かっている事をするのが嫌だった。
しかし姜維には降る気も無かった。
彼は忠義の人であり、一度仕えたからには裏切るという事は考えられなかった。
しかし張魯を始めとする人々は降るであろう。
−こうなれば今、手の中にある軍を動かすしかないな…。
天師君張魯は涼都武威に信者で形成された軍、「鬼民軍」以外の軍を置く事を許さなかった。
なぜなら武威は五斗米道の聖地だからである。
しかし武威には簡単にそれ以外の軍を隠す場所があった…義舎という隠し場所が。
さらに聖地武威には諸都市よりもはるかに多くの義舎があったため、姜維は屈強の西涼軍を三万も義舎で養えたのである。
姜維はついにその軍を動かす決意をした。
彼らは夜に義舎を抜け出させて毎日訓練させていたので実力は落ちていない。
こうして姜維は西涼軍三万を率いて南下を始めた。
この報は蜀漢の陣営にもたらされた。
「大南方渠帥姜維が西涼兵三万を率い、上[圭β]軍の援軍に南下して来ているとの事です!」
−やはりな…。
劉恂は会心の笑みを浮かべた。
−天水では兄上に功を取られたが、姜維さえ倒せば手柄の量で兄上を上回れるはず。
軍議で早速劉恂は自分の策を提示した。
「おそらく姜維は西涼兵の勢いを利用し一気に一丸となって攻め込んで来て我が軍の撹乱を誘うと思われます。そこで我が軍はそれに対しあえて戦おうとせず別れるように上[圭β]軍に道を開けますそして姜維が我が軍を突き抜ける直後の場所に鉄疾藜(日本で言う蒔菱)を置きます。その向こうにもさらに元戎部隊を置き、完全に西涼兵の足を止めます。そこで両側に別れた我が軍が包囲し、一気に叩きます。」
登艾が立った。
「鉄疾藜を…我が軍の兵が…・踏むかも知れ…ませんぞ。」
「そのために鉄疾藜を棒状の物にし、元戎が攻撃をしている間に回収させます。」
−そこまで考えて有るのなら異存は無い。おそらくこれで大丈夫だろう。
将軍達は何だか納得していない様子である。
 しかし劉恂・登艾は新参者の自分達の策ばかり通るので嫉妬しているのだろうと解釈した。
 こうして馬玄を盟主とする上[圭β]軍と姜維軍が合流し、北伐軍と董亭にて決戦する事となったのである。
北伐軍の兵力は約五万、上[圭β]軍の兵力は約三万であった。
「紡錘陣形をとれ!」
 と言う指令を迎撃軍に与え、姜維は予想通り勢いに任せて突撃してきた。
これは無能な攻撃だと思われがちであるが、西涼兵はこの様にも用いるのが最も良いのである。
 姜維も軍の中央辺りで俊馬を疾駆させている。
無論姜維はこのまま北伐軍を突き抜け、撹乱させるつもりであった。
上[圭β]軍は槍襖を作り、一丸となって粘土に杭を打ち込むかのように北伐軍に突っ込んでくる。
それに対し北伐軍は大した抵抗もなく二分されていく…。
しかしまさに北伐軍を上[圭β]軍が突き抜けようとしたとき、先を行く数頭の騎馬がつまずいた。
「よし、射てぇ!」
劉恂は我が策は成れりと言うわんばかりの表情で元戎部隊に指令を与えた。
数十台の元戎から一斉に銀糸のような鉄矢が発射された。
銀糸は倒れ込んだ馬や人、そして走っていた馬にも命中し、完全に上[圭β]軍の足は止められた。
そうしている間に北伐軍は棒状の疾藜を回収している。
その銀糸が止んだ瞬間、北伐軍の反撃が始まった。
上[圭β]軍の正面にも北伐軍が覆いかぶさり、上[圭β]軍は完全に包囲された。
「円陣を組め!」
姜維の的確な指令と共に円陣が組まれ、防御体制がとられた。
円の外にはびっしり長槍が向いており、北伐軍をよせつけず、攻めあぐねた。
「莫迦な…西涼兵がこんなに強いなんて…」
劉恂は声を失った。
 更に凶報は続く。
「申し上げます。俄何焼戈(正史では餓何、焼何という王がそれぞれいる)を先鋒とする迷当大王率いる羌歩兵軍が山脈を越え、接近しつつあります。」
「ぬうっ!」
 登艾は思わず指揮棒を折った。
 劉恂は顔の血の気を引かせた。
 −そうか…。姜維ともあろう者が突進だけのはずがない…。米賊は馬超の頃から羌と結びつきが強い…。増してや姜維は羌族の出身。こんなことに気付かぬとはなんとした不覚。
 羌の歩兵は五国一の強さである。
 姜維がこのまま羌軍と合流すれば戦況がひっくり返る恐れが十分にあるのだ。
劉甚は報告を聞かなかったらしく、総大将として中央に座していらいらしながら陣営からみている。
「まだ…まだ来んのか…。」
ちなみにほとんどの将軍が乱戦の中にある。
そんなとき一人の将が陣営に駆け込んできた。
 見ると陳到である。
「西涼兵三千…ただ今到着…致しました…。」
陳到は息を弾ませている。
「ようし、今すぐ出陣だ叔止!」
陳到は顔を上げた。
その目は光輝いている。
「ははっ。」
「お待ち…下さい太子…殿下。」
 登艾が止めようとした。
 しかしそれにかまわず劉甚は指令を出した。
「錐行の陣を組め!」
陳到が率いてきた軍はある程度手早く動いた。
「ようし…」
劉甚は息を吸い込んだ。
「突っ込めー!」
 白鳳矛が上[圭β]軍を指す。
「わぁぁぁぁ」
今度は北伐軍が槍襖を作り、上[圭β]軍に襲いかかった。
上[圭β]軍の正面を覆っていた味方の軍は劉甚軍を避けた。
「だめだ!散ってはならぬ!」
姜維の指令も最早遅かった。
北伐軍の包囲のせいで劉甚軍が突入してくるのが寸前まで分からなかったのである。
姜維の円陣は見事に割られ、錐行の陣により分断されていく…。
「しまった…間を割られた…。」
姜維は絶望した。
−もう勝ち目はない。
 そこへ陳到が襲いかかった。
「姜維!覚悟っ」
「ぬううっ」
姜維はとっさに槍で環刀を受けとめた。
「私?!」
姜維は陳到を見て驚嘆の声を上げた。
自分と同じ顔である。
これが陳到が簡単に姜維を発見できた理由であった。
 驚きながらも姜維は陳到の双環刀を受け止めながら考える。
「これではどうだ!」
陳到は二本の環刀を同時に振り下ろした。
「なにい?!」
姜維はそれを受け止めていた。
陳到はこれまで長年戦場を掛け巡り、多くの屈強の兵と戦ってきた。
しかしこの一撃の前に倒れなかった者はいなかったのである。
時には敵の武器、鎧をも貫いた。
−この様な細長い木製の柄がこの一撃に耐えられるはずがない。
しかし良くみると柄には細かいひび割れが生じている。
木片の欠片が幾つか落ちそこから灰色の柄芯が覗いた。
−鉄芯が入っていたのか!しかしこの一撃を受け止めたのはあの武器ではない。あくまでもこの男の力なのだ!
 陳到は環刀に力を込めた。
 姜維はそれを押し返しながら急に顔を上げ、穴が開くかと思うほど陳到を睨みつけた。
目の下には深くしわが刻み込まれている。
 陳到の顔は恐怖に包まれた。
 彼の鋭い頭脳が答をはじき出したのである。
「おまえ…かぁ…。」
そう言うと姜維は双環刀を跳ね返した。
「ぐっ」
 陳到は慌てて体制を立て直した。
「我が僚友達を…陥れたのは貴様かぁぁぁ。」
怒号とともに姜維の槍撃が銀色のの雨の如く陳到に襲いかかる。
−早さも重さも桁違いだ…。
「うらあああ」
姜維の槍撃は早さを増し、姜維の目の下には更に深くしわが刻み込まれる。
陳到はかわしているのがやっとだった。
−殺られる!
その瞬間である。
「姜伯約、血迷ったか?」
姜維は槍撃を止め、振り返った。
するとそこには蜀漢の太子、劉甚がいた。
「貴公の相手は俺がする。」
「面白い…。」
姜維は槍の穂先の向きを劉甚に変えた。
「殿下!なりませぬ。」
「御辺は黙っておれ。」
 劉甚と姜維が向き合った。
「綿竹での決着、つけてくれようぞ。」
二人が異口同音に叫ぶと馬を近づけ、矛と槍の間に火花を散らした。
「はぁぁぁ」
五十合ほど打ち合っても勝負は決しない。
姜維は一つ策を思いついた。
「太子殿下自らお相手下さるとはかたじけない。」
「なにを−」
劉甚は力を込めて矛を薙いだ。
しかしその矛は空を切り、姜維はその隙を見逃さず、劉甚の脇腹に一撃を加えた。
劉甚は見事に姜維の挑発に乗ってしまったのである。
 劉甚は自らの腹に穂先が食い込んだ瞬間、槍の柄を左手で握り受け止めた。
白鳳矛は刃の面積が広いため重く、左手で姜維の槍を受け止めながらもう右手で操るのは困難だった。
槍の穂先を伝って劉甚の血が滴り落ちた。
その血は更に柄を伝い、劉甚の手に伝ってくる。
−血で…手が…滑る…。
姜維は槍に更に力を込めた。
「ぐうう…。」
−い、痛い…。
陳到は姜維の背後で弓をつがえる。
その陳到の顔を劉甚はかっと睨みつけた。
陳到はそれに気付き、劉甚の研ぎ棲まされた眼光に照らされ、弓を取り落とした。
陳到は先ほど姜維に睨まれた時以上の恐怖を感じていた。
 一方姜維、劉甚の一騎打ちにも異変が生じていた。
「ぐっ」
姜維は左肩に痛みを憶えた。
姜維は目を疑った。
劉甚はなんと薙ぎの勢いに逆らわず、刃の反対側の[金尊]で姜維の左肩を突いたのである。
姜維の肩からも血がしたたり落ちた。
白鳳矛の[金尊]が普通の物より鋭く長くできていた事が幸いして姜維の肩に深く刺さった。 姜維は一瞬にして自分の不利を悟った。
姜維は槍を抜き、一旦馬を劉甚の馬から放した。
すると突然劉甚は馬首を返し、逃げ出した。
「逃げるか?!」
姜維がそう言って追いかける。
−奴を倒すにはこの方法しかない。卑怯かもしれんが…。
劉甚は振り向きざまに矢をつがえた。
姜維も馬を止めた。
「劉英衡愚かなり。そんな物で私をしとめるつもりか。」
劉甚は姜維の首を狙って矢を放った。
綿竹の戦いの後も特訓しただけあって矢は風を切り、唸りながら姜維の喉へ向かい進んで行った。
姜維は矢の狙いを見切り、槍の柄を盾にして矢を受け止める。
「ふん…。」
姜維は視界を遮っていた槍を傾けた。
馬が駆ける時になるひずめの音が響きわたっている。
「なにい?!」
ふと見ると劉甚が目前まで馬を疾駆させてきている。
「ぬうう!」
姜維は必死に槍を構えた。
しかしどう考えても劉甚には馬の勢いがあるので姜維には不利である。
 彼らがすれ違った瞬間がぁんと金属音が一度だけした。
 劉甚は姜維の横を通り抜けた後すぐ馬を止め、振り返った。
「ぬ…。」
 白鳳矛の片翼の根元にひびが入った。
 姜維も振り返ろうとして首を回した。
 しかし姜維が劉甚の方を向いた瞬間、姜維の頚から血が吹き出、姜維ははそのまま馬の下に崩れ落ちた。
 冷ややかな鋭い視線を劉甚に突き刺したまま…。
 劉甚は自分のしたことながら信じられず、ただ姜維が崩れ落ちる様を見ていた。
−俺は…人を殺したのか…。
 こうして悲運の名将姜維は死んだ。
 彼は一人だけでも戦い抜いた忠臣として、後世で神に祭り上げられることになるのだが、今はそんなことはどうでもよい。
戦況は姜維の死により確実に蜀漢軍の優勢となり、半刻もせぬうちに勝負はついた。
しかし争い済んでも劉甚は累々と横たわる西涼兵の死体の中で佇んでいた。
「太子殿下!」
登艾が劉甚に声をかける。
「お約束…下さい…。殿下は…いずれ皇帝に…なられる大事な…お体です…。戦場に直接出て…来て、しかも…敵将と一騎打ちを…なさる事など…二度と…しないと。」
「ああ…。分かった…。」
劉甚は馬から降り、他の死体の中に埋もれている姜維の亡骸を起こした。
 −ほんの半刻前までこの男は間違いなく動いていた。そして他の死体もすべて…。俺が争い続ける限りこの様な事は起こり続けるであろう。
「二度とするものか…。」
−他の国の兵達は我国と違い、戦う意思の無い者もあり、親や妻子もあるだろう。俺のしている事は…本当に…正しいのか?
「俺は二度と戦場になど出ぬ…。」
そう言いつつ劉甚は姜維の首を掻ききった。
 このあと盟主馬玄らも討ち取られた。
 こうした上[圭β]軍の敗退により軍を損じる事を恐れた迷当大王は退却した。
 こうして世に言う董亭の戦いは幕を閉じたのである。


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