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 そして善は急げと言うことで、その日のうちに国境線である長江を越えることになったのである。
 津まで移動するために騎乗することになり、騎馬を前にして
「雅舒君。君が紅霞を運ぶかね?」
 陸抗がそう訊くと、陸紅霞は無表情に羊秀を一瞥する。
 そのとき、羊秀と初めて視線があった。
 羊秀はずっと陸紅霞に視線を奪われていたが、彼女が羊秀に視線をやったのは初めてだったのだ。
「いえ、陸将軍にお願いします」
 羊秀は大慌てで固辞するが、
「ほう、紅霞では不満かな?」
 陸抗が意地悪な笑みを浮かべる。
「いえ、そう言うわけではなく……わ、私はあくまで護衛ですので」
 羊秀の苦しい言い訳も
「ああ、だから彼女を守ってやってくれ。私たちの中で彼女だけは武人ではないのだから、おそらく最も武に長けた君が」
 結局簡単にねじ伏せられる。
 武ならいざ知らず、弁で智将陸抗に敵うはずがないのだ。
 羊古に助け船を求めようと視線をやっても、羊古は髭をしごきながら視線を逸らしている。
「淋鳴殿のお気持ちを確かめないことには…」
 結局陸紅霞に判断を任せることにする。
「……私は別にどなたでも構いません」
 陸紅霞は無表情そう答えた。
「決まりだな」
 こうして羊秀が陸紅霞を乗せることになった。
 男性が騎馬に女性を乗せるときは、男性が普通にまたがって騎乗している前方に横向きに腰掛けて男性の胸にもたれ、早駆けしても振り落とされない「女乗り」と俗に呼ばれる乗り方をする。
 そもそも漢民族の女性の衣装はのちの満民族のチャイナドレスのような、馬に跨るように股を割るような作りではないのだ。
 羊秀は年頃の女性をこのように騎馬に同乗させたのは初めてで不満と言うよりも、どうすればよいのか全く解らなかったのである。
 陸紅霞は終始無言で、羊秀の手に掴まって騎乗するときでさえ彼を見ようとはしなかった。
 彼女に負担がかからないように羊秀は極力ゆっくり騎馬を勧めたが、それゆえに騎乗でも陸紅霞は最小限しか羊秀に体を任せてこない。
 騎乗するときに手を掴んだときは彼女の手を冷たく感じたが、馬が揺れるときに時折触れる彼女の体はしっかりとした温かさをたたえていた。
 −他の男性をここまで拒むほどに彼女は前の夫を愛したのだろうか。
 もちろんそんなことを訊ねるわけにもいかず、彼女を見るとやはり自分には見向きもせず眉一つ動かさずじっと地平線をみていた。
 すでに日は傾き、彼女の視線の先では見る見るうちに陽が地平線に吸い込まれていく。
 −紅霞・・・か。
 紅霞には、「真紅のな夕焼け」という意味がある。
 彼女が生まれたときも、外はこのように真っ赤な空に包まれていたのかも知れない。  −紅霞。よい名だ。
 結局一言も言葉を交わさぬまま津に到着してしまい、船に乗り換える。
 船においても二人ずつ便乗することになり、やはり羊秀と陸紅霞とで一つの船に搭乗することになった。
 その頃には日はすっかり落ち、空には月が昇っていた。
 船に乗る準備の合間に
 −何のために私たちがこのように段取りをしているのかよく考えろ
 と羊古に注意され、羊秀は精神的に余裕が無くなっている。
 一方陸紅霞は船上においても水平線を見つめており、彼女の視線の先にあるのは今度は白い月だった。
 月の光が彼女の漆黒の髪に輝きを宿し、より美しく見せている。
 −恒娥・・・か。
 紅霞と恒娥は発音が似ている。
恒娥とは月に住む伝説の美女を意味し、日本で言う竹取物語や天女伝説のような伝承が伝わっている。
 −彼女は本当に月から来たのかもしれない・・・。
「さきほどからずっとこちらをご覧の様子ですが、何か御用なのでしょうか」
 羊秀の他愛もない思考はその一言によりかき消された。
「あ、あの・・・え、えと・・・」
 羊秀は頭の中が真っ白になり、にわかに混乱している。
 彼女の視線は相変わらず月に向いたまま。
 羊秀は陸紅霞のあまりの無反応さに、時間が止まったものと錯覚し自分の存在さえも忘れていたのだ。
 それに話しかけられた今もその声が本当に自分に向けられたのか疑い、周りに他の人間がいないか確認している。
「空が好きなんですか?」
 とっさに出た言葉がそれだった。
「御用はないんですね?」
 羊秀はあわてふためいた。
「よ、よろしければ、明日二人で襄陽の街を見てまわりませんか。」
 陸紅霞はしばらく間をおき、ゆっくりと目を閉じて言った。
「……はい」
 羊秀はようやく安堵する。
「では明日の朝お向かいに上がりますので、街に着いたらできるだけ早くお休みになって下さいね」
 それがその日、彼女と交わした最後の言葉となり、陸抗と陸紅霞を仮宿まで案内したときに、就寝の挨拶は述べたものの、彼女からの返事はなかったのである。

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