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古代中国における最大の王朝・漢の崩壊後、天下は北に曹操の魏・西に劉備の蜀・南に孫権の呉という三つの王朝に分かれて争った。しかし、後世の歴史家達により三国時代と呼ばれることになるこの時代も長くは続かなかった。
劉備の死後、愚帝として有名である禅が即位した蜀は諸葛孔明の奮戦もむなしく孔明の死の約三十年後、魏によって滅ぼされた。二年後、その魏も孔明の好敵手であった司馬仲達の一族が内乱を制してその孫である司馬炎が晋王朝をたてた。こうして三国のうちの二国が相次いで倒れ、天下は晋と呉により争われることとなったわけである。
物語はその三年後である二六八年の荊州。この荊州と呼ばれる地域は中国大陸の中央にあり、三国時代の三王朝が奪いあってきた土地である。
三国時代の序盤、この土地を領有していたのは蜀であった。しかし二二一年、魏と呉の共同作戦により、襄陽以北を魏、江陵以南を呉が領有した。それがそのまま晋と呉の国境となっている。
晋の初代皇帝司馬炎は呉に攻め込むことよりも国力を高めることに重点を置き、ここ数年平和な時代が続いていた。晋は起こったばかりの王朝だったが、呉の皇帝孫皓も即位したのは蜀が滅んだ後で魏が滅ぶ前。司馬炎とは在位年数が一年しか変わらない。両帝共に即位したばかりで、お互いまずは穏便に国力を高めていたのである。晋側の前線基地襄陽にいる将羊古、呉側の前線基地江陵にいる陸抗。二人ともかつては音に聞こえた名将で、その功によりそれぞれ荊州都督に任命されていたわけだが、どちらも平和を好みお互い戦争を仕掛けることは無かった。彼らは毎日国境を挟んで訓練を行い、互いの兵の鍛錬が万全であることを確認し引き返して行くだけであった。
……たった三年の平和というものは長い歴史の中で見ればほんの一瞬にすぎない。だが、その時代に実際に生活していた人々にとってはとても長いものに感じられた。そして、彼らはこの平和が永遠に続くと信じて疑わなかった。
真昼の長江・・・その眩しいほどの真夏の太陽の輝きの中、一艘の舟がその大河を渡っていく。その上には二つの影があった。
そのひとつ。舟を漕ぐ青年羊秀は額の汗を拭っている。
今、彼は今までも毎日そうしてきたように、晋の都督荊州諸軍事−晋の前線司令官である従兄・羊古の偵察を護衛している。
羊秀は役職の上では羊古の司馬−軍務補佐官にあたる。
しかし、目の前に座るその壮年の従兄羊古の様子が今日はいつもと違っていた。
偵察中、従兄は常に自分と談笑しているのに対して、今日は難しい顔をして黙っている。
偵察中いつも談笑しているというので、意外に思われるかもしれないが、ここ三年呉との国境線において小競り合いさえ起きていないのである。つまり国境を侵さない限り奇襲などあるはずもなく、偵察と言っても暇つぶしのようなものなのだ。
羊秀は従兄に言われる前にいつもと同じ辺りで、舟を方向転換させようとしたそのとき
「止めるな」
それは確かに従兄羊古の発した言葉だった。
羊秀はなるべく平静を装いつつ確認する。
「しかしこれ以上進めば対岸の矢の射程距離内に入ってしまいます」
羊秀の虚勢をうち破る一言が羊古の口から発せられた。
「渡りきる」
さすがに羊秀も動揺を隠せなかった。
「えっ?!」
羊古は明言した。
「今日はここで引き返さずこのままこの江を渡りきる」
「あ、従兄上。いつもの冗談ですよね。そんな国境線を越えるなんて…」
「本気だ」
従兄のあまりに真剣な表情から羊青年は本気であると悟った。
「従兄上…つまりこういうことですか…」
羊青年は自分の従兄を真正面から見据えた。
「陸抗の動向を探りに行く…」
羊古はしばらく間をおいて
「近頃、陸抗が対岸に大軍を一度に渡河させ、橋頭堡を建築しようとしているようだ。私はそれを自分の目で確かめてみたいのだ。危険だが…つきあってくれるか?」
と答えた。
羊秀の胸の中で使命感という名の炎がふつふつと燃えあがってきた。
呉の領地へ渡ってしまえば都督荊州諸軍事である羊古を守れるのはもう自分だけなのだ。
「もちろんです。ご安心下さい従兄上、この羊秀命に代えても従兄上をお守りいたします」
「頼りにしておるぞ。」
「はい!」
対岸に船を着けると、羊秀は素早く船を隠さなければならない。
船を発見されると、自陣に帰る手だてを失ってしまうので、素早く見つからないように茂みの中に動かないように船を繋ぎ止めた。
それが終わると、羊古は羊秀を伴い川に沿って歩き始める。
その道中で羊秀があまりにも周りを警戒しながら歩くので
「雅舒、そんなに警戒してはかえって怪しまれるぞ」
と羊古の苦笑をかった。
そんなやりとりをしているうちに行く先に村が見えてくる。
−村で聞き込みでもするのだろうか。
村にはいると華美な服装に身を包んだ、土地の豪族らしき男が羊古に挨拶をした。
「羊将軍でいらっしゃいますね?」
「ああ、そうだ。」
「宴の準備ができております。ささ、こちらへどうぞ。」
羊秀は事態の把握に苦しむのをよそに、その男に促されて二人はその男の屋敷であろう建物の中に招かれ、更にその中の広い部屋へと案内された。
「剣を預からせていただきます。」
白髭を生やした屋敷の執事らしき男が言った。
「ああ」
羊古はあっさり剣を預けてしまう。
「従兄上…」
羊秀が何か言いたげである。
今、自分が剣を渡してしまえば今目の前にいる大事な人を守れなくなってしまうのだ。
「いいから預けろ。」
「しかし…」
羊秀は食い下がる。
「いいから!」
羊秀はしばらく黙っていたが、
「かしこまりました」
と渋々従兄の言葉に従う。
そのあと二人は広間に案内され、その中で二人は並んで席に着いた。
正面に先客が一人いる。
口の上に豊かな髭を蓄え、立派な引き締まった体をしている。歳は・・・羊古よりやや年下といった感じだ。
羊秀が尋ねた。
「従兄上…こちらの御仁は…」
羊古が重々しい口調でゆっくりと言った。
「呉の鎮軍大将軍・陸幼節」
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