[6]


「従兄上!」
 羊秀は司令室に駆け込んだ。
「おお、雅舒か。」
 羊古は陸抗と雑談中だったらしい。部屋には二人と上座にもう一人…。
「お前は!」
 先ほどの伝令兵であった。
 羊古が立ち上がった。
「紹介せねばならんようだな。」
 羊古はその兵に目である合図を送った。
 兵はうなずいた。
「雅舒、落ち着いて聞けよ。」
 羊秀はわけがわからない。
「皇帝陛下。」
 数秒の間があった。
「はぁ?!ななななにをおっしゃっておられるのですか従兄上。この方が皇帝陛下であれば、洛陽からこの襄陽へ軍を率いてこられるのは誰なのですか」
 若き晋の皇帝司馬炎は
「叔父の司馬幹だ。実際に指揮しておるのは叔父達だ」
 と言った。
 司馬幹とは、司馬炎の父である司馬昭の同母弟で、軍を率いている他の司馬亮・司馬由・司馬駿と言った叔父達は異母弟に当たる。
 それを聞くと羊秀はひざまづいた。
「そうとは知らず、数々の無礼をお許しください陛下」
 司馬炎は呵々と笑った。
「よいよい。それより朕はそなたが気に入ったぞ」
 羊秀は平伏したまま恐縮している。
「そうだ!都にて朕のそばで仕えぬか?朕の周りには年寄りばかりで退屈でな。そなたがおれば退屈しなさそうだ」
 羊秀は平伏したまま言った。
「恐れ多くも申し上げます陛下。臣は従兄上を守るのが天命と心得ておりますゆえ…」  先ほどの考えをそのまま述べる。
 司馬炎は残念そうに
「そうか…」
 と呟く。
 羊古は言った。
「わかったろう雅舒。分立による平和は陛下の御意志でもあるのだ」
「我が国の陛下も同意しておられる」
 陸抗もそうつけたす。
「そしてこの縁談も両国の帝の御意志…」
 司馬炎はさらにつけたす。
「だが無理に婚儀を行わなくてよい。そなたの意志で決めるがよい。」
「臣は…」
 そう言いかけて羊秀はふと部屋の入り口を振り返った。
 陸紅霞はじっと羊秀を見つめていた。
 −私の気持ちは…。
「羊将軍!失礼いたします」
 羊秀の後ろから三人の壮年の男が駆け込んできた。
 羊秀は中央の男の顔に見覚えがあった。
 −杜太守!
 樊城太守、杜預、字を元凱。のちに羊古の跡を継いで対呉の司令官になる男である。
「部下がとんでもない情報を掴みました」
 杜預は振り向くと司馬炎に気付き、羊秀と同じように跪いた。
「陛下、ご無礼をお許し下さい」
「面倒な挨拶はいいから本題に入れ」
 杜預は顔を上げた。
「開戦派が陸将軍の入国を察知し、暗殺を目論んでいる模様です」
 羊古は間を置いて
「…それはまずいな」
 と緊張感のない声で言った。
 この拝謁しての和平交渉はお忍びで行われたものである。
 司馬炎がここにいるのはただの慰問を兼ねた巡幸であり、陸抗は本来ここにいる人間ではない。陸抗がここにいることが解れば、いかに羊古が平和に収める襄陽の町といえども恐慌に陥るであろう。そこに陛下が来ていたとなれば陛下を暗殺しようとした敵軍の司令官を討つという十分な大義名分が成立してしまうのだ。
「雅舒」
 更に間を置いて羊古は言った。
「はっ!」
 羊秀は相変わらずそばに控えている。
「陸将軍と琳鳴殿の護送を申しつける」
 羊秀は顔を上げた。
「従兄上!」
 羊秀は先程皇帝の前で自分の天命は羊古を守ることだと言ったばかりなのだ。
「お前にはもう俺以上に守るべき人が居るはずだ」
 羊秀は自分の心が解らなかった。自分が陸紅霞に魅かれているのは確かだ。しかし自分はどうすればいいのか。自分の感情と、両国の和平とでは天秤に掛けるには重さが違いすぎた。
「両国の共存という俺の夢を。雅舒、お前に託す」
 羊古のその言葉に羊秀は考えをやめ、目を見開く。
「…御意」
 その時はただそう言った。
「錫・周旨、御辺達は雅舒殿の下に付け。私は羊将軍と共に為すべき事がある」
 杜預は後ろに従えていた倅の杜錫と護衛の周旨にそう命令する。
「うむ」
羊古は満足そうに頷くだけである。
 この時既に羊古は一つ年下のこの男に自分の後を任せることを考えていたのかも知れない。
「今すぐ出発しろ!襄陽で最も早い馬を用意する。」
「はい!」
 すぐさま羊秀は陸抗・陸紅霞を連れて襄陽を出た。
 その場に残されたのは西晋の武帝・司馬炎と西晋の都督荊州諸軍事・羊古と樊城太守・杜預である。
 杜預が青年皇帝司馬炎に言った。
「陛下。開戦派はおそらく都からこちらへ向かっている陛下が偽物だと言うことは知らないと思われます。そこで、私が陸抗になりすまし、開戦派を攪乱しとうございます」 「羊古、それでよいのか?」
「御意」
 またも羊古の考えと杜預の考えは一致していたようだ。

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