[一]五斗米道の行く末


張衛は相変わらず張掖郡へ向かって馬車を走らせている。
−あれだ。
地平線に一つの郡が見えた。
あれこそ張掖郡である。
この郡は対異民族対策の総本部のような物なので相当立派に建てられている。
その頃張盛は庭にいた。
彼にも細作から武威が落ちた情報は伝わっている。
−今後の身の振り方を考えねばな。
張盛は弓をつがえた。
狙いは庭に植えてある青竹である。
弦はキリキリと音を立てて引き絞られる。
張盛がその手を離すと矢はささまじい勢いで飛び、心地よい音を立てて竹に突きたった。
竹はは幹が丸いため滑りやすく、丁度芯をを射なければ矢が突き立つことはない。
つまり張盛が弓の名手であるということである。
 彼は弓だけでなく大直刀の腕も相当なものであった。
 その武勇故にこの様に異民族に対する抑えのような事をしているのである。
「副姦令長殿。」
 沈黙を破る声が庭に響きわたった。
「金韋(字は徳韋、金尚(元休)の子で金旋(元機)の甥)か。そなたの治める西郡はどうした。」
「天師君側近様がおみえになっております。」
「叔父上が?!」
張盛は暫く考える素振りをした。張盛は弓を置いて立ち上がった。
「叔父上。何を伝えに参ったのですか。」
張盛が早速尋ねる。
「五斗米道をお前が伝えていく事をだ。」
 −やはり蜀では教えが認められぬか…。
「兄上ではないのですか。」
「あやつは蜀にすでに顔が割れており、逃げても探される。」
「それは私とて同じ事では?」
「それには対策がある。」
張衛は懐からはけを取りだした。
そしてもう片方の手には墨の入った壷を持ち、自らの髪を染め始めた。
「儂とお前は叔父と甥だけに容姿が似ておる。そこで儂がお前になりすますのだ。」
「叔父上…。」
−叔父上は歳をとっている割にはしわが少ないから大丈夫だろうと思うが…。
「儂が乗ってきた指南車という馬車は常に南を指す人形が付いておる。それでまだ降伏していない姦令達を連れ、この国を出ろ。あの車には、教典百七十巻と九節杖が乗っておる。それから西海郡は既に降っておる。さあ、急ぐのだ!」
相当な早口で言ったので張盛は理解するのがやっとだった。
「はい。」
張盛は弓を取り、郡の金を持って走り出ていく。
−これで儂の役目は終わった。
張衛は馬のひずめの音が城から遠ざかっていくのを確認し、持っていたはけで壁に「もはやこれまで」となぐり書きすると匕首で自ら胸を刺した。
 鮮血がみるみる衣服を朱に染めて行く…。
「兄上…今…参ります。」
こうして張衛は息絶えた。
一方、張盛は信頼できる共を連れ、指南車で更に西…酒泉郡へ向かっていた。
酒泉郡の姦令は閻圃の嫡男閻行だった。
閻行と張盛は幼なじみで、閻圃の父、閻象が五斗米道に仕官した頃から互いに直刀の腕を高めあっていた。
張盛が弓の鍛錬をするようになったのは直刀で閻行に歯が立たなくなったからである。
酒泉郡と張掖郡はそう遠くない。
だから数刻で酒泉郡へたどりついた。
「彦明(閻行の字)!」
閻行が喜びを隠しきれない顔で張盛を迎える。
「元宗(張盛の字)ではないか!」
「久しぶりだな。何年ぶりであろう…。」
「それぞれ任地に赴いてから一度も顔を合わせてなかったからなあ。」
「死ぬ前にお前の顔がみられた事、嬉しく思うぞ。」
「待て。」
張盛の顔つきが変わった。
「俺がここを訪れたのは共に命を絶つためではない。」
「しかし国に殉ずるのが我々の勤めではないのか。」
「我々は国を守るために努めるのではない。教えを守るために努めるのだ。そして教えがなくならない限り殉ずる事は認めぬ。」
「ではこれからどうやって教えを守る?」
 張盛は指南車を指した。
「あれを見よ。あそこには教典である太平清領書百七十巻がある。あれを持って蜀を出る。土地がなくとも教えは残る。いや、教えとは元々人の心の中にあるべきもの。俺がここに来た目的は彦明、お前に力を借りるためだ。」
「元宗…・。」
 閻行は張盛の手を握りしめた。
「分かったぞ元宗、俺も教えを残すため、力を貸そう!」
「ようし!残るは最西端・敦煌姦令の楊昂殿だ。」
 その時城内から声がした。
「お呼びですかな。」
 張盛は驚いた。
「おおっ、楊昂殿!彦明、どういう事だ?」
「先刻よりいらしておったのだ。今後どうするかと相談をしにな…。」
「お話は伺いました。私めも倅の任とともに教えを守る事に粉骨砕身、努めるつもりにございます。」
「これは有り難い。」
「これからいかが致せば良い楊昂殿。」
「まず目立たないようそれぞれ分かれてこの国を出る事が先決ですな。それから新天師君はもっと偉そうに呼び捨てでお呼び下さい。」
「どうもそういうのは慣れぬなあ。…・」
そして五斗米道再興の道は開けて行くのである。


涼という宗教国家自体は滅んだ。
登艾は蜀漢の諸将に実力を見せつけたのである。
武威より西方の西海以外の四郡も残された者達が降伏し、すべての領土が蜀漢に併呑された。
こうして劉甚らはようやく帰路に着いた。
成都で凱旋したとき、北伐の総大将劉甚は完全に大英雄にされており、「勇太子」とまで呼ばれるようになっており、太子の座をさらに不動のものとした。この北伐を提案し、劉甚を補佐して活躍した登艾も丞相代理から正丞相へと出世を果たしたのである。
そして…
「英衡!」
崔玲は歓喜の微笑みで劉甚を出迎えた。
「今帰ったぞ玲。土産がある。…ほら」
 劉甚は懐から何かを取りだし崔玲に渡そうとして、崔玲が受け取ろうとするとすぐに持ち上げてしまった。
「なによ。それ。」
 崔玲は必死に背伸びをして劉甚からの土産を奪おうとした。
「はははは。」
 劉甚はしつこく崔玲に土産を与えようとしない。
「きゃ…」
 崔玲は長時間の背伸びに耐えられずに前へ倒れそうになる。
「あ…」
 劉甚がその崔玲を抱き止めた。
 崔玲が頬をほんのりと薄桃色に染める。
 劉甚は暫く彼女を離そうとしなかった。
 崔玲の体からは彼女がいつも炊いている香の香りがした。
 −懐かしい。彼女の匂い…。此処が…此処が俺の帰るべき場所なんだ…。
 劉甚はそう思った。
「あ、あの…英衡。」
 劉甚が手に持っていた物を崔玲の髪にさす。
「あ…。」
 やっと劉甚が崔玲を離した。
 離れた瞬間二人は目が合い、劉甚は初めて崔玲の赤くなった顔を見た。
 崔玲は次の瞬間もうあちらを向いて髪にさされた物を確認していたのだが…。
 −なんだ…。玲はいつも生意気な顔かと思っていたらあんな可愛らしい顔もできるのではないか。
 崔玲は髪からとって確認するとそれは笄であった。
 木製で、瑠璃で唐草模様が描かれている。
 唐草模様、瑠璃は共に西方諸国から入ってくる異文化である。
「叔父上から聞いた…。求婚するときは笄を贈るのが習わしだと。前はすまなかったな…。短剣など贈ったりして。」
「いいのよ。あれも英衡らしくて良かったし…それに英衡が私のために造ってくれたんだもの。」
 崔玲は劉甚の方へ向き直る。
「有り難う…。英衡。」
 崔玲はめいっぱい微笑んだ。
 顔を薄桃色に染めたまま…。
 劉甚の今まで崔玲を見た中で一番いい顔だった。
今度は崔玲が劉甚をそっと抱きしめる…。
「がぁぁぁ」
劉甚は声にならない呻き声をあげた。
よほど姜維にやられた傷に響いたのだ。
「どうかしたの?英衡。」
 劉甚は傷を指した。
「この傷はなぁ…」
こうして劉甚の長々しい武勇伝が始まり、崔玲一人がその場で楽しそうに聞き入っていた。
 劉恂はこの光景を見て嘆いた。
「私は何故こんな莫迦な事を…。負けると分かっていたのに。」
「今夜は飲まれるのですね。私もおつき合いいたします。」
「幼衡…。」
「では私も…。」
「士載殿…。」
登艾は微笑んでいたが彼にも泣きたい事情はあった。
凱旋中、屋敷の使用人から聞いた事があったのだ。
「陳泰が死んだ。」
 と


 その夜三人はと共に酒を飲んだのだが実に静かなものだった。
「登艾殿、何かあったのですか?」
 まず喋ったのは劉遽だった。
「実は…昔の仲間が…訪ねてきてくれて…おりましてな…。頼りになる…仲間でしたよ…。それが…昨日…死んだのです…。」
「はあ…。登艾殿は魏から亡命してこられ、まだ肩身の狭い身…。一人でもお仲間が欲しいところでしょう…。心中お察しいたします。」
「ふう…。」
 登艾は一息つくと杯の酒を飲み干した。
「おい幼衡」
 先ほどまで机を睨んでいた劉恂が喋り始めた。
「我らが遠征に出ておる間姐上に手出しはしておらんかったろうな。」
 劉遽はしばし間をおいた。
「唇を…奪いました。」
 劉遽は何故兄のいらいらに火をつけるような事を言ったのかよく分からなかった。
 ただそれは隠しても何の意味もない事だった。
 −酒のせいかも知れぬ。
 劉恂はゆらりと立ち上がった。
 そして椅子を蹴り倒した。
 椅子が倒れる音が静寂の中響きわたった。
「貴様…。」
 そう言ったとき既に劉恂は登艾に後ろから羽交い締めにされていた。
「離せ登艾!」
 劉遽は杯に手をやり、俯いたままだった。
「兄上…。姐上が兄上の笄をつけ、婚約が公になってからそんな事をして何の意味があるというのです。」
 劉遽は至って冷静だった。
 劉恂は振り上げた拳を下ろし、肩から力を抜いた。
 すると登艾も手を離し、三人とも椅子に戻って飲み直しとなった。
 この後三人は一言も喋らなかった。
 ただため息ばかりついていた。
 そのうち劉恂がつっぷしてねいびきをかいてむり、劉遽が杯を手に俯いたまま小さな寝息を立て始めたのを確認した後、登艾は自邸に戻った。
 そしてその日の夜は更けて行くのだった。


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