[二]嵐の前兆


 −なぜだ…。
 劉甚は考えた。
 彼の体は金銀のきらびやかな婚礼衣装で包まれ、そして彼の足は確実に諸葛邸へ向かっていた。
 周りから民衆のざわめく声が聞こえる…・。
 喜びざわめく民衆を太子衛率・陳到いる兵が必死にくい止め自分のために道を開けていた。
 劉甚は自分が何故こうしているのか一から考え直す事にした。
 彼はこれから「親迎」と呼ばれる行事を行う行事である。
 親迎とは新郎が新婦を迎えに行くというもので、納采(結納の件)などのあと、清期(日取りの取り決め)済んでから行われるものである。
 花嫁の方は言わずと知れた崔玲なのだが、こうも突然ことが運んだのは張皇后に原因があった。
 彼女が病床にあって、「死ぬ前にお前が嫁を貰うのを見ないと安心できない」と漏らしたのである。
 劉甚の婚約者として、共にそれを見ていた崔玲は「英衡…。」と呟いて彼を見上げそっとその手を握りしめたのだった。
 −母上は我々に機会を与えて下さったのだ。
 劉甚は早く崔玲と共に暮らしたかったが、恥ずかしがり屋な彼はなかなか言い出せず、張皇后もそれを悟ったのであろう。
 それに下手な時期に母に死なれても喪に服さねばならず、三年はお預けとなるし、病床の母を放って婚儀などというのも行いにくかったのである。
 ついに諸葛邸に着いた。
 劉甚はそれを見上げる。
 門は開かれ背の高い衛兵が両側に一人ずつ立った。
 門の奥には崔玲が諸葛瞻に連れられ出てくる。
 新婦の崔玲も新郎の劉甚と同じくきらびやかな婚礼衣装に身を包んでおり、その他髪飾りに耳飾り。顔は…俯いていてよく見えない。
 そばには諸葛瞻の二子、尚、京もついている。
 いずれにしてもめでたい衣装で着飾っていた。
 諸葛瞻は劉甚に崔玲を引き渡すとき、しわの多い顔を更にしわくちゃにして笑った。
 劉甚はそっと頷く…。
 崔玲の後からは侍女の行列が付き従う。
 花嫁行列である。
 諸葛邸を出ようとしたときだった。
 劉甚は崔玲の顎に手を伸ばした。
「えっ!?」
 そして化粧でさらさらした顎を掴み、引いて俯いた顔を強引にこちらに向けさせた。
 その顔は化粧を厚く塗られ、純白に染まっていた。
 更にその白からくっきりと浮き上がる鮮やかな紅をひかれ小さな唇と、美しく形を整えられた漆黒の眉…。
 劉甚は更に顔を近づけた。
 彼女がいつもたいているのとは全く違う上等の香の甘い香りがした。
 化粧で白くなった崔玲の頬に朱みがさす…。
「英衡?」
「本当に玲か?」
「え?」
「いや、余りに綺麗だったものだから…。」
「莫迦。」
 そう呟いて崔玲は軽く劉甚の肩を突いて再び俯いた。
 −玲だ。
 化粧をした崔玲は本当に綺麗だった。
 彼らはこのまま新居へ向かう。
 更にその付近では多くの友人が二人を祝うために待ちかまえている。
 古代、中国にあって婚姻は悲しい行事であった。
 それは新婦側が手塩にかけた娘を送り出すから…と言う理由もあるが、子どもが生まれ、新しい世代が生まれると逆に上の世代は歳をとり、死に近づくという理由からであった。
 しかしこの時代にあっては、悲しいというイメージは拭われ、徐々に祝う傾向が出てきていた。
 酒肉が配られ酔った者達がその時最も騒いだのは老将軍緒燕であった。
 張苞はただ「幸せにな。」とだけ声をかけた。
 その義弟関興はただただ見送るばかりで、劉甚と目があったときはわずかに微笑んだ。
 皇帝劉禅、張皇后はこの様子を宮城から見おろしていた。
 また成都の民もこれを喜び、あちらこちらで華やいだ雰囲気が漂っていた。


 そして婚儀の締めくくりは…初夜であった。
 当時は邸の中に青い布で天幕状の部屋を作り、新郎新婦の初夜を過ごす場所とする習わしがあった。
 更に新郎の友人達が外で耳を済ませるという風習がある。
 無論、布一枚隔てているだけだから大概の声は聞こえてしまう。
 だから当時の新郎新婦は初夜にほとんど声を出さなかった。
 このころになると、徐々に簡略化されてきて部屋の入り口に青い布を垂らす場合が多くなっていた。
 さて、話を戻す事としよう。
 劉甚、崔玲もその「締めくくり」に至った。
 劉甚はその青い天幕をくぐり、新居の寝室に入った。
 中ではすでに寝衣に着替え、俯いた崔玲が寝台に座って待っていた。
 彼女の体は清められたらしく、髪はしっとりと濡れ、流れるように解き放たれていた。
 彼女が天幕の起こす小さな音に反応して顔を上げた。
 化粧はすっかり落とされ、元の彼女に戻っていた体も塗れており、彼女が顔を上げたとき、一つの滴が彼女の前髪から落ちて彼女の腿を濡らし、劉甚の体を熱くした。
 二人はじっと見つめ合ったまま声を出さなかった。
 崔玲はやはり意識していたらしく顔を赤らめていた。
「瑛姫…だ。」
「?…ああ、私の字ね。」
 女人は二十歳を迎えて成人したときは親が、婚約・結婚したときは男性が付けるのが習わしだった。
 劉細君、王昭君等の例に見られるように前漢、後漢両王朝の女人の字には一般的に「君」がついたのに対し、蜀漢の女人の字には一般的に「姫」がついた。
 また、字は名に似た意味の字を使う事が多かった。
 崔玲に付けられた字、「瑛姫」の「瑛」と名の「玲」には王へんという共通点がある。
 また、「瑛姫」の「瑛」と劉甚の字の「英衡」の「英」は同じ発音である。
 おそらくこれは劉甚が自分の字の一字を彼女に与えるという意味のものであろう。
「瑛姫の瑛が何をさすか解るか。」
「……。」
 崔玲はこういう劉甚の質問には答えない方がよい事を知っている。
 劉甚はこの後の解答の解説が楽しみで人に質問を浴びせるのだ。
「瑛の意は透き通っていて美しい光を放つ玉…。」
 劉甚は崔玲を寝台から立ち上がらせ、そっとその頬に触れた。
「お前の瞳だ。」
 崔玲は更に頬を赤く染める。
 涼遠征から帰ったとき、崔玲にもこの様な顔があると知ってから彼女を照れさせるのは劉甚の楽しみに一つになっていた。
 忘れてはならないのがこの声は布一枚通して外に筒抜けだということである。
 しかしそのような事は劉甚は先刻承知だった。
「それを言うなら劉甚の瞳だってすてきよ…。氷のように鋭いけれどどこかに優しさが残る瞳…。」
 劉甚は突如話を変える。
「俺は以前から人はなぜこの様な行動に至るのか考えていた…。私はお前の中でもそのきょろきょろ動く目が最も好きだ。次が小さな唇…。欲の限りない人間にとって更にそれに触れてみたいと考えるのは当然の事ではないか。」
 崔玲の華奢な両肩は劉甚の両手によりそっと抑えられた。
 劉甚が彼女に顔を近づける…彼女はどぎまぎしていたがどうにでもなれといわんばかりにぐいと目を閉じた。
 唇が触れあう…崔玲は手のやり場に困っていたがなんとなく劉甚の胸に手をやり、彼によりそった。
 暫くして劉甚が唇を離すと熱い息を一度はいて、崔玲は上目づかいそっと劉甚を見上げた。
「私達が唇を交わすのは始めてね。」
「…違うな。」
「えっ!?」
 劉甚が顔をしかめる。
「憶えておらんのか?もっと小さな頃だが。」
「…」
 崔玲は弱った顔をして俯く。
 −崔玲の困った顔もまたいいな…。
「ならばしかたあるまい。思い出させてやろう。」
 劉甚は崔玲の手の上から背に手をまわして、彼女を抱きしめ再び口づけをした。
 彼女の体の柔らかな感触が薄布を通して劉甚に伝わり、劉甚の鼻には湿った彼女の髪の香りが漂ってきた。
 そして今度は先ほどのような乾いた口づけではなく、深く熱く激しい…まるで互いの唇を深く味わうかのような口づけだった。
 一方天幕の外では異変が起きていた。
 外にいた皇族、そして譜代の家臣達がある報告を受けて宮城へ向かい始めていた。
 劉恂もその中にあって共に聞き耳を立てていた弟・劉遽を伴おうとしたが彼は壁にもたれて眠っていた。
 −おい、幼衡!
 顔を叩いて起こそうと劉遽の頬に触れたときに劉恂がある感触を感じた。
 泪で濡れた跡だった…。
 劉恂は少し頬をゆるませた後、彼を起こさずそのまま宮城に向かったのだった。
 その男の心にはかつてのような、自分が最も崔玲を想っているというような考えはすでになかった。
 その日、男子禁制のはずの後宮には多くの譜代の重臣達が詰めかけた。
「具合はどうなのだ。」
 張皇后の侍女である王氏に妹の身を案じる張苞が声をかける。
「それが…。」
「そんなことより皇帝陛下はどうなされたのだ。」
 皆動揺し口々に言いたいことを言っていた。
 そしてその動揺を煽るかのように張皇后は寝台の上で悶え、唸り、叫び、魘されるばかりだった。
「みなさん、お静かになさって下さいまし…。」
 事情を聞こうと群臣は静まった。
 王氏がそっと口を開いた。
「皇后陛下は子を身ごもっておいでです。」
 群臣はざわめき始めた。
 劉恂は自らの口を抑えた。
 −ばかな…。
「しかし本来陛下は子を生むには無理のあるお歳でらっしゃいました。しかも病と時期が重なり、とても衰弱しておられます」
 群臣のざわめく声は大きさを増した。
 劉恂はどうしようもない戸惑いに借られた…。
 −まさか…こんな…母上!…母上!……。
「皇帝陛下はいずこに有られるのです。」
 関興が大きな声で言う。
「皇帝陛下はおつとめの最中で、いらっしゃいません。」
 劉恂は口にあてていた手を握りしめた。
「父…上…。」
 声が震え、顔がみるみる赤く染まっていった。
 知性派の劉恂でも怒りを隠すことはできなかった。
「み…皆に話しておかねばならぬことがあります。」
 やっとのことで張皇后が口を開いた。
「皇后陛下!」
 多くの者達が寝台の周りに群がった。
「母上!」
 劉恂も続いた。
「私は…張氏の者では…有りません。」
 緒燕が前へ出てきた。
「陛下…。」
「私はそこにおられる驃騎将軍(緒燕のこと)の娘です。」
 群臣の視線が突然緒燕に集まった。
 劉恂も思わず、突如祖父だと告げられた男を見た。
 緒燕は群臣の視線を浴びても表情を変えず、ただ目の下にしわを寄せ悲しそうな目で自分の娘を見ていた。
 そして張苞も血がつながっていないと告げられた妹を驚嘆の眼差しで見つめていた。
「私は当時娘のいなかった桓侯閣下に養女として迎えられたのです。だ…から、驃騎…将軍の…一族を外戚…とし…て扱うよう…。」
 それを言った後に再び皇后は悶え始める。
「ああ…ああっ!」
 一つの大きな叫びと共に彼女の命の灯は消えた。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。」
それと同時に一つの報われない命の灯に火がついた。
 その赤ん坊の元気な泣き声は沈黙の群臣の中をずっとこだましていた。
「張…話したいことがあるのだが。」
 張と呼ばれたのは張一族の当主張苞の弟で現在「侍中」を勤める張紹・・。
「安平王殿下…。」
 そしてその手を引くは元太子劉文衡であった。
「ささ…こちらへ…瑶、綜、讚、うぬらも来んか!」
「は、はい長兄。」
 そしてこの五人は何処かに姿を消したのだった。
 こうして闇の中で言葉が交わされているとも知らずに                                                                                               
「んん…。」
 −息が出来ない…。
 崔玲は困った。
 劉甚は右手を彼女の後頭部に、左手を彼女の腰にあて、手繰り寄せるように強く抱きしめ、まだまだ口づけを続ける体勢を作っている。
 そして崔玲も両手を劉甚の腰にまわし、それに答える体勢を作っているので、今強引に離すわけにはいかなかった。
 −もし強引に離せば誤解されるかもしれない。
 そんなことを考えているうちにもどんどん彼女の息は苦しくなっていった。
 しかし更に変事は起きた。
 先ほどまで崔玲の下唇辺りをなめていた舌が、突如歯の間をこじ開けて侵入してきたのだ。
 彼女は混乱した。
 崔玲はあらゆる点において劉甚より無計画だったのである。
 しかし彼女はその時とっさに上唇に当たる劉甚の熱い鼻息に気付き、自分も鼻で息を始めた。
 そして劉甚の舌に抵抗を始めた。
 彼らの口の間ではくちゃくちゃと音をたてて正に「舌戦」が繰り広げられていた。
 劉甚は抵抗されるとは思わなかったので、決着を焦った。
 劉甚の右手は崔玲の後頭部から離れ、崔玲の鼻をつまみ、一気に彼女を寝台に押し倒した。
 糧道を断たれた上に、勢いをつけられてはすでに崔玲の舌に勝機はなく、崔玲の口内は劉甚に占領され、嘗めまわされた。
「んん…。」
 寝台に頭を押しつけられた崔玲が呻く。
 −気持ち悪い…。
 そもそも人の唾液というのは旨いものではない。
 崔玲も右手で劉甚の鼻を摘んだ。
「ぷあぁ」
 やっと劉甚は口を離し、そのまま崔玲の上に倒れ込んだ。
「莫迦らしい…。くっくっくっく…。」
 崔玲は笑い始めた。
 しかし劉甚は反応を示さない。
 劉甚は体を起こした。
「英衡?」
 彼の目は座っていた。
 劉甚は崔玲を抱えて、ちゃんと寝台に寝かせた。
 彼女は両手を劉甚に向かってさしのべる。
 劉甚はそれに答えるように崔玲にのしかかり、その間に顔をうずめた。
「瑛姫…。お前のすべてが知りたい。」
 崔玲は少し微笑んだかと思うと、劉甚の頭のうしろで手を組んで劉甚を捕まえた。
「教えてくれ。」
 そう言うと劉甚は崔玲に更に顔を近づけていった。
 彼女は今度は抵抗をみせなかった。
「ああ…」
 これ以降は読者諸君の想像に任せるとして、こうして彼らの初夜は始まった。
 彼らは明日の朝どれほど恐ろしいことが起こるかなど知るよしもない。


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