[九]五斗米道教国…崩壊


「だめだ…もう…」
 劉恂は頭を抱えかんでうずくまる。
−兄上が戦況を変えた上に、姜維の首まで取られたとあってはもはや功では勝ち目はない。
そして蜀漢の軍は武威への道を進んで行く…。
彼らの道を遮るものはもうなにもなかった。


 所代わって涼都武威の神殿である。
−衛…。
「はっ」
張衛は気付いた。
「何でしょう。天師君。」
−この国は終わりだ。
「…。」
−しかしこの教えは終わらぬ。
「はい!」
 −これから御辺は神殿の屋根の上に登るのだ。その頂上には一つの小さな壷がある。その蓋を外し、水を注げ。
「はい…。」
 −何をしておる。早くせよ…。もはや一刻の猶予もならぬ。頼めるのは御辺しかおらんのだぞ。
「ははっ。」
 かくして張衛は神殿の屋根を登る羽目となった。
 時は早春。
 まだ強い風が吹いている。
 張衛は一人で屋根を登るのに幾度も転げ落ちそうになった。
 何と言っても水瓶を持って屋根を登ること事態が至難中の至難であった。
「あった…。」
 神殿の頂上にやっとの思いで到達した張衛は屋根の頂上に丸い壷…というよりは玉葱状の飾りを見つけた。
 飾りの先の方は良くみると境目があり、外れるようになっている。
 張衛はそれを引き抜く…。
 引き抜くのはかなりの力がいった。
 しかし引き抜き安いように先の方が何となく膨らんでいたので楽に抜けた。
 中から少し異臭がする。
 それをかまわず張衛は水瓶の水を飾りの中に注いだ。
 すると水は飾りの中で白く変色し、泡が出て音を立てて沸騰し始める。
 そして白い気体が飾りの中から凄い勢いで溢れ出し、どんどん周りを包んで行く。
 これこそ五斗米道に代々伝わる秘法…五里霧の術であった。
 この術は張魯の曾祖父にあたる張楷が発明したものである。
 ちなみにこの五里霧の術が四文字熟語「五里霧中」の語源となっている。
 張衛は水を注ぎ終わった後、水瓶を屋根の下に投げ捨てた。
 −帰りもあんな危ない目に会うのは御免だ。
 下では壷が落ちた大きな音がして一騒動あったようである。
 この後武威を中心に五里の間が濃い霧に包まれた事は言うまでもない。
 張衛は再び祈祷場に戻って張魯の次の指示を仰いだ。
−儂の手から九節杖を取るがよい。
張衛は言われるままに九節杖を取った。
−振ってみよ。
張衛が振ると中からとんとんともののぶつかる音がした。
 更に振ると杖の途中から下が皮一枚分ずり落ち、刀身が現れた。
−その仕込杖の柄の中は空洞となっており、一つの書が入っておる。それには儂がかつて纏めておいた教主だけに伝える法、教主としての心得などが記されておる。
「はい。」
 教主の代々持っていた九節杖は印剣としての役割も果たしていたのである。
−それを張掖郡の副姦令長張盛に渡すのだ。
「姦令長ではないのですか。」
−富か…。富はおそらく儂の跡継ぎとしてすでに顔が割れており、奴がいなくなれば蜀の者達は血眼で探すだろう。
「なぜですか。」
−蜀丞相代理登艾じゃよ。あやつは我ら五斗米道を完全に消そうとするじゃろう。だから世継ぎがいなくなっておれば探すに決まっておるわ。
「そうでしょうか。」
−そういう男だ。知っておるであろうあの男が南斗仙を殺そうとした事を…。あの男は災いの種となる事はすべて消す。
南斗仙とは紫虚上人のことである。
「それ以前にそのような情報がはたして蜀にあるのでしょうか。以前から数人『私は蜀の細作だった』と名乗り出る者がありましたが。」
 −あったはずだ。なければちょうど殺戮禁止の季節に攻めてこれるはずがない。
「しかし張掖郡に向かおうにも外は既に霧で覆われておりますぞ。」
−そこに一台の車が置いて有ろう。
 確かに祈祷場の隅には埃にまみれた一台の車がある。
「あの飾り人形の付いた車ですか?」
−あれは飾りなどではない。あの車は夏侯覇が投降した時に献上品として持ってきたもので「指南車」というものだ。あれは魏の学者、馬鈞の発明したもので、あの人形は常に南を向くように出来ておる。それからあの車には太平清領書百七十巻が積んである。
「どうやって動かすのです。」
−馬にひかせ引かせ、馬車として使うのだ。霧が張掖郡に着くまでに時間を稼いでくれよう。
「畏まりました。天師君はいかがなさるおつもりなのです。」
−儂はそろそろあの方の元へ参ろうと思う。こんな形でここに留まっておっても御辺と話す事しかできぬし、動く事も出来ぬ。
「分かりました。では次はそちらでお会いしましょう。」
−衛よ…。お前は今まで側近としても弟としてもよく働いてくれたな。
 張衛は顔をしわくちゃにして微笑んだ。
「そのような言い方はおよし下さい。またすぐにお会いできるのですから。」
そのうち張衛は馬を引いて戻ってくるがその時にはもう張魯は彼に話しかけようとしなかった。
数刻後、張衛は張掖郡へ向かって馬車をとばしていた。
途中かなり進んでから、一人の兵と会った。
「これは、天師君側近殿ではございませんか。」
「陽羣か。父君はどうした。」
 彼の父は西海郡姦令陽平である。
「父は…。父は我が国が滅んだと聞いて自害しました。」
 張衛は沈痛な面持ちになって
「そうか…。それは惜しいことをしたな。」
 陽平はかつて南の国境にて活躍し、彼の守りがあまりにも堅いため、「陽平関」という関ができたというほどの将であった。
「そなたはどうする。」
「蜀に降ります。」
 張衛は陽羣を涼から脱出するのに誘おうかとしばらく考えた。
「側近殿は何のために西へ向かっておられるのですか?」
 それを無視し、張衛は問うた。
「蜀の登艾おそらく布教を認めぬだろう。そなたはそれをどう思う。」
 陽羣は即答した。
「我らは敗者なのです。勝者に従う義務がありましょう。」
 その言で張衛の決心はついた。考えてみれば彼の祖父で陽平の父である陽逵は馬超派の人物だったのだ。
「わかった。」
 張衛はそのまま陽羣と別れ、再び西へ向かった。
 −もう武威は陥落してしまったのだろうか。
実はその通りだったのである。
蜀漢軍が来ると、楊松・楊柏兄弟が勝手に城門を開いて出迎えた。
「我国は、大漢帝国に降伏いたします。」
楊兄弟は声を揃えてそう言い、並んで真っ先に武威に足を踏み入れた趙淑の前にひれ伏した。
「ほう、これは大層なお出迎え。かたじけない。こちらはそれ相応の礼はせねばなるまいのう。」
「では…。」
そう言って二人が面をあげた時、趙淑の剣が一閃。二人の首をはねとばした。
 −「五斗米道信者はすべて抹殺せよ。」
これが登艾の指令であった。
涼の各郡の信者は全て抹殺しながら進んできた。そしてそれを逃れた信者は全て武威に集結していた。玉砕するために−
こうして大虐殺が始まった。
 鬼民軍の兵達は逃げまどうが、次々と殺されていった。
 姦令長張富も趙淑に一刀のもとに斬り捨てられた。
大祭酒閻圃は自らの胸を突き、既に殉死を遂げていた。
筆頭祭酒・山民はどこへか姿を眩ませていた。
こうして武威は赤い霧に包まれた空の下、武威は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
劉甚、登艾率いる本陣が到着する頃には城内は赤い霧に包まれた血の海となっていた。
「丞相代理閣下、張魯がいると思われる祈祷室にはまだ手を付けてはおりませぬ。」
「うむ…よくやった…ぞ。」
劉甚はこの光景を見て卒倒しそうになった。
 −争い…それは他の動物達も縄張りを巡ってするものだ。しかし我々のしている事は何かが違う…。
 −「平和のために戦うというのが矛盾しております。なぜなら平和と争いは対語だからです。つまり戦いに赴く事自体が平和を乱す事となるのです。」
 紫虚上人の言葉が劉甚の心の中に蘇る。
「どういう事だ登艾。」
「五斗米道を…残して置けば…後に必ず災いを…招きましょう…。だから…残らず殺し…たのです。」
「もうよい。」
「残酷な…事だと…お思い…ですか。」
「お前はそうは思わんのか。」
「思います…。しかし…五斗米道を…残せば…禍根を…残すのは事実…でしょう。」
「確かにな。しかし…」
「残虐です…。非道です…。血も泪も有りません…。殿下の考え方は…多くの人間に…感動を与える…でしょう…。その方法で…天下が…一つになるならば…私はそれを…したでしょう。…しかしそうは…参りませぬ…。だから殿下は…いつまでも…その考えを…持ち続け…聖人君主で…あって下さい…。悪名は…すべて私が…引き受けます。」
そう言いきって登艾は趙淑と共に神殿へ歩いて行った。
 登艾は一気にたくさんの事を話したのでむせていた。
−また負けた…。
劉甚はまたもや登艾に言い負かされてしまったのである。
趙淑と登艾は神殿へ入るとまっすぐ祈祷室へ向かった。
祈祷室へはいると黒い衣装の男が一人、太陽に向かって手をかざしている。
「あの男がおそらく張魯ですな。」
「ああ…。」
登艾が生返事をする。
「おい…張魯よ…御辺はどうする…のだ。」
張魯は何も言わない。
「閣下がああおっしゃってるんだ。何とか言ったらどうだ。」
趙淑が張魯の黒頭巾をひっぱがしたとき…彼らがみたのは茶こけて乾燥しきった張魯の顔だったのである。


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